ことの次第(1)

特に忙しそうな場合を除いて、現場で彼を見かけることはあまりなかった。私を見るといつも軽く笑顔で会釈し、あとはただ黙々と作業を続けるだけだった。ほかの二人はそれなりに専門的な仕事もこなしていたが、彼には雑用のような仕事しか与えられていなかった。私の目には三人のうちでは彼が最も聡明そうに映っていたので、それが不思議でならなかった。あるとき、現場監督のモリさんに、尋ねる風でもなく彼について尋ねてみた。
在日領事館で仕事ができるからという業者の偽計に乗せられて、三年前、フィリピンから十五日間のビザで来日していた不法滞在者だった。この三年間、職務質問や通報に脅えながら、その日暮らしの生活を彼は大阪で続けてきていたのだった。
あとの二人はモリさんの仕事仲間、タクさんの息子たちだった。その奥さんがフィリピンの女性で、だから二人の息子たちは彼とは違って日本でも問題なく働くことができていた。日本語も不自由なく話せるようだった。彼にとってその二人の兄弟は大阪で出会ったかけがえのない知友となっていたことだろう。昼休みなど、三人はいつもタガログ語で会話し合っていた。彼が心おきなく話せるのはおそらくそんな場合だけで、だから彼は日本語がほとんどできなかった。
兄弟の通訳によって、私は彼の事情をいろいろと尋ねてみた。尋ねてしまっていた。私でなくとも、このような場合、多くの者はそうするだろう。
もっと若いと思っていたが、今年で四十歳になるという。マニラからバスで三時間ほどのところにあるバタンガスという町の、そこからまだ少し離れた田舎から彼は出てきていた。フィリピンの教育事情がどの程度のものなのか私は知らないが、彼は地元の州立大学を二年生で中退していた。そのせいか、他の二人は話せない英語を、彼は何とか話すことができた。故国への仕送りはもう一年以上途絶えている。同じくドバイにメイドで出稼ぎに行っているという彼の奥さんも、先頃かの地を襲った経済危機で、事情は彼以上に悪くなったらしい。三人の子供たちは叔母さんが辛うじて面倒を見てくれている。一番下は四歳になる男の子で、つまりその子供が生まれて一年ほど経った頃、彼は日本にやってきていた。プリペイド・カード方式の携帯電話を持っていて、その中身は家族の写真だらけだった。いまは一泊千五百円の釜ヶ崎のドヤに身を潜め、その日暮らしを続けている。稼ぎのない日が続くと野宿をすることもあるという。
つまり、にっちもさっちもいかない状態に彼はあった。
昨年まで自分の事務所として使っていた古いマンションの部屋をリフォームしてから売りに出そうと私は考えていて、その工事の最後、残材出しというような雑役で、彼はモリさんに呼ばれていた。モリさんも、不法滞在者と知りながら大っぴらには彼を使う訳にもいかなかったのだ。
実際、このような事態に直面した場合、すべての者が私と同じような行動に出る訳ではないだろうと私も思う。だが、こんなところでこんなことを明らかにするのは甚だしく非常識なことだと承知しながらも敢えて書くが、経済的な事情というような意味においては、このような行動に出る条件に私は恵まれていた。本当に多寡が知れているけれども、この条件はまったくの偶然によって私に与えられていたものにすぎない。そしてこの条件がなければ、いうまでもなく私は、形だけの同情や憐憫を彼に残し、即座に彼の前から身を引いていただろう。しかも私と同じような条件を持つ者であれば、私のしたこと、いや、もっと自分を犠牲にする人たちだって当然世間にはいくらもいるだろうと私は思う。私はつねにこれといった犠牲が自分に及ばない範囲を念頭に入れながら、行動を決めていた。
いつかここで述べたように、昨年、私は別のところに事務所を移していて、この部屋は無用のままになっていた。普通ならばすぐに人に貸すか売却すべきであっただろうが、少しずつ亢進しつつあった私の鬱が、そのような処理をずるずると先延ばしにしていた。なんと気楽な立場に私はあったことだろう。
以上のような条件をもとに、さし当たってこの部屋を売りに出すまではここに住んでもいいと私は彼に告げていた。ドヤ代などもったいなすぎると私は思ったからだ。そしてすぐに入管に出頭することを彼に促した。思い上がったいい方になるかも知れないが、ほとんど命じたといってもいい。不法滞在が露見することに脅えながらこの国で生活するよりも、しかも家族に仕送りができているのであればまだしも、自分ひとり生きていくのさえ大変になっているのだ、同じ苦しい状態が続くのであれば家族一緒の方がいいに決まっている。実際、彼は望郷の念、子供恋しさに身が焦がれるような状態にあった。一度は出頭して帰国しようとしたらしいのだが、その渡航費用さえ用意できなくて断念せざるを得なかったという。むろん、無事故国に帰れたところで彼の困難がすぐに解消する訳でもない。だが少なくとも私にとっての煩わしさはすぐに終熄する。私は気楽に考えていた。昨年12月16日のことであった。
翌日、私はエンドーさんを訪ねた。人権派の弁護士として名高い彼は、こんな事例を無数にこなしていた。いろんなアドバイスを受けた。建築士という国家資格を持つあなたのような者が後見人であれば、入管の人間の態度は豹変する、彼は思わぬことまで教えてくれた。
12月18日、彼を伴って大阪南港にある入国管理事務所に私は趣いた。出頭(Voluntary Appearance)というデスクに行くと、まさにエンドーさんのいうとおりであった。彼が三年以上の不法滞在者であったこと、しかも一度は出頭しながらもすぐに連絡を断っていたという記録を持ち出して、担当官も最初はかなり気色ばんでいた。だが付き添っていた私の立場を説明すると、俄かに彼は態度を柔和なものに変えた。
本来ならばすぐに出国の手続きが取られるはずであった。だが予期せぬ事態が待っていた。その一ヶ月ほど前、なんと彼はまだ有効期限の残っていたパスポートをどこかに落としてしまっていた。パスポートなどあろうがなかろうが、強制的に彼は出国させられるものと私は思い込んでいた。
トラベラー・ドキュメントという、出国専用の簡易パスポートを領事館に発行して貰ってからまたここに出頭しなさい、そういって担当官は出頭証明書のような書類を彼に手渡し、常にその書類を携行するよう命じた。だがもしこの間に彼が職務質問などにでも会えば、この書類の効果はともかく、あなた自身も不法滞在者隠避の罪を問われる可能性がある、そう冷たく担当官は私にいい放った。彼の庇護にはくれづれも抜かりがないようにと私は念を押された。
その足で私たちはすぐに京橋にあるフィリピン領事館に向かった。だがこれは、時間的にいえば、私(もちろん彼自身も)が抱えることになる困難のまだ端緒というにすぎなかった。私たちはようやく迂回路をよたよたと歩き始めたばかりだった。


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