こんなもので一年半ぶりの再開、といっていいんだろうか

上海。
三年前の香港に次いで二度目の中国旅行となった。少なくとも、昨日の夕方、この地に着いてから目にしたこの都市の状況からすると、あらゆることが香港の都市的刺激の何割(何倍?)増しかといった印象であった。今回はモリさんとマルフジ君、それに明日からはマルフジ君の先輩にあたる現地在住中国人の方が案内してくれることになっているが、もしそうでなければ、私のような抵抗力のないひ弱でデリカシーに満ちた人間(本当に!)は、ただただホテルに着くなりベッドに昏倒し、たちまち息を引き取っていたことだろう。
それほどまでに、こと建築を中心とした都市的状況や景観に関する限り、観るのにおよそただごとではないといった気恥ずかしさと、よもやそんなことはあろうはずもないけれども、もし仮に同じ設計条件を与えられれば自分だって、といった疚しさを感じずにはとてもいられない類いのものであった。

つまり。
前大戦前後に租界や魔都と呼ばれていた頃の懐旧的ヨーロッパ文化の馥郁とした香り、というか、むしろいまではとても貴種となってしまった高級スパイスの無残な残り香。そして、こういいかたをするのは少し気が引けるけれども、それらを圧倒的に凌駕してしまうかのごときあらゆる新奇、即席の人工甘味料、珍種のスパイス群。加えて、それらの間にかすかに垣間見える欧米や日本から出張してきたにちがいない世界的流行りの建築家たちによるであろう流行りモードの建築群。
つまり、全体としては、私の住む大阪などとは比較にならないほどに混沌、混乱、混雑、混濁した超巨大都市。

夜中に目覚めて書き綴ったホンの僅かな文章。これでも一年半ぶりのブログ更新としてはよほど無理をしたのです。
疲れました。できれば明日、この続きを書きます。
今日は憧れの上海蟹を食べました。タイ米によるチャーハン、空心菜の炒め物がとっても美味しく、価格も香港に較べれば随分と手頃でした。

何と明日、私は、今回の最大目的、簡易水力発電機を購入しに参ります。

ことの次第(3)

その足で私は彼を訪ねた。パスポートを落としたその日、彼は大阪市に隣接するある市に仕事で出かけていた。前後の状況から考えてパスポートをなくしたのはその時であったはずだと彼はいっていた。確かに大阪府警の拾得物のリストには、その市にもパスポートが一冊届けられていた。だがそれは彼のいう緑色ではなく、紺色と記されていた。リストに記載されたすべてのパスポートのうちで緑色のものはただ一冊、それがまさに彼の行動圏にある昨夜の警察署に届けられていたのだ。だから彼は勘違いをしているだけだと私は思っていた。
エス、イエース、マイ パスポート ワズ ディープ・ブルー。オンリー コヴェル ワズ グリーン。何のことはない。紺色のパスポートに緑色のカバーがかけられていたというのであった。
翌朝、今度は彼も伴ってその市警に趣き、拾得物の係に用件を告げた。しばらくすると、まるでTVドラマのような刑事が三名、血相を変えて現れた。私たちは別室に連れ込まれた。だがもう私は慌てることもなく事情を説明し、彼は入管の出頭証明書を呈示した。こともなくパスポートは彼の手に返還された。
だがそれはまたもや私たちが出発点に引き戻されることになるだけのことであった。
戻ってきたパスポートは中身がばらけ、その中身はふやけていた。くすんだ緑色のカバーが破れ、その破れ目から紺色の表紙が顔をのぞかせていた。そのパスポートが使い物にならないであろうことはそんなことの専門外の人間である私の目にも明らかであった。
刑事たちもそのことについて多少は気懸かりそうな様子も見せたが、もうそれは自分たちの責任外のことであった。彼らにしてみれば労なくして大阪から一人の犯罪者を減らすことができるという訳であった。彼らは上機嫌であった。そして帰り際、私にこんな言葉を投げかけた。
ダンナさん、ちゃんと面倒見たってやぁ。
あの日はひどい雨だった、彼は言い訳するように私にいった。途方に暮れる間もなく、私たちは領事館に向かった。少なくともこの前より持ち駒は増えたのだ。
彼はぐしゃぐしゃのパスポートと入管の出頭証明書を受付けに見せ、すがるように説明しようとした。今回の受付けは男性であったが、にべの無さでは前の女性と変わりはなかった。前回とまったく同じ内容のメモ用紙が彼に手渡された。
今晩もう一度叔母さんに電話で確認するように。こう彼に告げるのは何度目のことであったろう。恥も外聞もなく白状するが、一日も早く厄介払いをしたい、とっくに私はそんな気分になっていた。その夜から、思う存分私は途方に暮れることができた。
実は最初に入管に出頭した翌々日の12月20日から1月4日まで、フィリピンという国は長い休暇に入っていたという。大分たってから私はそれを聞かされた。そんなことを彼が知らなかったはずはなく、だが彼自身も焦るあまり念頭からすっかり消えてしまっていたのだろう。その日は1月13日。休暇が明けて8日目のことであった。
1月15日の昼過ぎ、やっとそれは届いた。私は、ときには叔母さんの手際の悪さを想い、役所や教会の融通の利かなさを呪い、フィリピンの郵便事情を蔑んだ。だが叔母さんに最初の連絡が届いたのが休暇に入る2日前の夜。彼女が動き始めたのは実質的には休暇明けのことであったろう。だとすればそれからちょうど十日目。叔母さんも役所も教会もフィリピン郵便も、みんな実にてきぱきと行動してくれたにちがいないのだった。
どの書類も驚くべき麗々しさであった。特にその一枚はいままで見たこともないようなゴージャスなものだった。表彰状のような厚手の用紙に、巾3センチほどの赤いリボンがかけられ、そのリボンが真っ赤な蝋で封緘されていた。
いうまでもなくその足で私たちは領事館に行き、3時間ほど待たされ、ついに彼はトラベラー・ドキュメントなるものを手にすることができた。それを持ってすぐさま私たちは入管に向かった。
担当官は、この一ヶ月間の私たちの悪戦苦闘をまるで意に介することなく(当たり前だが)、こともなげにそれを受けとり、何やら書類を用意し始めた。
出国は一週間後の22日。それまでに航空券を購入し、その領収書と便名をこちらにファックスすること。出国の前日の午前9時、必要書類を揃えて必ずもう一度ここに出頭するように。
以降、一切の滞りなく、1月22日、彼は故国に旅立っていった。
その前夜、私は最初は空港まで見送りに行こうと思っていたのだが、なぜかそんな自分に抵抗するかのように彼にこう告げた。
空港までは自分でシャトル・バスで行くように。少々私は疲れすぎた。
深々と彼は腰を折ってこういった。センセー、ホントーニアリガトーゴザイマシタ。
彼の口から出た、初めてのセンテンスとしての日本語であった。



