換骨奪胎?

前々回の『いつか見た風景、どこにもない場所』の続きは、いつの間にか再版されていた『魔術師』を急遽取り寄せてもう一度読んだり(上下巻に別れた相当の長編)、DVDをキャプチャーし、日本語の字幕を入れてYoutubeにアップロードしたりするつもりなので、まだしばらくは時間がかかりそうだ。
そこで、nagonaguさんのレイプレイというゲームについてのエントリーを読ませていただき、思うところがあったので、先日の『アラバマ・ソング』の時と同様、またもやテーマを横すべりさせて急場を凌がせていただこうと思う。
レイプレイとは、いまネットで調べると、<痴漢をメインとした陵辱・調教ゲーム >、<鬼畜な世界観をリアルに楽しむのがメインのゲーム>というものらしい。詳しくはここをどうぞ。従来の一般的な道徳律からは著しくはみ出たようなことがいとも平然と書かれている。このようなゲームに対する需要と供給が商業的に成立するほどにあるということにも驚いてしまうが、<陵辱が苦手という人のために、公式サイトで全ての性癖がついた陵辱色抜きのセーブデータを公開している。このあたりの配慮も嬉しい>などという記述にも唖然とさせられる(強調体は管理者)。このゲームの目的にされている若い女性やとりわけ妊婦の方、そしてそのような女性を身近に持つ人たちにとっては到底許し難いようなゲームだろう。nagonaguさんによれば、そうしたアモラルな内容と、表現の自由との兼ね合いがいろんなところで問題になっているのだという。



先頃、俳優のデヴィッド・キャラダインが映画のロケ地であるバンコクで変死したというニュースがあった。ホテルで首を吊って亡くなっているところを発見され、最初は自殺と伝えられたが、性器にひもが巻かれていたり、ベッドの上に残されていた足跡が本人のものではなかったらしいなど、他殺の疑いもあるという。とはいえ、もし他殺であればこれも性欲というものが絡んだ猟奇的事件というようなことになるのだろうが、ここで私が書こうとしているのはそんなことではない。
私の知る限り、キャラダインの演じてきたキャラクターには常にある共通したところがあった。地味な脇役が多かったなかで、70年代に日本でも深夜に放映されていたTVシリーズの『燃えよカンフー』の主人公がその代表的なものといっていいだろう。つまり寡黙な思索者というのがその概ねの共通するキャラクターであった。それは彼の私生活から滲み出ていたものであったのかもしれず、あるいはハンサムな二枚目とは言い難い独特の風貌がそんな役柄を引き寄せてきたのかもしれない。ところが。
いわゆるカルト映画の代表的な作品として、その筋で大きくもてはやされてきた『デスレース2000』という映画がある。B級映画の王者といわれたロジャー・コーマンの製作になる作品で、アメリカ大陸を横断する間に何人の人間を轢き殺すことができるかということを競い合う自動車レースの映画である。轢き殺した相手が老人や子供など社会的弱者であればさらにポイントは高くなり、だから病院や幼稚園などのあるルートに入った車があると、TVで実況中継をするアナウンサーがチャーンス!などと叫んだりする。キャラダインはこの映画で主人公を演じていて、もちろん彼もこのレースの参加者だ。



キャラダインの操縦するレースカーが病院に通じるルートに入ったところで、アナウンサーが驚喜し、のみならず病院の看護師たちも喜んで車椅子やストレッチャーに載せられた老人たちを路上に提供する。この映画のクライマックスの一つといっていいシーンだ。だがキャラダインは老人たちの手前で急ハンドルを切り、植え込みの向こう側で見物していた看護師たちを次々と跳ね飛ばしていく。なんというカタルシス。キャラダインが老人たちを殺さなかったとはいえ、看護師を初めとする病院関係者はもとより、このシーンに怒りを露わにする者が多くいることだろうことは想像に難くない。



この映画も、レイプレイと同じように、あまりに非道徳的として問題になったことがある。若い女性を陵辱することを目的とするゲームと同じく、いくら作り物の世界であるとはいえ、小石を弾くように人の命を扱う映像が、大衆向けのために供されていいものだろうか。
いや、おそらく、小石を弾くように人の命を扱うというその表現自体の中に、答えのヒントがあると私は思う。いかなブラックなものではあるとはいえ、そこには現実離れした誇張が、徹底的なデフォルメが、つまりはそのブラックさを笑い飛ばしてしまうようなユーモアがあり、一方レイプレイの方には、これはまったく推測の域を出るものではないが、プレイヤーの欲望をそのままに肥大させていくような誇張はあるとしても、欲望自体を換骨奪胎してしまうようなユーモアはおそらくあり得べくもない。そんなものはむしろ最も忌むべきものとして考えられていることだろう。両者の間には、人間性(humanity、いうまでもなくユーモアの語源でもある)というものに対して、その考え方に決定的な違いがあるといわざるを得ない。第一、こんなレースに参加しておきながら、キャラダインは最後のところで弱者の側に立ってしまうのだ。
別な観点から考えるならば、1975年に作られた『デスレース2000』は、ヴェトナムで実際に起こったむごたらしい大量殺戮とその反戦運動、ヒッピー・レヴォリューション、フラワー・チルドレン、緑色革命といったヒューマニズムついての大変動を経験したからこそ可能になった映画であったと私は思う。ヴェトナム戦争の凄まじいまでの非人間主義、その恐るべき現実の経験を踏まえた上での、フィクション内における滑稽な殺戮のオルギア、それが『デスレース2000』であった。だが、レイプレイは、容易に推測されるところ、そうしたヒューマニズム埒外のことである。というより、ヒューマニズムというものの無化が、そのゲームを成立させる条件だ。従来のヒューマニズムにいかに反するようなことであろうと、現実の他者と関わることのない仮想空間内で行われるものなのだからそれらは許されて然るべきだ、こうした考えがレイプレイというゲームを成立させている。つまり『デスレース2000』は、好意的に捉えるならば、ヴェトナム戦争によって旧弊化したヒューマニズムを同時代精神に適正に即応させるべくその基準をシフトさせようとしたのに対し、レイプレイは、仮想空間内にある限りという最低限のルールだけを設けておいて、一切の人間主義が無化された条件をその空間内で享受する。ということは、アフガン、湾岸、イラク等と続く戦争によって、ヒューマニズムの基準がさらに激しく変位したことが、レイプレイというゲームが出てきたことの背景にはあるのだろう。と単純に言い切れるものでもないとは思うが、少なくとも何らかの要因にはなっているだろう。だからといって私個人は、いくらこれも表現の自由だといわれたところで、レイプレイというゲームを許容したいとは思わない。むろん権力が非道徳的であるという理由で規制することなど論外ではあるが。またいわゆる識者たちが心配するところの、仮想空間内における無倫理性の体験が現実空間に持ち込まれることの可能性については多様な判断があり得るだろうが、そんなことよりも、いくら仮想空間内とはいえ、自己の欲望のために他者を陵辱するという行為自体、観念的にあまり許されたものではないと私は思う。それが知性を持つ人間のあり方だ。これは表現の自由というテーマとは別問題だ。
ところで、近年、デヴィッド・キャラダインの出た映画ではなんといっても『キル・ビル』だ。クェンティン・タランティーノが、キャラダインが主人公を演じた『燃えよカンフー』と『デスレース2000』の内容をこの映画で合成しようとしたことは明らかだ。中国の老賢人に武術を習うという同一のエピソードが出てきたり、全編が血しぶき舞い散る決闘シーンの連続でありながら、いたるところでその血腥さを換骨奪胎させてしまう誇張と滑稽のオルギアでもある。そのオルギアの中でキャラダイン演じるビルひとりだけが、終始、残忍な殺戮者にして寡黙な思索者であり続ける。
少なくともタランティーノならば、アフガン、湾岸、イラク等の戦争をへた後で映画表現はどう変わるべきか、どう変わらざるを得ないかということについて、考えていそうだ。




