春宵一刻はるかをおもう

 春ノ海ひねもすのたりのたりかな

稽古はいつもさぼりがちで、だからいつまでたっても前頭どまり、お人好しのユーモラスな動作だけが取り柄の力士の日常を詠んだ句。直截すぎて奥ゆかしさに欠ける。凡庸な駄句。
17音の同じ定型詩でありながら、<ノ>を<の>に変えるだけで、ありきたりな相撲部屋の小空間から一挙に水平線を見晴るかすのどかで広大な大自然へと変容する。

ここで私は俳句(や川柳)についての蘊蓄を述べようとしているのではない(そもそもそんなことができる才など私にはない)。無限という概念について少し思うところがあったのでそれを書いてみようと思う。というのも、4月14日のエントリーで、ken犬ーさんから頂いたコメントに、夜はなぜ暗いのかという訊かれていもしないことを勢い余って勝手に書いてしまい、その後もそのことについてちょっと考えてみたりしていたからだ。
そのコメント欄で私は、夜が暗いのは宇宙が有限だからで、もし無限であれば、星の数も無限になり、空も無限に明るくなるはずだと書いた。逆に星が一つもなければ宇宙空間も存在しないということであり、つまりはそれがビッグバン以前の状態ということになる。
こうしたことを実感として認識するには少し頭をひねらないといけないかも知れない(実際にはどのようにしてひねるのだろう)が、宇宙が有限であるということを誰もが納得することのできるこれは極めて単純明快な理論だ。
ただしこのことを理解するためには、無限大という概念について正確に把握しておく必要がある。光の速さで百何十億年もかかるようなところにある星(その実態は星団や星雲であるが)まで観測されているということは、人間的な尺度からすればもうそれは無限大といってもいいではないかと思われるむきもあるかも知れないが、決してそんなことはない。たとえ百何十億光年が百何十兆光年になろうと、夜空はちっとも明るくはならないだろう。実際、肉眼で直接見る太陽の明るさももちろん無限の明るさではない。だがもし宇宙が無限であれば、夜空も無限に明るくなるはずである。その様を想像せよ。
おそらく人類が考え出した命数法で最大のものは、漢字で表記される無量大数という単位で、これは10の68乗(もしくは10の88乗)を表している。その下が、この言葉が数を表していたのかと驚かれるかもしれないが、不可思議(10の64乗、もしくは10の80乗)という単位だ。もしくはというのは、10の4乗を表す万から48乗を表す極(ごく)までが1文字で表記され、4桁ずつで次の単位に繰り上がっていくが、それ以降の恒河沙(ごうかしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議、無量大数の5つの単位は8桁ずつで繰り上がっていくという説もあるからだ。
恒河沙(10の52乗もしくは10の56乗)というのは、それこそ無尽蔵にありそうなガンジスの砂からイメージされたものであるが、実際にガンジスの砂の数を数えてみれば(誰が?)、せいぜい10の10乗代の半ばどまりといったところだろう。現在推定されている宇宙の星の総数だって10の20乗代、思いっきり壮大に、この宇宙を構成する素粒子の総数はどうかといったところで、それでも10の40乗に届くかどうかといったところに収まってしまうにちがいない。
さて、俳句である。無限大という概念を把握する上でこれほど的確なサンプルはない。俳句(や川柳)が日本語によって詠み続けけられる限り、そして定型をきっちりと遵守したものである限り、その総数には自ずと限りがある。そしてその数もたやすく計算することができる。濁音、半濁音、それにきゃ、きゅ、きょなど韻文では1音と見なされる拗音をそれぞれ1字と計算して加えると、使用できる文字の数は少なくとも112字(※)、したがって可能な俳句(及び川柳)の総数は112の17乗となる。これは<あ>ばかり羅列されたものから<ん>ばかりのものまでの17音の組み合わせの総数であり、どんな史上の名句や秀句、市井の凡句、駄句、あるいはこれから詠まれていくであろう句のすべてまでが、17の音列に還元された状態でこの中に収められている。つまり、定型内に収まったものである限り、すべて詠み尽くされる日がいつかは来てしまうということである。ということは、芭蕉や蕪村らが苦吟の末に彫琢したにちがいない数々の名句も、何のことはない、すでに存在していた組み合わせの中から選び出されたものに過ぎない、と考えることもできる訳である。
ところが問題はこの112の17乗という数である。これはおよそ10の35乗に相当するのだが、たとえば1秒間に1兆句作れるコンピュータ(昨今では特別な存在でもなくなってきたテラフロップスの演算機能を持つ)にこの数すべてを作らせるとすれば、どれくらいの時間がかかると思われるだろうか。数秒ですむという人もいれば、数時間、あるいは壮大に数ヶ月という人もいるかもしれない。だが実際は約3京年かかる。この宇宙が開闢してからがまだ百数十億年かそこらといわれているのである。
そもそも俳聖芭蕉から風雅な趣味を持つ市井のおじさんやおばさんたちに至るまで、すべての人々によって詠まれてきたすべての句を集めても、億という単位に届くかどうかといったところだろう。かのテラフロップス・コンピュータなら0.001秒ですむような数でしかない。
しかも冒頭の例のように、音は同じでも意味はまったく異なるものもいくらでもある。そういった同音異義、あるいはカタカナまでを含めれば、可能な俳句(や川柳)の総数はさらに爆発的に増えていくことになる。
おそらく人類が生み出した極小の表現形式にちがいない俳句(や川柳)にしてからがこれである。言語芸術に話を限ったとしても、不定型俳句はおろか、定型というもののない韻文、散文、短編、長編小説。こんなものまで持ち出せば、いったいどうなることやら。数的な面だけからいえば、文学に残された可能性は誰しも無尽蔵、無窮、無限と考えてしまうことだろう。だが数学的な厳密さにおいていうならば、決してそれらは無尽蔵でも無窮でも無限でもない。必ず数学的に答えの出る有限の数の中に収まってしまう。
漢字がそのまま示すように、無限は有限の対語のように扱われている。そして英語で調べても、無限という単語には限界を表す単語(limit、finite、bound、end 等)にすべてunやin、lessといった否定辞を付すことによって無限というものを表している。だが有限という概念は無限という概念に包摂されるのだから、対概念であるはずはないと私は思う。無限というのは、それ自体で1個の独立した意味をなす言葉であり、概念である。辛うじて∞(2匹の蛇がお互いを呑みあっているウロボロスを象形化したものらしい)という文字が、この概念を何かの対語や対概念ではない独自のものとして表記している。
なんだか今日はやけに小難しい話になってしまいました。

