ことの次第(2)

入管の係官は、領事館に行けばトラベラー・ドキュメントはすぐに発行してもらえるだろう、そういっていた。だから私たちはそれを持ってすぐにまた入管に戻るつもりだった。彼は、パスポートはなくしたけれども、身分証明書は持っていた。トラベラー・ドキュメントなるものを発行してもらうに必要な事項はすべてそこに記されているはずであった。
領事館は寒風吹きすさぶ高層ビル街にあった。受付の女性は紙片に何やらを書き込み、こともなげにそれを彼に手渡した。彼は身分証明書を取り出してしきりに訴えかけようとした。だが女性は取り合う素振りも見せなかった。入管の係官がすぐに発行してもらえるだろうといっていたのは、期限切れのパスポートを所持していた場合のことであったのだろう。
メモには、彼女の剣呑な態度から想像されたよりはるかに酷薄なことが書かれていた。出生証明書、義務教育修了証明書、所属教会の洗礼証明書。
こんなものが揃うのに、いったいどれだけの時間がかかるのか。私自らの責任において招き寄せた事態であったとはいえ、早晩終わるであろうと思っていたその早晩が、一挙にこの国と彼の国を隔てる距離にまで遠のいた。
だが入管の係官はすぐにでも彼を出国させたがっていたはずだ。不法滞在者を減らすことは入管にとって手柄になることだとエンドーさんもいっていた。だから入管の方から何らかの手を打ってくれるかもしれない。
本来なら携えているべきであったトラベラー・ドキュメントもないままに、再び私たちは入管に向かった。だが、いうまでもなく、けんもほろろであった。ところがこのとき、当の本人が驚くべきことを打ち明けた。自分がパスポートを落とした日、それが誰かに拾われてどこかの警察署に届けられたというニュースをTVで観た、日本語が分からないのでどこの警察署かは知らないが、あれは確かに自分のものだった。
それを取り戻すことができれば、そんな煩わしい証明書類、というよりトラベラー・ドキュメントそのものが必要なくなる。彼のパスポートはまだ有効期限内であった。それさえあればすぐに出国の手配に入ることができる。だが、係官はまたもや冷たくいい放った。彼が警察署に顔を出せば逮捕される可能性があります、ここに出頭したとはいえ、あくまでもまだ不法滞在者のままなのです。
すぐに叔母さんに連絡し、急いで書類を揃えて送って貰うように。こんなありきたりのことしか私は口にすることができず、マンションの住所を彼に教えた。うまくいけば一週間で届くでしょう、落胆する私を逆に慰めるように彼はいった。
待てど暮らせど書類は届かなかった。ただでさえ私を憂鬱にさせる正月が過ぎても、それは届かなかった。私は意を決した。
まさかと思いながらも、大阪府警、拾得物、パスポートで検索をかけてみた。彼のいっていた緑色のパスポートが、まさに彼の行動圏にある警察署に一冊届けられていることが判明した。
1月12日の夕、私はひとりでその警察署に向かった。受付で、彼の名前はおろか国籍も告げず、事情を話してみた。担当者はすぐに別の部署に連絡し、二人の刑事らしき人物が現れた。私は二人に挟まれた状態で詳細を尋ねられた。
呆気なくことは解決に向かった。行政(入国管理)と警察は別です、あなたは不法滞在者を出頭させたのだから警察としてはそれはむしろ喜ばしいことです、明日にでもすぐに本人を連れてパスポートを取りに来て下さい。その際、警察は余計な手出しをすることはありません。
ところが念のためと拾得物を確認に行った若い刑事が、戻ってきて、届いていた緑色のパスポートは別人のものだったと報告した。
またもや私は振り出しに連れ戻されのだった。



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