今日のYoutube
Mozart's Greensleeves 「グリーン・スリーヴズ」

これをYoutubeにアップロードした人は、この曲のあまりの美しさに、モーツァルトの曲と思い込んだのだろう。その勘違いを指摘するコメントが沢山寄せられている。

豊穣な、無垢のとき

前回のエントリーの続きは次に回し、今日はこのブログでは3度目の合同援農について。


私が経験した限りでは今までで最大の人数であった。下は5歳くらいから上はおそらく70代半ばまで、昨年の12月16日に植え付けたタマネギの収穫を行った。あのときはぽかぽかとした小春日和が有難かったが、今日は気温も幾分低めの薄曇り、ときおり涼しい風も吹き、野良仕事にはこれ以上ないという条件であった。昨冬に植え付けたのはすでに数十センチに育った苗だったので、1個のタマネギが育つにもたっぷり半年以上の時間が必要だったというわけだ。





朝七時過ぎ、改築なったいこい食堂に釜ヶ崎の人たちが集まり始めた。YMCAのOBや同志社大神学部の学生など若者も数名加わり、合計20名が釜ヶ崎から出発した。





前日から泊まり込んでいたチェ牧師やカワノさんらによって、こんなにも見事な準備がされていた。ちょっとした抽象画のようだ。一昨年、スペインの原野を歩いたときも、美しく耕された小麦畑を見てパウル・クレーを思い出したが、おそらく人間の作業というものは、丹念になればなるほど、そこには抽象性を帯びた局面が露わになっていくものなのだろう。





先に到着した組で早速作業を開始する。葉の部分がきれいに刈り込まれたタマネギを、まず土の中から掘り起こす作業をする。片手では困難なほど強く髭根を張ったものも多い。心なしか今年は縦長タイプのものが多いような気がする。
黙々と作業を続けながらも、みんな、決定的なものが欠けていると思っている。





と、やっとそこに主役たちがやってきた。





辺り一帯に、眼に見えるように漲る活気。それに惹かれてこんなところにまで舞い降りてきたヒバリ、隣のキャベツ畑で乱舞するモンシロチョウ。
掘り起こしたタマネギの髭根をハサミで切る作業をする人たち。





午前の作業も順調に進み、お昼ご飯はいつもの通り、いつ食べても美味しいここのカレー、サラダ。





午前中は曇っていたが、午後からは日も差し始めた。
せんせー、めっちゃつかれるけどめっちゃたのしー
日常の煩瑣な事柄や鬱陶しい人間関係などで心悩ませているということに関しては、この子供たちも他の大人たちと変わるところはないだろう。だがいまこの場にいる全員が、たとえ一時的なものであるにせよ、そうした悩ましさから解放されて至福の時のなかにいる。





アイスの差し入れよーというかけ声に電気的に反応した子供たちが、まるでアリのようにそのまわりに群がっていく。





と思ったら、大アリも群がり始めた。
私もスイカバーというアイスを頂いた。こんなに美味しい食べ物があったのかというほど美味しかった。タネのようなものまで入っていて、その歯ごたえがたまらなかった。








午後からも援軍が何組か加わり、最終的には総勢で70名ぐらいになった。ただ中高生は一人もいなかった(と思う)。ということは、今日ここにいる子供たちもいつかは来なくなるのかもしれないが、数年すればまた戻ってくることになるだろうということだ、うん。それは、自分で植え付けた作物を自分で収穫し、どこかの見知らぬ人がそれを食べる、そうしたことの意味を理解したときに彼らはまたここに戻ってくるのだろう。
日が照るとタマネギは黄金色になる。





今日のお土産はタマネギの詰め放題。





午後から加わったゴーキュー会(59会?)というグループの若者たち。大阪のキタを中心にしていろんな活動をしているという。彼らが加わったことによって力仕事は一挙に楽になった。





美少女!三人組。





いつもダンディなバンちゃん。腰のベルトにドラえもんの人形をぶら下げている。もう次の梅干し漬けの合同援農が楽しみで仕方がないようで、そのことばかり話している。だが楽しみにしているのはなにもバンちゃんだけではない。





紀ノ川の河川敷。木々や草花がとても豊かに生い茂っている。ここに来ていつも少し驚かされるのは、子供の頃以来久しく見なかった雑草類を何十年ぶりかで眼にすると、それらにまつわる記憶が実に鮮明に蘇ってくるといういうことだ。当時の子供たちにとっては、雑草類も遊びの手段に自在に変化するものであった。だが私の育った場所と地理的に少し離れているからなのか、よく観察すると、そういえばあの草もない、この草もない、こんなものはあの頃はなかった、というような思いも必ずついてまわる。たぶん、地球温暖化という流行りのトピックだけによるのでなく、自然というものは絶えず穏やかに変化し続けているものなのだろう。と私は思う。








今日のYoutube
キングズ・シンガーズ  「ダニー・ボーイ」

いつか見た風景、どこにもない場所(1)

このところ新しい部屋のセッティングや本棚作りに余念がなく、更新が滞ったままになっている。いつまでも放っておくと、ただでさえ数少ない読者の方々に忘れられてしまうといささか焦り気味になってきた。そこで、写真もなく、拙速な内容のものではあるが、こんなもので急場を凌いでおくことにする。

リンクをいくつかと註を一つ追記しました。(5月28日、0時37分)



私のどこが間違っているというのか。
こんな言葉が発せられるとき、私たちはまず例外なくそれを開き直りの態度表明として受け取る。What's wrong with me、英語に直訳するとこんなものになるが、ところが途端にここからは開き直りのニュアンスは消え、自分の誤ちを教えて欲しいという本来の意味合いとしてのみ私たちは受け取りがちになる。
一つの言葉でも、大概の場合、微妙なニュアンスが重なり合い、文脈によってある意味が支配的になる場合もあれば別の意味が表面化することもあり、ときにはどっちつかずというようなことも往々にしてある。そうした言葉も外国語に翻訳されると、当然、私たちは隠れたニュアンスなどを読み取ることはできなくなる。
こうした言葉の多義性を巧みに駆使する能力を持つ人が小説などを書くと、優れた作家といわれる。その代表格がシェークスピアだ。三国人という言葉は字義通り第三国の人間という意味だなどと主張したしたあの人物など、もちろん作家としては論外だ。

ざっと以上のような内容に相当することを、私は、大学院に入った年の最初のゼミで学んだ。といってももちろんそれは建築を通してであった。ちょうどその4年前の1966年、アメリカのロバート・ヴェンチューリという建築家が『Complexity and Contradiction in Architecture』という理論書を出し、世界中がその影響を受けようとしていた頃であった。日本でもすぐに『建築の複合と対立』という訳名で翻訳が出されたが、むしろその無茶苦茶さが評判になるほどの誤訳だらけで、だから私たちは難解な理論を難解な原文で読まされるという羽目になった。しかも私の研究室の教授向井正也は、このヴェンチューリの理論の基礎となっている思考、すなわち当時徐々に諸分野でも語られつつあったマニエリスム的思考を、建築の世界で最も早くから研究していた人物であった。だからそのゼミには、卒業生や、いずれ日本のポスト・モダンの嚆矢となるべき若き日の毛綱モン太や渡辺豊和なども加わる盛況ぶりであった。