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ハリー・ニルソン   「噂の男」

ことの次第(2)

入管の係官は、領事館に行けばトラベラー・ドキュメントはすぐに発行してもらえるだろう、そういっていた。だから私たちはそれを持ってすぐにまた入管に戻るつもりだった。彼は、パスポートはなくしたけれども、身分証明書は持っていた。トラベラー・ドキュメントなるものを発行してもらうに必要な事項はすべてそこに記されているはずであった。
領事館は寒風吹きすさぶ高層ビル街にあった。受付の女性は紙片に何やらを書き込み、こともなげにそれを彼に手渡した。彼は身分証明書を取り出してしきりに訴えかけようとした。だが女性は取り合う素振りも見せなかった。入管の係官がすぐに発行してもらえるだろうといっていたのは、期限切れのパスポートを所持していた場合のことであったのだろう。
メモには、彼女の剣呑な態度から想像されたよりはるかに酷薄なことが書かれていた。出生証明書、義務教育修了証明書、所属教会の洗礼証明書。
こんなものが揃うのに、いったいどれだけの時間がかかるのか。私自らの責任において招き寄せた事態であったとはいえ、早晩終わるであろうと思っていたその早晩が、一挙にこの国と彼の国を隔てる距離にまで遠のいた。
だが入管の係官はすぐにでも彼を出国させたがっていたはずだ。不法滞在者を減らすことは入管にとって手柄になることだとエンドーさんもいっていた。だから入管の方から何らかの手を打ってくれるかもしれない。
本来なら携えているべきであったトラベラー・ドキュメントもないままに、再び私たちは入管に向かった。だが、いうまでもなく、けんもほろろであった。ところがこのとき、当の本人が驚くべきことを打ち明けた。自分がパスポートを落とした日、それが誰かに拾われてどこかの警察署に届けられたというニュースをTVで観た、日本語が分からないのでどこの警察署かは知らないが、あれは確かに自分のものだった。
それを取り戻すことができれば、そんな煩わしい証明書類、というよりトラベラー・ドキュメントそのものが必要なくなる。彼のパスポートはまだ有効期限内であった。それさえあればすぐに出国の手配に入ることができる。だが、係官はまたもや冷たくいい放った。彼が警察署に顔を出せば逮捕される可能性があります、ここに出頭したとはいえ、あくまでもまだ不法滞在者のままなのです。
すぐに叔母さんに連絡し、急いで書類を揃えて送って貰うように。こんなありきたりのことしか私は口にすることができず、マンションの住所を彼に教えた。うまくいけば一週間で届くでしょう、落胆する私を逆に慰めるように彼はいった。
待てど暮らせど書類は届かなかった。ただでさえ私を憂鬱にさせる正月が過ぎても、それは届かなかった。私は意を決した。
まさかと思いながらも、大阪府警、拾得物、パスポートで検索をかけてみた。彼のいっていた緑色のパスポートが、まさに彼の行動圏にある警察署に一冊届けられていることが判明した。
1月12日の夕、私はひとりでその警察署に向かった。受付で、彼の名前はおろか国籍も告げず、事情を話してみた。担当者はすぐに別の部署に連絡し、二人の刑事らしき人物が現れた。私は二人に挟まれた状態で詳細を尋ねられた。
呆気なくことは解決に向かった。行政(入国管理)と警察は別です、あなたは不法滞在者を出頭させたのだから警察としてはそれはむしろ喜ばしいことです、明日にでもすぐに本人を連れてパスポートを取りに来て下さい。その際、警察は余計な手出しをすることはありません。
ところが念のためと拾得物を確認に行った若い刑事が、戻ってきて、届いていた緑色のパスポートは別人のものだったと報告した。
またもや私は振り出しに連れ戻されのだった。