春のよい想いははるばる∞
(宵だか酔だか。ところで∞は、本来は何と読むのでしょう。)


※ これは現代仮名遣い、それも平仮名だけに限定した数で、片仮名やてゅ、う゛ぁ、うぇなど、外来語にしか用いないような文字は含まれていない。



どこかをはがせば必ずそこもやり直さないといけないことが明らかになり、仕事は増えるばかり。こんな外壁まで手を入れる予定ではなかった。





アルミサッシでもっていたかのような入り口も、ようやく補強がすんでサッシも入れ替わった。





ほとんど雨ざらしであった裏の洗濯場もこの通り。





先週の木曜日と金曜日、故愛明牧師が書斎として使用していた2階の部屋の蔵書を、教会に持って行く作業をした。バンちゃんとアベさんが手伝いに来てくれた。





向こうに聳え立つのが西成警察。黒い帽子が、アベさん。いつもいろんなことを教えてもらう。





鏡を見ながら帽子の角度を調整し、オレってオトコマエやなーとひとりごつバンちゃんの顔をお見せできないのがザンネン。高倉健菅原文太と映画で共演したこともある。





炊き出しが終わった後の四角公園。いつもとても穏やかな場所だが、金曜日、ここを根城にしている男性二人が少しいざこざを起こしていた。





1時過ぎ、いこい食堂の炊き出しが終わったあと、西成署の正面の歩道に百人以上の行列ができていた。4時から別のところで大きなおにぎりの配給があり、その整理券を求める列だった。





屋台通り。フィリピン女性が営業する屋台などもある。モリカワさんの下で3人のフィリピン出身の青年が職人として働いていて、この屋台の女性とすぐに馴染みになっていた。3人ともとても真面目な青年で、必死になって仕事を覚えようとしている。




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King Crimson 「Starless」