ヴェンチューリは建築を意味の体系として捉え、建築を構成する各部位それぞれの意味とそれらの重なり具合や分裂の度合いを分析し、その成果を自らの設計作業に再応用しようとしていた。黒か白のどちらか一方ではなく、黒と白の両方、もしくは灰色。これが最も端的に表現されたヴェンチューリマニフェストであった。20世紀三大巨匠のひとりといわれたミース・ファン・デア・ローエのあまりにも有名なドグマ、<Less is more(より少ないことはより豊富である)>を、ヴェンチューリは<Less is bore(より少ないことは退屈だ)(※1)>とこき下ろした。

ヴェンチューリは自分の理論の構成を七章立てにした。建築における意味の複合と対立を七つのタイプに分けて分析したのである。いうまでもなく、と一部の人たちにとってはそうなるのだろうが、これはイギリスの高名な文芸理論家ウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型(Seven Types of Ambiguity )』をその理論叙述の範としたものである。曖昧さ、複雑さ、意味の多重性等がいかに文学の豊穣さの基本となっているかということを分析した、20世紀初頭における文芸理論の一大名著である。とはいえ曖昧という概念自体が曖昧だなどと言い出す者まで現れるほどに、曖昧(ambiguity、実際には両義性という訳の方が近い)という概念をしっかりと把握しないかぎり、理解することがとても困難な理論だ。
同様にヴェンチューリの<黒と白の両方、もしくは灰色>も、この言葉の表層だけに捕らわれている限り到底その真の意味を理解することはできないだろう。そしてほとんどの人たちはここで躓いてしまったと私は思う。むしろ灰色という言葉をヴェンチューリは用いない方がよかったのではないか。これでは灰色という1個の独立した色のようにみなされてしまう。<黒と白の両方>といういい方も、黒と白が別個に並列されているという状態を指すのではなく、1個の対象の中に黒と白がそれぞれ黒と白のままで同時存在する、という言い方の方がより近い。このことを把握してかからないと、彼の建築も訳の分からないものとなる。だが、新しい時代の幕が開かれるように画期的な理論でもってヴェンチューリは登場したと、アメリカの建築史家ヴィンセント・スカリーは讃えたが、その登場の華々しさとは裏腹にやがて彼は静かに表舞台から姿を消すことになる。その難解で、しかもオーディナリーでアグリーな表現を旨とする(といってもここに実に韜晦で逆説的な彼の美学がある)ヴェンチューリを、建築的大衆が理解し支持するはずもなかったのだ。表舞台から潔く退場した(と私には思える)ヴェンチューリに較べると、ほぼ同じ頃、世界の建築界にデビューしたと言っていい日本の磯崎新はといえば、いつまでも新しい思潮を追ってはその波頭に往生際悪くしがみつこうとしているように私には見える。そもそも最も初期にヴェンチューリ(だけではないが)を日本に紹介した当人が磯崎であったのだが。
なおこれは余談だが、私の二人の娘は大学の英文科を出ていて、どちらにも卒論にエンプソンの『曖昧の七つの型』を採用するよう薦めのだが、難しすぎるとにべもなく逃げられた。




私の二人の娘は逃げたが、ニコラス・アーフェは逃げなかった。
と、やっと長い前置きを終えて、さてこれからが本文である。しかもアーフェを翻弄する娘は、二人で一人なのか一人で二人なのかも判然としない。
2年ほど前、私は念願だったある映画のDVDを手に入れた。その原作が出版されてすぐに映画化されていたことを私は知っていた。その映画にマイケル・ケインアンソニー・クインキャンディス・バーゲンアンナ・カリーナなどが出ていたことも私は知っていた。だが、ただ知っていただけでそのときは特に私の興味を惹くものではなかった。
ところがそれから数年後、つまり私がヴェンチューリの理論を学んでいた頃、文学好きな後輩が、とても面白いからと一冊の本を私に貸してくれた。ジョン・ファウルズという作者の『魔術師』という小説だった。非常に面白かった。当時、私が人並みに馴染んでいた大江健三觔や安部公房などの日本の現代文学、あるいはアラン・ロブ・グリエ、ミシェル・ビュトールル・クレジオといった七面倒くさいフランスのヌーヴォー・ロマンなどとも違って、本当に面白かった。日本ではいまだにその区別がしばしば言挙げされる純文学と大衆文学、そのどちらでもなく、またどちらでもあるというような小説だった。スティーヴン・キングのいささか大衆寄りに傾き過ぎたテーマをもっと純文学寄りに、そして語り口をキングよりいま少し陰影深く、といった調子の小説であった。特に、マイケル・ケイン演じる主人公のイギリス青年ニコラス・アーフェの前に常に単独でしか現れないキャンディス・バーゲン演じる謎めいた娘が、ひとりで双子の女性を演じているのか、双子がひとりの女性を演じているのか、ついに最後まで明かされないなどというプロットは実に新鮮だった。
当然、映画も観たくなった。本を貸してくれた後輩に、これは映画化されているからそのうちにどこかで上映されるかもしれないなどと話しながら私たちはその機会を待ち続けた。だが待てど暮らせどそれはやってこなかった。実際、映画は日本では公開されていなかった。
やがて世はヴィデオの時代となり、いつしかそんな映画のことも私はすっかり忘れてしまっていた。もちろんレンタル・ショップに行っても特に『魔術師』というタイトルに眼を凝らすというようなこともなかった。
ところがそれから間もなくインターネットの時代がやってきた。その普及のスピードは凄まじく、それまでは入手困難だった映画や書籍も、たちまち好きなように検索しては手に入れることができるようになった。たまに思い出したように私は邦題の『魔術師』、あるいは原題の『The Magus』というタイトルで検索をかけてみることもあった。ところが検索にかかるのは小説だけで、映画は一度も現れなかった。ヴィデオ化さえされていないようだった。出演陣の豪華さを思うと私は不思議でならなかった。しかも作者のジョン・ファウルズは、『魔術師』より先に映画化されて大いに話題となっていたウィリアム・ワイラーの『コレクター』の原作者でもある。なぜ『魔術師』という映画を観ることができないのか私にとっては大きな謎であった。
ところがヴィデオの時代も去った一昨年、久しぶりに検索をかけてみると、なんとその数ヶ月前についに本国のイギリスでDVDが発売されていた。DVDは一週間ほどで私の許に届いた。
さて。誠に呆気なくも謎は解けた。

私だって30年以上も待ち続けた映画である。しかもわざわざイギリスから取り寄せたDVDである。そんなに簡単に放棄する訳にはいかない。
だがいつも途中でたまらなくなる。この映画を見続けることに何か疚しさ、後ろめたさのようなものを感じ、あるいは恥ずかしく、背中がむず痒くなってくる。そんな気分にさせられたのは別にこの映画だけという訳ではないが、これは別格であった。格別にひしひしと、そのような感慨が、全身を襲ってくるのだった!
『道』のザンパノ、『ノートルダムのせむし男(※2)』のカジモド、『その男ゾルバ』、『ナヴァロンの要塞』の大佐、『アラビアのロレンス』のアラブの族長、そして『日曜日には鼠を殺せ』のフランコ軍の将軍。何よりこの映画で耐え難いのは、こうした見事に一貫して粗野(ときに野卑?)で男臭い役ばかりを演じてきたアンソニー・クインが、こともあろうに深甚な哲学的思考と膨大な美術史的教養の持ち主にして、オクスフォード出のマイケル・ケインを手玉に取るレトリックの使い手、という役を熱演しているところを観させられるということであった。アンソニー・ホプキンズやメリル・ストリープのように、どんな役も変幻自在にこなし、その多彩な演技を楽しむことのできる俳優もいれば、鋳型にはまったようなキャラクターばかりを演じ、そのことによって映画にある種の錘鉛のような働きを果たす俳優もいる。アンソニー・クインはいうまでもなく後者を代表するような俳優だ。どちらが優れているかという話しではない。それぞれの俳優がそれぞれのタイプを持っているということだ。それをこともあろうに・・・、といった感慨がとにかくついて回るのである。