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ホリー・コール 「Calling You」

ことの次第(1)

特に忙しそうな場合を除いて、現場で彼を見かけることはあまりなかった。私を見るといつも軽く笑顔で会釈し、あとはただ黙々と作業を続けるだけだった。ほかの二人はそれなりに専門的な仕事もこなしていたが、彼には雑用のような仕事しか与えられていなかった。私の目には三人のうちでは彼が最も聡明そうに映っていたので、それが不思議でならなかった。あるとき、現場監督のモリさんに、尋ねる風でもなく彼について尋ねてみた。
在日領事館で仕事ができるからという業者の偽計に乗せられて、三年前、フィリピンから十五日間のビザで来日していた不法滞在者だった。この三年間、職務質問や通報に脅えながら、その日暮らしの生活を彼は大阪で続けてきていたのだった。
あとの二人はモリさんの仕事仲間、タクさんの息子たちだった。その奥さんがフィリピンの女性で、だから二人の息子たちは彼とは違って日本でも問題なく働くことができていた。日本語も不自由なく話せるようだった。彼にとってその二人の兄弟は大阪で出会ったかけがえのない知友となっていたことだろう。昼休みなど、三人はいつもタガログ語で会話し合っていた。彼が心おきなく話せるのはおそらくそんな場合だけで、だから彼は日本語がほとんどできなかった。
兄弟の通訳によって、私は彼の事情をいろいろと尋ねてみた。尋ねてしまっていた。私でなくとも、このような場合、多くの者はそうするだろう。
もっと若いと思っていたが、今年で四十歳になるという。マニラからバスで三時間ほどのところにあるバタンガスという町の、そこからまだ少し離れた田舎から彼は出てきていた。フィリピンの教育事情がどの程度のものなのか私は知らないが、彼は地元の州立大学を二年生で中退していた。そのせいか、他の二人は話せない英語を、彼は何とか話すことができた。故国への仕送りはもう一年以上途絶えている。同じくドバイにメイドで出稼ぎに行っているという彼の奥さんも、先頃かの地を襲った経済危機で、事情は彼以上に悪くなったらしい。三人の子供たちは叔母さんが辛うじて面倒を見てくれている。一番下は四歳になる男の子で、つまりその子供が生まれて一年ほど経った頃、彼は日本にやってきていた。プリペイド・カード方式の携帯電話を持っていて、その中身は家族の写真だらけだった。いまは一泊千五百円の釜ヶ崎のドヤに身を潜め、その日暮らしを続けている。稼ぎのない日が続くと野宿をすることもあるという。
つまり、にっちもさっちもいかない状態に彼はあった。
昨年まで自分の事務所として使っていた古いマンションの部屋をリフォームしてから売りに出そうと私は考えていて、その工事の最後、残材出しというような雑役で、彼はモリさんに呼ばれていた。モリさんも、不法滞在者と知りながら大っぴらには彼を使う訳にもいかなかったのだ。
実際、このような事態に直面した場合、すべての者が私と同じような行動に出る訳ではないだろうと私も思う。だが、こんなところでこんなことを明らかにするのは甚だしく非常識なことだと承知しながらも敢えて書くが、経済的な事情というような意味においては、このような行動に出る条件に私は恵まれていた。本当に多寡が知れているけれども、この条件はまったくの偶然によって私に与えられていたものにすぎない。そしてこの条件がなければ、いうまでもなく私は、形だけの同情や憐憫を彼に残し、即座に彼の前から身を引いていただろう。しかも私と同じような条件を持つ者であれば、私のしたこと、いや、もっと自分を犠牲にする人たちだって当然世間にはいくらもいるだろうと私は思う。私はつねにこれといった犠牲が自分に及ばない範囲を念頭に入れながら、行動を決めていた。
いつかここで述べたように、昨年、私は別のところに事務所を移していて、この部屋は無用のままになっていた。普通ならばすぐに人に貸すか売却すべきであっただろうが、少しずつ亢進しつつあった私の鬱が、そのような処理をずるずると先延ばしにしていた。なんと気楽な立場に私はあったことだろう。
以上のような条件をもとに、さし当たってこの部屋を売りに出すまではここに住んでもいいと私は彼に告げていた。ドヤ代などもったいなすぎると私は思ったからだ。そしてすぐに入管に出頭することを彼に促した。思い上がったいい方になるかも知れないが、ほとんど命じたといってもいい。不法滞在が露見することに脅えながらこの国で生活するよりも、しかも家族に仕送りができているのであればまだしも、自分ひとり生きていくのさえ大変になっているのだ、同じ苦しい状態が続くのであれば家族一緒の方がいいに決まっている。実際、彼は望郷の念、子供恋しさに身が焦がれるような状態にあった。一度は出頭して帰国しようとしたらしいのだが、その渡航費用さえ用意できなくて断念せざるを得なかったという。むろん、無事故国に帰れたところで彼の困難がすぐに解消する訳でもない。だが少なくとも私にとっての煩わしさはすぐに終熄する。私は気楽に考えていた。昨年12月16日のことであった。
翌日、私はエンドーさんを訪ねた。人権派の弁護士として名高い彼は、こんな事例を無数にこなしていた。いろんなアドバイスを受けた。建築士という国家資格を持つあなたのような者が後見人であれば、入管の人間の態度は豹変する、彼は思わぬことまで教えてくれた。
12月18日、彼を伴って大阪南港にある入国管理事務所に私は趣いた。出頭(Voluntary Appearance)というデスクに行くと、まさにエンドーさんのいうとおりであった。彼が三年以上の不法滞在者であったこと、しかも一度は出頭しながらもすぐに連絡を断っていたという記録を持ち出して、担当官も最初はかなり気色ばんでいた。だが付き添っていた私の立場を説明すると、俄かに彼は態度を柔和なものに変えた。
本来ならばすぐに出国の手続きが取られるはずであった。だが予期せぬ事態が待っていた。その一ヶ月ほど前、なんと彼はまだ有効期限の残っていたパスポートをどこかに落としてしまっていた。パスポートなどあろうがなかろうが、強制的に彼は出国させられるものと私は思い込んでいた。
トラベラー・ドキュメントという、出国専用の簡易パスポートを領事館に発行して貰ってからまたここに出頭しなさい、そういって担当官は出頭証明書のような書類を彼に手渡し、常にその書類を携行するよう命じた。だがもしこの間に彼が職務質問などにでも会えば、この書類の効果はともかく、あなた自身も不法滞在者隠避の罪を問われる可能性がある、そう冷たく担当官は私にいい放った。彼の庇護にはくれづれも抜かりがないようにと私は念を押された。
その足で私たちはすぐに京橋にあるフィリピン領事館に向かった。だがこれは、時間的にいえば、私(もちろん彼自身も)が抱えることになる困難のまだ端緒というにすぎなかった。私たちはようやく迂回路をよたよたと歩き始めたばかりだった。