自分がいままでに出た中で最悪の映画。撮影現場に全体を把握している者が一人もいなかった。(マイケル・ケイン
自分の人生をもう一度そっくりそのまま繰り返せといわれても私は構わないが、『The Magus』をもう一度観させられることだけは御免だ。(ウディ・アレン

ウディ・アレンをしてかく言わしめたのは、きっと自分が映画化したかった気持ちの裏返しなのだろう、と私は邪推している。それほどに魅力的な原作であった。ジョン・ファウルズの原作で映画化されたものは他にもメリル・ストリープ主演の『フランス軍中尉の女』などもあり、しかもこの映画の脚本は、後にノーベル文学賞を受賞することになるハロルド・ピンター(※3)が書いていたりする。私は何となくファウルズもノーベル賞を獲るのではないかと無責任に思ったりもしていたのだが、05年に彼は死去してしまった。(続く)


※1 ヴェンチューリと同時代の建築家で作風も似かよったところがあったが、ヴェンチューリほど厳格でも禁欲的でもなかったチャールズ・ムーアを指して、<Mess is Moor(ムーアははちゃめちゃだ)>というのもあった。

※2 公開当時は確かにこのタイトルだった。

※3 ハロルド・ピンターバイオグラフィーを調べていると、『さらばベルリンの灯』など私には思いで深い映画のシナリオも手がけていた。またローレンス・オリヴィエマイケル・ケインのたった二人しか登場しなかった『探偵スルース』(1972、J.F.マンキーウィッツ監督)のリメイク版(2007、ケネス・ブラナー監督)のシナリオも、ピンターの手によるものであった。オリジナル版では、ローレンス・オリヴィエマイケル・ケインの老若二人の名優が凄い演技合戦を繰り広げ、最後にはケインがオリヴィエをあっといわせるシーンが見物であったが、リメイク版では今度はマイケル・ケインが老優として、若い方はジュード・ロウがやっているらしい。




今日のYoutube
Dionne Warwick  「Alfee

マイケル・ケインの出た映画といえば何といってもこれだろう。3Bに加えて4Bとまでいわれたバート・バカラックの底力を感じさせる名曲であると私は思う。

鬼魂楼再訪

なんという謙譲と犠牲の精神に溢れ、奥ゆかしくも控えめな私なのだろう。
一昨日の日記で私は自分のことをホモ・ファーベルとカテゴライズし、その証しをここでお見せした。ない知恵とセンスを絞り出し、子供の頃から我流で培ってきた手技を駆使しながら懸命に作業して、その結果をここで披露させていただいた。おずおずと差し出すようなふりをしながら、実は得意満面であったくせにと意地悪な見方をされた方もおられるかもしれない。だがそれは間違っている。本当に私は最初の行に書いたような美徳に満ちあふれた人間なのだ。
自ら私は露払いの役を買って出た。いや露払いなどさえおこがましい。
いったい、この人をどう紹介しようか。確かに有翼光輪の王者にして智恵ある神アフラ・マツダに、私よりは遥かに近いところに彼はいる。













その趣旨は、近所の子供たちを怖がらせること。はにかみを含んだ微笑を湛えながら、だが揺るぎない信念をもって、マツダさんはそういった。
子供たちにしてみれば、彼は光の神ではなく闇の魔王だ。日々、竦(すく)んで脅えてその前を通るとき、心の中で闇の魔王に悪態をつき、だが巨大な好奇の一瞥をさり気なく振り向けずにはいられない。きっとそうしているにちがいない。ほかの子供たちと、いつかあの中に入ってみようとたくらんでいるにちがいない。その子供たちに激しく嫉妬する小学生のころの私。






タクシーの運転手をしていた頃、街なかで建設現場を見つけては工事の仕方や手順をじっと観察していた。その頃から、変わった木の根っこなどを見つけては趣くままにいろんな形に彫っていた。出来上がったものは小学校などに寄付していた。

(ここまでいくと、もはやホモ・ファーベルなどといった手技的スケールからは大きくはみ出ている。)






この場所に移り住み、年金生活が始まると同時に工事に着手した。たちまち愛想を尽かされて家族に逃げられた。
いまは娘さんがたまに訪れて身の回りの世話をしてくれるという。
ずっと工事を続けたいが資金がなく、年金が貯まるのを待っては次の資材を購入する。手伝う者が誰もなく、すべて自分ひとりでやった。

(まずコンクリートで普通の躯体を造り、その上に、思うがままの造形を施していくという手順なのだろう。にしても、どの方角を見ても刮目せずにはいられない<それらしさ>と、それを実現しようとしてコンクリートに込められた執念、建築への欲望。)






最初は丸めた新聞紙、次はいろんなものを詰め込んだゴミ袋を型枠にした。





初めて訪れたとき、マツダさんは不在だった。手土産と名刺を玄関前に置き、勝手に中に入り、くまなく歩き回った。





単なるどろどろと不気味なものだけを作ろうとしたのでないことはすぐに分かった。自然の造形を模したように見せて、明らかにそこには抽象化の意図もくっきりと刻まれていた。予想していたようなただものではなかった。変骨漢の人物像が予想された。





私たちが何の疑念もなく奉じている建築の一般的な規範がことごとく無視され、こうだと私たちが思っている入り口も窓も床も壁も天井も何もなかった。にもかかわらずそれは建築以外の何ものでもなかった。まわりのどんな建築よりもそれは強く、野太く、深く遠い建築であった。





すぐにマツダさんから、不在を詫び、またいつでも訪問するようにとの電話があった。

(とりわけ、この上からぶら下がった形態の内側がえぐられたようになっていること。ここにこの異様な物体が持つ意味すべてが凝縮されているように私は思う。単なる物体ではない、その内側にれっきとした空間を抱えた<建築>を、彼は造ろうとしている。)





再訪すると、私が置いていった手土産へのお返しを用意してマツダさんは待っていた。
これまでのいきさつと、この先工事をどういう風に進めていこうとしているのか、手振りを交えて話してくれた。ひとりではとても無理なことだと私は思った。

(このコンクリートのかたまりの中ほど、穴の向こうを人が移動しているのがお分かりだろうか。こんなところにも、どんな建築にも不可避的、かつ、いかようにも編集可能な劇性、物語性といったものが、さり気なくも効果的に意図されている。)







この近くの大学に奉職する知人に連絡し、夏休みに学生たちに手伝わせてはどうかと相談した。その知人がこれを知らなかったことが私には驚きだった。





高速道路が大渋滞を起こしたこの5月2日、ちょうど4年ぶりに再訪した。突然現れた私を見て、その後連絡がなくなったのでどうしているのか気になっていたとマツダさんはいった。あの直後、私の娘が深夜の東京で交通事故に遭い、それどころではなかった旨を告げた。タクシーにはねられたとは言えなかった。

(新しい躯体。この上にこれから思い通りの脚色が加えられていくのだろう。天井面からU字型の鉄筋が沢山はみ出ているのは、これから付加されていくコンクリートの落下を防ぐためのもの。およそ建築というものには、どんなにそれとは無縁のもののように見えても、必ず理知というものは働いている。それがなければ建築は成立しない。)






いままでは古くなった家の中に雨が漏っていたけれど、これができて大丈夫になりました。面白そうに笑いながらマツダさんは言った。木造の屋根を圧し潰すかのようにコンクリートの荒々しい構造体が覆い被さっていた。ひとりでは到底無理だと思っていたことが実現されていた。いずれ彼の住まいは鬼魂楼に喰い潰されてしまう他はない。自らの作業に向けた恐るべき覚悟と信念。





(新しい躯体の上に、これまでのものにはなかった造形理念が垣間見える。本人が意図したものかそうでないのかは分からないが、なにやらギリシャ的オーダーのようなものが仄見える。)