今日のYoutube
Miles Davis  「Walkin'」  Part 1

同           Part 2

    

新年あれこれ(追記あり)

昨年の11月25日と12月4日の両エントリーで述べたように、昨秋、友人のホンダ氏に誘われ、彼の奉職する大学の学生の合宿に私は付き合った。私にとってもここ数年、恒例のようになっていた行事であった。実はあの合宿に参加する直前の頃から、従来から罹っていた鬱病が少し進行し、服用していた抗鬱剤の量が増えていた。もちろん合宿には、その薬や、他に処方されていた導眠剤や睡眠剤なども抜かりなく私は持参した。
だがどんな良薬にも優るあの合宿の力であった。これはホンダ氏の人格による以外の何ものでもないが、学生たちはもちろんのこと、私自身も、実になごやかでのびやかで有意義な時間と空間を堪能することができた。結果的に私は1錠の薬も必要とせずにあの3日間を過ごすことができた。ついでに私は、その間、若い人たちの活力と感性を、吸血鬼のようにひそかにたっぷりと吸い取らせていただいた。あの合宿から帰って、妙な疲れや脱力感が残っていると感じた学生がいたとしたら、間違いなくそれは私の犠牲になった証拠だ。
それ以来、抗鬱剤の服用を私はやめていた。そのせいで確かにメランコリーは深く、エモーションの起伏も大きくなったが、なんとかそれでも日常をやり過ごすことはできていた。モノを作ったりするという意欲や気分もさして衰えている訳でもなかった。その成果が前回のエントリーで採り上げた椅子である。
ところが、これも前回に述べたことだが、年末から正月にかけてという私の大嫌いな時期がやってきて、すべてが元の黙阿弥になってしまった。いろんなことに巻き込まれるうち、すっかり気分はどんよりし、憂鬱な気分はいや増すばかりとなった。新年最初の神経科受診の日、私が最も頼りにしているカギ先生に、再び抗鬱剤の処方をお願いした。先生の助言に従って、今度は当分、最小限の服用を続けることにした。

昨年、ふとしたことで私はある若い同業者と知り合いになっていた。年末に会ったとき、彼は年が明けるとすぐに堺市に所用で出かけることになっていて、ならば凄い建築をお目にかけようと約束していた。当日、私にとっても20年ぶりのその建物への再訪であったが、相変わらずビクともしない偉容に私自身も大いに力づけられ、大いに慰められた。この建物についてはいずれここで採り上げるつもりでいたが、今回の再訪でその気分はぐんと強まった。いずれ条件が揃えば大きなエントリーを上げるつもりをしている。これはそのほんの予告編。ついでにここもどうぞ。