どうぞ自由にご覧になっていって下さい、お帰りになるときも声をかけて頂かなくて結構ですからと言ってマツダさんは中に入った。その日、娘さん夫婦が孫を連れて遊びに来ていた。

(これは4年前の写真。その後もすべてひとりでやってのけたのだ。)





(すぐそばの水路。ゴミが捨てられて荒れ放題であったが、おそらくマツダさんのヴィジョンがその状況と著しい齟齬をきたしていたのだろう。彼が個人で整備した。)






おそらくもう70代半ばにはなるであろうこの小柄な老人のどこに、このような意志が隠されているのだろう。彼のあらゆる骨、あらゆる肉、あらゆる血、あらゆる器官が、建築を目指している。

(鬼魂楼はもちろん私が勝手に付けた名だ。オニコンロウと読んでいただきたい。鬼はその通り、魂はコンクリートの含意を持たせている。鬼魂館の方が響きはいいが、館というイメージではない。)





今日のYoutube
Arvo Pärt  「Profound」

悦楽の日々

ホモ・サピエンス(Homo sapiens)とは、知的活動をする存在としてヒトを定義しようとする言葉だ。ヒトを生物学的に定義する場合にもこの言葉を用いる。ホモ・ファーベル(Home faber)は道具を使ったりモノを作ったりする存在としてヒトを定義する。この定義はアンリ・ベルグソンによる。他にも、ホモ・ロクェンス(Homo loquens)は言葉を操る存在、ホモ・ソシアリス(Homo socialis)は社会的活動をする存在、ホモ・エステティクス(Homo aestheticus)は美を感じる存在、ホモ・レリギオスス(Homo religiosus)は宗教を信じる存在、ホモ・ルーデンス(Homo ludens)は遊ぶ存在、ホモ・コムニカンス(Homo communicans)は交易をする存在。ヒトを定義しようとする概念は他にもいくつも考え出されている。
そういえば故黒川紀章がまだ30代だった頃、ヒトを移動する存在として彼が定義したホモ・モーベンス(Homo movens?)というのもあった。このホモ・モーベンス論を振りかざし、メタボリズム(※1)を率先して実践していた頃、彼は本当にキザでいやみったらしく、その上凄くカッコよかった。造形にも理論の実践にもひときわの冴えがあった。あの頃の黒川は本当に世界に通用する建築家であった。ところが共生の思想などといい出した頃から途端につまらない凡庸な建築家になってしまった。これは黒川に限ったことではなく、日本の建築家のほとんどは、建築家としてのキャリアの最初期に最も魅力的な作品を作ってしまう。
話が横にそれてしまったが、ホモ・サピエンスとホモ・ファーベルがヒトを定義するに最も世に通じた概念であるが、オランダの碩学ヨハン・ホイジンハ(※2)によって定義されたホモ・ルーデンスも相当に人口に膾炙しているといっていいだろう。
とはいえ、ヒト以外の生物が知的活動をしていないとも限らないし、巣をモノとして捉えるのならほとんどの生物もモノを作る。動物が遊びをすることは間違いのないところだろうし、交易をしたり、あるいは宗教を持つ生物だっていないとも限らない。人間と他の生物との境界はそれほど截然と区画されている訳ではない。
ところで、自分にとって最も適性があるのはどの定義かということは、当然人それぞれによって異なっているだろう。作家や哲学者などはやはりホモ・サピエンス的傾向の強い人が多いのだろうし、アナウンサーや落語家、あるいは再び作家や詩人ならホモ・ロクェンス、スポーツや賭け事に熱中する傾向の強い人はホモ・ルーデンス、商売や事業の才覚にひいでた人はホモ・コムニカンス、牧師や世襲によってでない僧侶などはホモ・レリギオスス、これも世襲によってでない政治家ならホモ・ソシアリス、といったところだろう。
私はといえば、もう断然ホモ・ファーベルだ。一昨年のサンティアーゴ紀行のブログでも書いたことだが、ドライバーやラジオ・ペンチ、ニッパーなどを使わない日の方が少ないのではないかというような日々を私は送っている。小型のものであるとはいえそんなものまで携行した人間は、おそらく何百万、何千万にものぼるであろうこれまでの巡礼者の中で、果たして私以外にいるだろうか。そして実際、それらは随所で役に立った。ピレネー北麓にあるイザンベールという方のお宅に11日間滞在し、随分とお世話になったのだが、そのお宅を発つ前夜、せめてものお礼代わりにと、すぐに詰まってしまっていたシャワー室の排水口を修理してあげた。どこかのホテルに忘れてしまったコンセントのアダプタを、街の電気屋で買ってきた部品で即席に作り、また殻付きの牡蠣やウニを市場で買ってホテルで食べたときなども、その道具たちはなくてはならないものだった。
さて。ここ2週間ほど、私は悦楽の日々を過ごしていた。諸般の事情によって事務所を引っ越すことになったからだ。現在のと同じように今度のも中古のマンションの一室だが、移動する前に軽いリモデルとリファービッシュを行った。これはモリカワさんたちに頼んだ。ただ、照明器具は自分で作ってみようと思った。だがそう思いはしたものの、4月14日の日記にも書いたように、その頃の私の精神状態は最悪であった。あれこれアイデアは浮かび、どんな材料を使おうかと考えはしても、なかなか行動には移せなかった。
それでも漸く活動を再開すると、徐々に加速がついてきた。どんな良薬よりもドライバーやペンチを握る手の快楽が私の心を癒し始めた。次第に調子は上がり、もっといいものができるわいと作っては作り直し、日本橋電気屋街やホームセンターに日参する日が続いた。一度ならず日に二度も三度も出かける日もあった。こうした行動は、私自身にとって、おそらくユング派の分析心理学でいうところの箱庭療法のような役割を知らずのうちに果たしていたのだろうと思う。初期の頃のぐずぐず、いやいやがウソのように消え果てていた。そして今日、やっとその作業が終わった。
私が日ごと徘徊しているブロガーの界隈では、食い意地テロなどと称して手料理をひけらかすことがはやっているようだ(たとえばここここここなど)。その方面でも私はムムムとやる気満々ではあるのだが、今回の試みで私は前人未踏の領野をひとりで開拓し仰せた。幸いにも今度の部屋には2畳ほどのウォークイン・クローゼットがある。そこにいろんな工具を設置して、今後も私はこの孤独の領野を疾駆する!







まずはメインの照明。有名デザイナーの家具や照明器具を好んで使いたがる建築家も多いと思うが、私は可能な限り避けたい方だ。裸の蛍光灯や白熱灯は、その機能、形態が彫琢され尽くしてきただけあって、それ自体で十分に美しいと私は思う。こんなものがふとひらめき、何度かの試行錯誤を経てほぼ思い通りのものができ上がった。





40Wのサークラインを水平に、それより一回り小振りの32Wのものをその内側に垂直に吊した。ちょっとした土星のイメージ。水平な方のランプは、極小のヒートンを天井面に正三角形の配置でねじ込み、0.2ミリのステンレス製のより線で吊っている。ランプを支持している金具は、頃合いの大きさのS字型フックを半分に切って曲線を調整したもの。インバータ式安定器は天井裏に隠した。この作業が非常に難航した。建築の工事が存外なほど丁寧になされていて、天井に設けられた既設の照明コンセントを外すと、そこに頑丈な金属製のボックスが被さっていた。新設するカバープレートの大きさをはみ出さずにそれを外すのが実に大変だった。