最初から一脚はぜひとも彼にと決めていて、出来上がったばかりのソナティーナ()を車に積み、先週の金曜日の夜、何ヶ月ぶりかでホンダ邸を訪問した。昨秋の合宿からまだ2ヶ月しか経っていなかったにもかかわらず、ホンダ氏ならでは、あるいはホンダ氏だからこそというような話が山のように積もっていた。いつものように奥さんも加わって話は尽きず、まだ11時頃だろうと思ってふと時計を見ると、すでに深夜の2時を回っていて私はひどく驚いてしまった。それから1時間ほどして、私と同じような時間感覚でいたらしいホンダ氏も、時計を見て驚いた。
最初、それまで二人のあいだでは話題に上がったことさえなかったような商売の話で、思い切り盛り上がった。およそ見当外れな発想によるその商売を、共同出資で始めれば、来年の今頃は二人とも億万長者になっているはずだ、そんな確信に私たちはしばし満たされた。だがあっという間にそんな空疎な絵空事から解放され、すぐに私たち本来のペースに戻った。
昨12月18日のこのブログのエントリーで張り付けた秋田県西馬音内の盆踊りのYoutubeを、私は持っていたiPhoneでホンダ氏にお見せした。建築を民俗学的な側面から考えることにおいて誰よりも強い関心を持っているホンダ氏のこと、いうまでもなく、ぜひとも実際に見学に行こうという話になった。また、バスクの文化が最も色濃く残っているにちがいないと二人がそれぞれ別個に目をつけていたあるピレネー北麓の街にも、今年は一緒に行こう。
できることならどちらも小さなグループを組んで行きたいと瞬時に私は予定を立てた。まわりを見渡しても、参加希望者は少なからずいるはずだ。いなくても彼と彼と彼・・・は無理にでも引っ張っていこう。可能性は限りなくゼロに近いが、というよりゼロそのものであるだろうが、極東と極西の文化を関連づけられる何ごとかが発見できるかもしれない、などという途轍もないホラ話を想いながら、ホンダ邸ではいつもそうであるように、限りなく安らかな気分で、私は眠りについたのだった。

今日、昨年末以来、私を最も煩わせていたある問題の突破口が見つかった。ここ3週間ほど、ある犯罪者を私は私は匿っていて、その犯罪から彼を放免し、合法的に解放してやることのできる糸口がついに見つかったのだ。急遽こんなエントリーを上げようと思い立ったのは、そのことによって一挙に肩の荷が下りたような気分になったからだ。明日、ことの次第がはっきりすることになっている。すべてが首尾よくはこべば、明晩、その顛末をここで詳しく報告するつもりだ。報告がなければ私自身が犯罪者隠避のカドで留置場にいると思っていただきたい。


追記(1月13日 23時30分)
好事魔多し、と称するには、今私がやっていることはあまりにも好事でなさ過ぎるし、千里を走ってくれるような悪事を働いている訳でもないと思うけれど、やはりというか、結局すべてが首尾よくはこぶということにはなりませんでした。私自身も、今これを書いているということは、留置場にいるという訳でもありません。明日、さるところにまた出かけることになっていますが、もうすべて首尾よくはこぶというような楽観は捨てました。何ごとによれ、必要なのは根気と我慢であるということを思い知らされています。






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ヴィム・ヴェンダース    「Der Stand der Dinge(ことの次第)」

単なるダジャレです。

ソナティーナ

昨年の9月1日のエントリーで私はこんなこと書いた。
「そのテーブル用の椅子の試作品を、これはステンレスの熔接を必要とするので自作という訳にはいかず、フレーム作りをタケチさんに頼んでいたものがきのう出来上がってきた。予想していたとおり驚くべき美しさであったが、なにぶん、使用したステンレス棒が細すぎて、椅子としては強度が不足していることが判明したので、今日、10ミリ筋を16ミリ筋でもう一度作り直して欲しいと頼んだ。」 
これを読んでなんと傲慢な、と思われた方もいるだろう。だがその実態は以下の通り。





真正面から。この写真だけでもうニヤリとする人もいるだろう。




作り直してもらったものには十分な強度があったので、同じものをあと9脚作って欲しいとタケチさんに頼んだ。6脚は自分が使うつもりで、残りの4脚は、素晴らしい出来上がりを見て自分も欲しいという者が出てくるだろうとの目論見のもとに、余分に作っておこうとしたのだ。タケチさんにとってこんな仕事は大した稼ぎにもならないだろうし、こちらも急いでいる訳でもなかったので、手の空いているときでいいからと告げておいた。結局、11月半ばにそれらは出来上がってきた。





真上から。上の写真を見てニヤリとした人でも、真上からだとこんな風に見えると想像できた人はそうはいないのではないか。ただし、一番上の横棒だけはオリジナルの直線を緩やかな曲線に変えてある。