最初は既製品の蛍光灯用コネクタを使用していたが、コードが太くて目立ち、しかも一箇所で吊しているだけの内側の器具はそのコードの剛性に負けて傾いてしまっていた。そこで細くて柔らかいコードに取り替え、コネクタも極小の結線用のもので代用した。
この照明が取り付けられた部屋は宿泊用の寝室として使うため、リモコン付きの最も安い既製品の器具(5千円強)を購入し、その必要な部分だけを利用した。リモコンの受信機も天井裏に隠した。天井に直径1センチほどの穴をあけ、そこに受信部を強力両面テープで固定した。カバー・プレートの手前の小さな円形がその穴。穴の縁は分厚い布や皮革用のハトメをはめ込んだ。ハトメは驚くほど安かった。1個たぶん10円ぐらい。これで部屋のどこからでもリモコンの信号に反応するようになった。





次は壁用のブラケット。西洋の蝋燭灯のイメージ。これは長さ41センチ、32Wの直線状のものを2灯使用。もうひとつ、玄関ホール用に1灯のものも作った(取付けはまだ)。





部材はすべてホームセンターで買ってきたもの。アルミパイプ、手摺りやハンガー・パイプ用のエルボ、パイプ支持金物。手作りならではのソボクなアジワイが滲み出ている。





ちょとごつごつとした感は否めない。





この器具で一番知恵を絞ったのは、エルボに埋め込んだコネクタに挿しただけの蛍光灯の振れ止め。蛍光灯というのは一方の極から別の極に向かって放電することによって発光する。だからこのランプも2本になっているように見えるが実際は最上部で繋がっている。その連結部分に1.6ミリのステンレス製丸棒で作ったヒートン状のものを絡め、その他端を壁面にねじ込んだヒートンに落とし込む。これで問題は解決した。正面からはほとんど見えない。





これは40Wのサークラインによるフロア・スタンド。20年ほど前に設計した住宅でこの原型を作った。そのときは床に固定したが、今回は可搬式。テーブルの配置などをどうするかまだ決めていないのでやむなく可搬式にしたが、本当は固定式の方がいい。床に固定しただけで一挙に街灯のようなイメージが出てくる。





この器具の文字通りの要(かなめ)。引き出しや収納などの扉に用いられるつまみを利用した。大きな穴はコードを通すためのもの。一番条件に叶ったつまみのメーカーがしばらく前に倒産したらしく、その在庫の置いてあるホームセンターは一箇所しかなかった。失敗したり角度がよくなかったりでたぶん20個ぐらい作った。次々と買い足していくうち、その条件のいいものは私が全部使い果たしてしまった。





ボール盤で穴をあけては爪楊枝を挿して角度の具合を確かめる。結局これを使用することになった。すべて目分量による手作業であったため、要領を掴むまでに随分と遠回りをした。





ランプ支持金物。径2ミリのステンレス製丸鋼を加工。球に挿し込む部分はねじ切りをしてある。最初は念のためと3ミリの丸鋼を使っていたが、2ミリでも十分な強度があった。ならばと1ミリのものを探したが見つからなかった。





径18ミリのムクのアルミ丸棒。長さが10センチあり、この軸に、椅子の脚などに取り付ける円筒状のゴム製クッションの底を切り取って嵌め、それに本体のアルミパイプ(径25ミリ)を差し込む。丸棒に電線を通すため、径7.5ミリの穴をあけてある(出口では中心がかなりずれてしまった)。一般的にこんな長尺の金属の穴あけはオイルをさしながらやるものだが、普通の室内での作業であったため、オイルなしでやった。途中、ドリルが何度も詰まって停止し、思わずアルミ棒に触っては指先をヤケドした。
2枚の円盤は厚さ4ミリ、径22センチのアルミ板を知り合いの鉄工所に頼んでカットしてもらった。加工費共で1枚1700円。軸となる丸棒にあけた穴の縁(巾5ミリ強)に3箇所、3ミリの穴をあけ、上のアルミ板の裏側からネジで緊結してある。びくともしない。上の円盤に3箇所、裏側に深さ3ミリの雌ねじを切り、長さ4センチのスペーサーを挟んで下の円盤裏からビスで緊結。2枚の円盤の間に安定器とスイッチ(つま先で押す)を隠してある。





不思議なことを発見した。左の壁に斜めに走る黒っぽい線は、反対側の円弧が発する光によってできたランプ自体の影。自分自身の影を落とす照明器具。





かかった費用は、失敗したりやり直したりした分(次からはもうそんなに失敗することはないだろう)とランプ代を除くと、一番上のものが4300円ほど。そのうちの4200円がインバータ式安定器2個の値段だった。次のブラケットも安定器2個を含んで5000円ほど。3番目のフロア・スタンドは、安定器1個を含んでやはり5000円ほど。




※1 メタボリズムとは生物学でいうところの新陳代謝のことで、そのアナロジーを建築に適用させようとした運動のこと。建築にとって不動の基本的構造(文字通りの力学的構造や階段、トイレ等の必須の要素)に、取り替え可能なカプセルをくっつけたり取り外したりすることで時宜に対応させていこうとする建築のシステム。たとえば住宅ならば個室をカプセル化し、家族の増減に合わせてカプセルを増やしたり取り外したりする。建築評論家の川添登が唱導し、60年代における日本の建築界の一大ムーヴメントとなって世界から注目を浴びた。この運動を最も積極的に展開したのが黒川紀章で、大阪万博で二つのパヴィリオンを設計した。

※2 一般的にはホイジンガと表記されることが多い。




今日のYoutube
Cannonball Adderley Quintet  「Mercy,mercy,mercy」





 

『アラバマ・ソング』に始まる不吉なアソシエーション(連想)

ブレヒトの詩の訳で、訳(わけ)としていたところを、<やく>と読まれがちだと判断し、理由という言葉に変えました。その他、少しの訂正と、リンクを沢山、そして注を一つ追加しました。(5月3日、23時40分)

Nagonaguさんの日記で、クルト・ヴァイル(※1)とベルトルト・ブレヒトによる『アラバマ・ソング』という曲を知った。
引用されているYoutubeの動画のタイトルが『Alabama Song - Weill & Brecht』となっている。どちらもせわしなく煙草を吸いながら、歌っているのがおそらくクルト・ヴァイル、だからピアノを弾いているのがベルトルト・ブレヒト、ということになるのだろう、と思って聴いていた。だが歌っているのがヴァイルであるというのはその通りだとしても、ブレヒトがあんなに見事なピアノ弾きだったのだろうか。映像もモノクロであるとはいえ、この二人が自作自演しているにしては鮮明にすぎると思ってよく調べてみると、2005年、リオ・デ・ジャネイロで行われたServio Tulio (singer)とGlauco Baptista (piano)による生のセッション映像だった。
ついでにこの曲をカヴァーしている他の人たちのも聴いてみた。
デヴィッド・ボウイ

ジム・モリソン

マリリン・マンソン

やはり尋常ならざるひとたちばかりであった。みなこの異常な難曲を見事に歌いこなし、しかもみんなこの曲をこよなく愛しているということがすぐにわかるような歌いっぷりであった。
まったく意表を突くメロディー展開、転調の繰り返しに加えて♯や♭だらけ。その余りにへんてこ、難儀、だが蠱惑的でもあるメロディは、また、両大戦の狭間に暗い華を開かせたベルリンの退廃的、享楽的文化の香りをもとても色濃く漂わせていた。むろんヴァイルのメロディだけでなく、歴史的にはこちらの方がずっとビッグ・ネームのブレヒトの詩も、とても退廃的、享楽的、蠱惑的だ。リリアーナ・カヴァーニの『愛の嵐』という映画を思い出した。
「愛の嵐」



アラバマ・ソング

Well, show me the way, To the next whiskey bar
(さあ、次のウィスキー・バーに連れてってくれよ)
Oh, don't ask why, Oh, don't ask why
(理由なんてどうでもいいから、いいからさ)
Show me the way, To the next whiskey bar
(早く別のウィスキー・バーに連れてくれよ)
Oh, don't ask why, Oh, don't ask why
(理由なんてどうでもいいから、いいからさ)
For if we don't find, The next whiskey bar
(次のウィスキー・バーが見つからなけりゃ)
I tell you we must die, I tell you we must die
(俺たちは死ぬんだ、死んじゃうんだよ)
I tell you, I tell you, I tell you we must die
(ほんとうだ、ほんとに死んじゃうんだよ)
Oh, moon of Alabama, We now must say goodbye
(ああ、アラバマの月、もう行かなけりゃ)
We've lost our good old mama
(やさしかった母さんが死んじゃったんだ)
And must have whiskey, oh, you know why
(だからウィスキーを飲まなきゃいられないんだ、そうなんだ)


Well, show me the way, To the next little girl
(さあ、次の娘のところに連れてってくれよ)
Oh, don't ask why, Oh, don't ask why
(理由なんてどうでもいいから、いいからさ)
Show me the way, To the next little girl
(早く別の娘のところに連れてってくれよ)
Oh, don't ask why, Oh, don't ask why
(理由なんてどうでもいいから、いいからさ)
For if we don't find, The next little girl
(次の娘が見つからなけりゃ)
I tell you we must die, I tell you we must die
(俺たちは死ぬんだ、死んじゃうんだよ)
I tell you, I tell you, I tell you we must die
(ほんとなんだ、ほんとに死んじゃうんだよ)
Oh, moon of Alabama
(ああ、アラバマの月)
We now must say goodbye
(もう行かなくちゃ)
We've lost our good old mama
(やさしかった母さんが死んじゃったんだ)
And must have whiskey, oh, you know why
(だからウィスキーを飲まずにはいられないんだ、分かったかい)


両大戦に挟まれたこの時代、ヨーロッパでは建築の世界でも綺羅星のごとき傑作が陸続と出現するという、ある意味とても異常な時期であった。そういえば『愛の嵐』の一シーンがアドルフ・ロースの設計したアメリカン・バー(1907)で撮影されていた(実際、このバーで私はウィスキーを飲んだことがある)。『アラバマ・ソング』を含むオペラ『Mahagonny』(1927)がブレヒトとヴァイルによって作られたその前年、ロースはパリのモンマルトルにトリスタン・ツァラの家を設計していた。だが今回は建築の話ではない。



忘れもしない中学3年生だった初冬のある日曜日、朝から雨が降り続くなか、私は駅前の散髪屋に出かけた。順番を待つあいだ、ハサミを使いながら客に話しかける主人の声が私の耳にも聞こえてきた。
以前、パリで『暗い日曜日』というシャンソンが流行って、そのレコードをかけながら自殺した人が沢山出たそうですよ。
そのときの店内の情景と共に、ありありと想い浮かんだ会話の内容は、その後の私の心象に深く刻み込まれることになった。
暗い板張りの室内で、おもむろにレコードに針を落とし、死に向かおうとする人物。
大学生になって初めて、ダミアという名のまさにだみ声のその歌を聴くことになった(※2)。やはり聞きしに勝る曲だった。いかにも沈鬱で不吉な気配を漂わせるそのメロディや、ダミアの退廃的な歌声もさることながら、まるで骸骨の一団が、ムンクの『叫び』のようなポーズで身をよじらせているかのごときバック・コーラスが、ひどく印象的だった。




数年前、近くのビデオ・レンタル店で『暗い日曜日』というタイトルが目にとまった。ハンガリー映画(ドイツとの合作)であった。ナチスがうごめき始めた頃のブダペストを舞台にした、実話に基づいた映画であった。フランスのシャンソンとばかり思っていた『暗い日曜日』は、Rezsõ Seressというハンガリー人の作詞作曲(映画の中ではアンドラーシュという名)によるものであった。ストーリーは、第二次大戦前夜の不穏で退廃的な世情を縦軸に、ブダペストでナイトクラブを営む男性とその恋人、そしてアンドラーシュがそこに絡む奇妙な三角関係を描いたものであった。
ナチスも出入りするナイトクラブの雇われピアニストになったアンドラーシュが、初めて自作の曲を披露するシーンが印象的だった。まわりにいたひとたちは、耳慣れないメロディに突然凍り付いたように魅入られてしまう。たちまちこの曲は一世を風靡し、人々の心を捉え、だが多くの自殺を誘発することでも名を上げるようになる。アンドラーシュ自身の最期も自死であった。



高校受験を間近に控えたその3ヶ月後、私はこんな経験をした。
急いで逃げようとして振り向きざま、保健の先生が何やらぼんやりと私に話しかけていた。私はそれにただはいはいと応えていた。
休憩時間、私たちは校庭でドッジ・ボールをしていた。すぐそばで別のグループも同じことをしていた。当てられそうになって私が向きを変えた瞬間、ずんぐりとした男子生徒が、私と同じように振り向きざまこちらに向かってきていた。彼のいがぐり頭が私の頬に命中した。私は脳震盪を起こしていた。
おそらく数分は経っていたのだろう。だが私が振り向いた瞬間と、保健の先生が私に語りかけていたあいだに時間はなかった。脳震盪による意識不明は私から時間を奪い去っていた。その間、私は死の時の中にあった。

もっと幼い頃から私は毎晩とめどなく夢を見る子供であった。夢の中で繰り広げられる出来事は、夢の中にある限り、何の疑いもなくリアルな出来事そのものであった。だが朝目覚めてはじめて、それが日常のものではなかったと気付く。毎日がこの繰り返しであった(そして今もそうである)。だから、現在のこの日常も、いつか目覚めると、それはかりそめの生の中の出来事であったと気付くことになるのかもしれない、そしてそれが死というものなのだろうと、幼心に私は考えていた。この考えは脳震盪による意識不明を経験して一層強くなっていった。

実はもう一度、私は脳震盪を起こしたことがある。親しくなっていた英国人が滞日を終えて離日する日、空港まで見送りに行こうとして自動車事故を起こしたときだった。空港に降りるランプの側壁に私は衝突した。ランプが急カーブになっていてハンドルを切り損ね、スローモーションのように側壁が目の前に迫ってきた瞬間、ランプを塞いでいた私の車を後続の人たちが持ち上げて移動させようとしていた。だがもうこの頃は、中学生の頃のようなことは考えなくなっていた。

その数年後、再来日した英国人は、不治の病が露見し始めたことを絶望し、とあるビルの屋上から身を投げた。




※1 ヴァイルよりもワイルという読みの方が通りがいいし、私もずっとその名で馴染んできたが、ブレヒトがドイツ語読みなのでそれに合わせた。何よりこの歌を教えて下さったnagonaguさんもヴァイルと表記されている。
※2 だみ声という言葉はダミアの声から生まれたという説もある。


今日のYoutube
Damia    「Sombre Dimanche (Gloomy Sunday) (1936)」




だがこちらの方がもっとスゴイ。
美輪明宏   「暗い日曜日

数年前、パリに、この美輪明宏ヴァージョンをノートパソコンに入れて持って行き、現地で聴くとどういう気分になるのだろうと試してみたことがある。どうということはなかった。当たり前だ。

春宵一刻はるかをおもう

 春ノ海ひねもすのたりのたりかな

稽古はいつもさぼりがちで、だからいつまでたっても前頭どまり、お人好しのユーモラスな動作だけが取り柄の力士の日常を詠んだ句。直截すぎて奥ゆかしさに欠ける。凡庸な駄句。
17音の同じ定型詩でありながら、<ノ>を<の>に変えるだけで、ありきたりな相撲部屋の小空間から一挙に水平線を見晴るかすのどかで広大な大自然へと変容する。