その1脚をもって、私は大国町にある会社に向かった。
一昨年の8月10日のエントリーにも書いたように、このあたりには皮革を扱う業種が多く残っている。ある太鼓屋の店先で、4,5人でお囃子のような音頭を取りながら太鼓の皮を張っている人たちがいたので、このあたりで皮革を小売りしてもらえるようなところはないかと尋ねてみた。その一人が、それならとわざわざその会社まで私を案内してくれた。応対に出た責任者とおぼしき老人は、用件を告げると、うちの品物はアルマーニの店舗の内装にも使われているんでっせと嬉しそうに話した。巨大な壁面全体が驚くべき種類の皮革の在庫棚になっていたが、私の望んでいたようなものはそこにはなかった。だが老人が持ち出してきた分厚い見本帳の中にそれはすぐに見つかった。皮革の量を表す単位をデシ(おそらくデシ平方メートルの略。1デシは10センチ平方、つまり100平方センチ)と呼ぶことをこの時初めて知った。1脚あたり最低で80デシは必要だと私は伝え、それなら100デシ前後のものを10枚発注しておきましょうと彼はいった。私の頼んだものの正式名称は、Hair Calf, Black and White。平たくいえばアメリカ産乳牛の毛皮。1デシあたり200円ということだった。





毛皮だけではすぐに伸びてきってしまうと思ったので、行きつけのホームセンターで見つけてあった樹脂製のネットを下張りに用いた。また、ステンレス綱を木製の床に直接触れさせる訳にはいかないので、接地部分には給湯用さや管の内側のパイプを短く切ったものを巻き付けた。
もちろんそうだ。この椅子のオリジナルはいうまでもなくこれ。近代建築家のデザインした家具類のほとんどは版権切れになっていて、現在ではオリジナル版の数分の一というようなジェネリック版が多数出回っているというのに、このジグザグ・チェアにはいまだにビックリするような値段がつけられている。それともこの椅子はもともと数十万円もしていたのだろうか。
こんな私の注文になくてはならないタケチさんは、いつも最小限のことを伝えればあとは任せっきりにしても私以上にいろんなことに気を遣いながら製作してくれる。今回は、手持ちのリートフェルトの分厚い作品集をそのまま彼に渡し、そこに掲載された図面のシルエットをそのまま忠実に再現して欲しいと頼んだ。ただ上にも述べたように、最上部の横棒は背骨に直接当たることになるので、これぐらいにして欲しいとその場でフリーハンドで曲線を描いた。





前回のエントリーでも書いたように、子供の頃はともかく、いつの間にか私は正月という期間がイヤでイヤでたまらなくなっていた。だからいつの頃からか、無理矢理にでも仕事を作ってはこの時期をそれでやり過ごすという習慣が身についていた。年末、アメリカから毛皮が届いたという連絡を受けていて、早速それをもらい受けに行ったのだが、そしてすぐにでもその型取りや裁断に取りかかりたかったのだが、我慢して私は正月が来るのを待った。





元旦、早速私は作業に取りかかった。1枚くらいは失敗することを覚悟しながらも、10枚ある毛皮をそれでも次々と念入りに型取りし、裁断し、つなぎ部分にあるいはハトメを用い、あるいは皮革屋で只同然で分けてもらった革紐を用い、次々と慎重に作業を進めていった。
オリジナルのリートフェルトのジグザグ・チェアは、よくもこんなもので人間の体重が支えられるものだという、そんな驚きを誘起することを目的としたようなデザインである。使用される樹種の強度、厚み、接合の仕組み。それらが極限にまで究められたような椅子である。





だがそんなことは私の知ったことではない。今度の私の部屋にはどんな椅子がふさわしいのか、頭の中に入っていたいろんな椅子のイメージのなかから直感的に選び出された形に過ぎなかった。そしてその座面や背もたれに張る素材はどんなものがふさわしいのか、これも自分でも驚くような無責任さで選んでみた。近代建築家のデザインした家具の中で最もよく知られたコルビュジェの寝椅子、あの寝椅子に張られていたような毛皮を探してみよう。(コルビュジェのはポニーの毛皮のはずであったが、さすがにそれはなかった。)





実をいえば、私はリートフェルトという建築家を特に好きという訳でも何でもない。1920年代、オランダのロッテルダムを本拠としたデザイン運動(デ・スティル)で、彼は、ドゥースブルフやドイカーといった他のどの建築家たちよりも純粋にこの運動に殉じたと思われるような建築家であった。だが建築という存在を支えるに最も基本的な要素の一つである実用性、その実用性というものを無視した過度の実験性について、基本的には私はおおむね否定的な立場を取ってきた(つもりだ)。私が建築雑誌というものに書いた最も初期の頃の原稿にも、リートフェルトのそういったネガティヴな局面について触れていた。とはいえ、この運動の絵画における中心人物であったモンドリアンについては、建築とは異なるその無用性の故に、彼の試みた実験性は歴史の中でも特筆すべきことであったと私は十分に評価している。




もともと私はこんなバルバロイ的な発想をする人間ではなかった。いつも規範に忠実な発想しかできない人間であった。だが長女が交通事故に遭って以来、まともな建築の仕事に従事することはおろか、それについて考えることさえ私はほとんど出来なくなってしまっていた。ところがその4年あまりのブランクが、私の知らぬ間に、私の想像力の軌道を変えてしまっていたのだろう。こんな椅子(本当にどうでもいいようなものだけれども)を作るように私はなっていた。
ところで、オリジナルのリートフェルトの椅子は、その無理なデザインによるあまりにもリジッドな作りから、本来、椅子というものが有すべきクッション性というものが皆無であった(と思う)が、そしてこれは予定していたことでも何でもないのだが、この椅子は十分に強くありながらも適度なクッション性も発揮する。




今日のYoutube
ディオンヌ・ウォーウィック   「A House is not a home」

そこに座る人があろうがなかろうが椅子は椅子のままだが、そこに愛し合う者たちがいなければ家(a house)は家(a home)ではないという、Hal David、Burt Bacharach、Dionne Warwick の黄金トリオによる絶頂期の曲。

歳末あれこれ 

どうやら2日ほど前から気がつかないうちにプライベート・モードの設定になっていたようです。失礼しました。(1月2日、10時50分)


というようなタイトルで始めたが、本当はこんな大袈裟な時期は私は大嫌いだ。正月の方がもっと嫌いだが、歳末は個人の行動の自由度はそれなり保証されているだけまだしもという感じだ。私の家族や兄弟が私と同じような考えでいてくれたら、どれほど自由にこの疎ましい時期をやり過ごすことができるかとずっと私は思い続けてきた。

この12月の初め頃、ほぼ4年半ぶりに長女の肉声を聞いた。この間ずっと、彼女の口蓋から出てくるのは、咳き込むという動作に動員される器官、筋肉、皮膚等の接触、圧迫、急開放がもたらす物理音だけであった。ところが先日、彼女にしては相当に低音だったけれども、それでも確かにあれは声帯を通じて出てきた<声>であった。次はそれがいつ意味というものを伴った<コトバ>として出てくるのか、我々が固唾を呑んで見守るという段階に彼女は漸く入った。のだろうか。最近になって、いつも確実にという訳ではないけれど、たまに明らかに追視と思われる眼球の動きも見せ始めた。しばらく前から、日曜日には車椅子に乗せられて、子供の頃から通っていた教会の礼拝にも参加するようになっている。
そこで早速私は彼女との延び延びになっていた約束を果たすべく、難波にあるデパートに向かった。10年ほど前、ニューヨーク旅行をしようとしていたとき、ある有名ブランドのロゴ・マークをそっくりに真似たメモ用紙を私に手渡し、そのブランドのマフラーがおみやげに欲しいと告げた。バッグや時計やアクセサリー類は高価すぎて私には手が出せないだろうからと、遠慮しながらのことであったにちがいない。
ところがフィフス・アヴェニュでそのブランド・ショップを見つけたはいいが、私が中に入ろうとすると、ちょうど毛皮のコートを着た二人連れのマダムが話しながら出てくるところだった。二人が出るまでドアを開けて待っていると、そのひとりが、こちらに一瞥をくれることもなく、むしろ眼を逸らせるべく顔を上向き加減にして、Have a nice day〜〜などとのたまいながら開いたドアを通過していった。その二人の仕草と我が身のみすぼらしさにすっかり私はうろたえてしまい、それでも蛮勇をふるって中に入ってはみた。だがすぐにこれ見よがしに身なりを整えた店員が私に寄り添ってきた。娘の欲しがっていたマフラーを探す余裕もあらばこそ、そそくさと私は店を後にしたのだった。そのときは、マフラーは見つからなかったなどといい訳をし、ありきたりの土産物(チョコレートとか)でその場を凌いだのだったと思う。
ところがここは我が地元、大阪はミナミである。ニューヨークの時よりもっとみすぼらしい身なりにも関わらず、その中心に位置するデパートに私は向かい、件のブランド・ショップを見つけ、颯爽と中に入った。同じように身なりを整えた店員につきまとわれはしたが、今度は平然といくつかの質問を発し、娘にプレゼントするためだとかなんとか訊かれてもいないことまで口走り、パッケージはクリスマス・プレゼント用のものになさいますかと問われると、やはりその方がいいでしょう、などとわざと鷹揚に答えたりしたものだった。でもさすがにその有名ブランドのマフラー(店員はストールとか言っていたような気がするが)、いかにも可憐な我が娘にこそお似合いというべきお洒落さであった。