ここで私は俳句(や川柳)についての蘊蓄を述べようとしているのではない(そもそもそんなことができる才など私にはない)。無限という概念について少し思うところがあったのでそれを書いてみようと思う。というのも、4月14日のエントリーで、ken犬ーさんから頂いたコメントに、夜はなぜ暗いのかという訊かれていもしないことを勢い余って勝手に書いてしまい、その後もそのことについてちょっと考えてみたりしていたからだ。
そのコメント欄で私は、夜が暗いのは宇宙が有限だからで、もし無限であれば、星の数も無限になり、空も無限に明るくなるはずだと書いた。逆に星が一つもなければ宇宙空間も存在しないということであり、つまりはそれがビッグバン以前の状態ということになる。
こうしたことを実感として認識するには少し頭をひねらないといけないかも知れない(実際にはどのようにしてひねるのだろう)が、宇宙が有限であるということを誰もが納得することのできるこれは極めて単純明快な理論だ。
ただしこのことを理解するためには、無限大という概念について正確に把握しておく必要がある。光の速さで百何十億年もかかるようなところにある星(その実態は星団や星雲であるが)まで観測されているということは、人間的な尺度からすればもうそれは無限大といってもいいではないかと思われるむきもあるかも知れないが、決してそんなことはない。たとえ百何十億光年が百何十兆光年になろうと、夜空はちっとも明るくはならないだろう。実際、肉眼で直接見る太陽の明るさももちろん無限の明るさではない。だがもし宇宙が無限であれば、夜空も無限に明るくなるはずである。その様を想像せよ。
おそらく人類が考え出した命数法で最大のものは、漢字で表記される無量大数という単位で、これは10の68乗(もしくは10の88乗)を表している。その下が、この言葉が数を表していたのかと驚かれるかもしれないが、不可思議(10の64乗、もしくは10の80乗)という単位だ。もしくはというのは、10の4乗を表す万から48乗を表す極(ごく)までが1文字で表記され、4桁ずつで次の単位に繰り上がっていくが、それ以降の恒河沙(ごうかしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議、無量大数の5つの単位は8桁ずつで繰り上がっていくという説もあるからだ。
恒河沙(10の52乗もしくは10の56乗)というのは、それこそ無尽蔵にありそうなガンジスの砂からイメージされたものであるが、実際にガンジスの砂の数を数えてみれば(誰が?)、せいぜい10の10乗代の半ばどまりといったところだろう。現在推定されている宇宙の星の総数だって10の20乗代、思いっきり壮大に、この宇宙を構成する素粒子の総数はどうかといったところで、それでも10の40乗に届くかどうかといったところに収まってしまうにちがいない。
さて、俳句である。無限大という概念を把握する上でこれほど的確なサンプルはない。俳句(や川柳)が日本語によって詠み続けけられる限り、そして定型をきっちりと遵守したものである限り、その総数には自ずと限りがある。そしてその数もたやすく計算することができる。濁音、半濁音、それにきゃ、きゅ、きょなど韻文では1音と見なされる拗音をそれぞれ1字と計算して加えると、使用できる文字の数は少なくとも112字(※)、したがって可能な俳句(及び川柳)の総数は112の17乗となる。これは<あ>ばかり羅列されたものから<ん>ばかりのものまでの17音の組み合わせの総数であり、どんな史上の名句や秀句、市井の凡句、駄句、あるいはこれから詠まれていくであろう句のすべてまでが、17の音列に還元された状態でこの中に収められている。つまり、定型内に収まったものである限り、すべて詠み尽くされる日がいつかは来てしまうということである。ということは、芭蕉や蕪村らが苦吟の末に彫琢したにちがいない数々の名句も、何のことはない、すでに存在していた組み合わせの中から選び出されたものに過ぎない、と考えることもできる訳である。
ところが問題はこの112の17乗という数である。これはおよそ10の35乗に相当するのだが、たとえば1秒間に1兆句作れるコンピュータ(昨今では特別な存在でもなくなってきたテラフロップスの演算機能を持つ)にこの数すべてを作らせるとすれば、どれくらいの時間がかかると思われるだろうか。数秒ですむという人もいれば、数時間、あるいは壮大に数ヶ月という人もいるかもしれない。だが実際は約3京年かかる。この宇宙が開闢してからがまだ百数十億年かそこらといわれているのである。
そもそも俳聖芭蕉から風雅な趣味を持つ市井のおじさんやおばさんたちに至るまで、すべての人々によって詠まれてきたすべての句を集めても、億という単位に届くかどうかといったところだろう。かのテラフロップス・コンピュータなら0.001秒ですむような数でしかない。
しかも冒頭の例のように、音は同じでも意味はまったく異なるものもいくらでもある。そういった同音異義、あるいはカタカナまでを含めれば、可能な俳句(や川柳)の総数はさらに爆発的に増えていくことになる。
おそらく人類が生み出した極小の表現形式にちがいない俳句(や川柳)にしてからがこれである。言語芸術に話を限ったとしても、不定型俳句はおろか、定型というもののない韻文、散文、短編、長編小説。こんなものまで持ち出せば、いったいどうなることやら。数的な面だけからいえば、文学に残された可能性は誰しも無尽蔵、無窮、無限と考えてしまうことだろう。だが数学的な厳密さにおいていうならば、決してそれらは無尽蔵でも無窮でも無限でもない。必ず数学的に答えの出る有限の数の中に収まってしまう。
漢字がそのまま示すように、無限は有限の対語のように扱われている。そして英語で調べても、無限という単語には限界を表す単語(limit、finite、bound、end 等)にすべてunやin、lessといった否定辞を付すことによって無限というものを表している。だが有限という概念は無限という概念に包摂されるのだから、対概念であるはずはないと私は思う。無限というのは、それ自体で1個の独立した意味をなす言葉であり、概念である。辛うじて∞(2匹の蛇がお互いを呑みあっているウロボロスを象形化したものらしい)という文字が、この概念を何かの対語や対概念ではない独自のものとして表記している。
なんだか今日はやけに小難しい話になってしまいました。

春のよい想いははるばる∞
(宵だか酔だか。ところで∞は、本来は何と読むのでしょう。)


※ これは現代仮名遣い、それも平仮名だけに限定した数で、片仮名やてゅ、う゛ぁ、うぇなど、外来語にしか用いないような文字は含まれていない。



どこかをはがせば必ずそこもやり直さないといけないことが明らかになり、仕事は増えるばかり。こんな外壁まで手を入れる予定ではなかった。





アルミサッシでもっていたかのような入り口も、ようやく補強がすんでサッシも入れ替わった。





ほとんど雨ざらしであった裏の洗濯場もこの通り。





先週の木曜日と金曜日、故愛明牧師が書斎として使用していた2階の部屋の蔵書を、教会に持って行く作業をした。バンちゃんとアベさんが手伝いに来てくれた。





向こうに聳え立つのが西成警察。黒い帽子が、アベさん。いつもいろんなことを教えてもらう。





鏡を見ながら帽子の角度を調整し、オレってオトコマエやなーとひとりごつバンちゃんの顔をお見せできないのがザンネン。高倉健菅原文太と映画で共演したこともある。





炊き出しが終わった後の四角公園。いつもとても穏やかな場所だが、金曜日、ここを根城にしている男性二人が少しいざこざを起こしていた。





1時過ぎ、いこい食堂の炊き出しが終わったあと、西成署の正面の歩道に百人以上の行列ができていた。4時から別のところで大きなおにぎりの配給があり、その整理券を求める列だった。





屋台通り。フィリピン女性が営業する屋台などもある。モリカワさんの下で3人のフィリピン出身の青年が職人として働いていて、この屋台の女性とすぐに馴染みになっていた。3人ともとても真面目な青年で、必死になって仕事を覚えようとしている。




今日のYoutube
King Crimson 「Starless」