この26日、名古屋のドケ君とマツイ夫妻を大阪に呼んでいて、ディープ・サウスの寒々しい風景をお二人にお見せしようと思っていた。ついでに最近ふとしたことで知り合った若い建築家のマルフジ君にも声をかけてみた。ところがちょうどその日、マルフジ君も忘年会を予定していて、若い建築家が多く集まるのでそちらに合流しないかと逆に誘われた。当然その方が面白かろうとO.K.した。マルフジ君は空堀(からほり)商店街の一角に事務所を構えていて、このあたりは最近、目新しい店やブティックなどが多く入り込んでいて、お洒落だのオサレだのだったりするスポットとして話題になっている所でもある。
ドケ君とマツイ夫妻、東京に転勤してしまったヨネ君等、ごく一部の人たち、それにホンダ・ゼミの学生以外、もう何年も私は若い(若くなくとも)建築家と会ったこともなければ話をしたこともなかった。もちろんかなりお酒を飲んでしまっていたせいもあるが、少し私は調子に乗り過ぎてしまったようだ。彼らがひそかに憧れているかもしれない建築家たちをばったばったとなぎ倒すようなことばかり喋ってしまった。私の(顔に似合わぬ?)あまりの毒舌ぶりに、呆れ果てていた者もいたにちがいない。
マツイ夫妻は愛知県から車で来ていて、ドケ君も乗せての帰路にほど近いということもあり、次の日、7ヶ月ぶりに鬼魂楼に行ってみることにした。前夜、私の隣に座っていたオカザキ君も加わった。
マツダさんは不在だった。というより、おそらくもうそこには住んでいなかった。この5月に訪れた時、いずれ彼の住む家自体が鬼魂楼に食い潰されるしかないと私は書いたが、その通りになっていた。おそらく娘さんの家かどこかに居を移し、そこから工事をするためにここに通っているのだろう。だけどたぶん冷蔵庫ぐらいは残してあって、ドケ君が電気のメーターが動いていることを発見した。
あの高齢で今後どこまで続けられるのか不安であったが、何しろすべてを一人でやっているので極めてゆっくりとした調子でしかないことは確かだが、工事は順調に続けられているようだった。彼の不在は逆に私を安堵させた。
忘年会のあった日の昼過ぎ、長崎県のエハ君から突然電話がかかってきた。クリスマス・カードを送ったが、転居先不明で戻ってきたので、現在の住所を教えろという。
きのう、その分厚い郵便物が届いた。
以下は入っていたもののリスト。
1)マリアとヨセフに見守られた飼い葉桶の中のイエスを描いたクリスマス・カード。
2)CD1枚。ダンテの『神曲』を骨格として、エハ君が自ら選曲したコンピレーション・アルバム。収録曲は、『コーヒー・ルンバ』に始まり、福岡県みやま市幸若舞保存会による『敦盛』、マリリン・モンローの『帰らざる河』、『おしん』、『ミンストレル・ボーイ』などから『アヴェ・マリア』にいたるまでの全12曲。娘の枕元に置いておいてやろう。
3)上のCDのためにエハ君自ら製作したジャケットと、おそらくこれもエハ君自らの手になるイコン2枚。これも娘の枕元に飾ってやろう。
4)『小指で運べる寝転びデスク』と名付けられたノート・パソコン用デスクの設計図と、そのCADデータが治められたフロッピー・ディスク1枚。
エハ君は九州の大学を出た直後、突然関西に現れて、当時私が親しく付き合っていた建築家たちの事務所を集中的に転々とし、最後に私のところにも何週間か滞在して長崎に帰っていった。その後、もう10数年前だったと思うが、突然来阪し、カトリックに入信したという報告と、サンベント・メダルを沢山残していった。教えていなかったけれど、私のサンティアーゴ紀行のブログも読んでくれていて、帰国後しばらくして、彼からタロットカードのように沢山のカードが届いた。いつも彼独特の突然の行動や出現に驚かされるが、相変わらずの行動力やとりわけCDジャケットやイコンに見られる旺盛な表現力にも眼を瞠らされる。






以前掲載した写真は、現場の様子を知っていたドケ君にも分かりにくかったらしい。実際はこんな状態。別荘風の急勾配屋根の木造住宅に、荒々しいコンクリートの構造体が覆い被さっている。その木造住宅にマツダさんは一人で住んでいた。





以前の写真の状態からたぶん軌道修正がなされたのだろう。明らかに工事が進行中であることが分かった。これを見てどれほど私は安堵したことか。





その反対側から。





鉄筋の曲げ具合といい、錆びさせ方(※)といい、素人の老人ひとりで工事をしている現場とはとても思えない。





全体で3箇所、スズメバチの巣ができていた。マツダさんが刺されないことを祈るばかりだ。というより、彼らはあたかもマツダさんの守護役であるかのように私には思える。





こんな工事に着手する前から、面白い木の根っこなどを見つけては趣くままに彫刻していたとマツダさんは語っていたが、今回始めてそんなものが縁側に置かれているのを見つけた。狼のようでもあり、得体の知れない怪獣のようでもあった。ちょっと突飛もない思いつきかもしれないが、円空のことを私は想わずにはいられなかった。





エハ君から送られてきたCDのジャケット。





同封されていたイコン。





同。



※ コンクリートアルカリ性なので、鉄筋をある程度さびさせておく方が付着性が強化される。




今日のYoutube
スミ・ジョ   「カッチーニアヴェマリア

エハ君のCDのエンディング曲は「シューベルトアヴェマリア」だった。