換骨奪胎?

前々回の『いつか見た風景、どこにもない場所』の続きは、いつの間にか再版されていた『魔術師』を急遽取り寄せてもう一度読んだり(上下巻に別れた相当の長編)、DVDをキャプチャーし、日本語の字幕を入れてYoutubeにアップロードしたりするつもりなので、まだしばらくは時間がかかりそうだ。
そこで、nagonaguさんのレイプレイというゲームについてのエントリーを読ませていただき、思うところがあったので、先日の『アラバマ・ソング』の時と同様、またもやテーマを横すべりさせて急場を凌がせていただこうと思う。
レイプレイとは、いまネットで調べると、<痴漢をメインとした陵辱・調教ゲーム >、<鬼畜な世界観をリアルに楽しむのがメインのゲーム>というものらしい。詳しくはここをどうぞ。従来の一般的な道徳律からは著しくはみ出たようなことがいとも平然と書かれている。このようなゲームに対する需要と供給が商業的に成立するほどにあるということにも驚いてしまうが、<陵辱が苦手という人のために、公式サイトで全ての性癖がついた陵辱色抜きのセーブデータを公開している。このあたりの配慮も嬉しい>などという記述にも唖然とさせられる(強調体は管理者)。このゲームの目的にされている若い女性やとりわけ妊婦の方、そしてそのような女性を身近に持つ人たちにとっては到底許し難いようなゲームだろう。nagonaguさんによれば、そうしたアモラルな内容と、表現の自由との兼ね合いがいろんなところで問題になっているのだという。



先頃、俳優のデヴィッド・キャラダインが映画のロケ地であるバンコクで変死したというニュースがあった。ホテルで首を吊って亡くなっているところを発見され、最初は自殺と伝えられたが、性器にひもが巻かれていたり、ベッドの上に残されていた足跡が本人のものではなかったらしいなど、他殺の疑いもあるという。とはいえ、もし他殺であればこれも性欲というものが絡んだ猟奇的事件というようなことになるのだろうが、ここで私が書こうとしているのはそんなことではない。
私の知る限り、キャラダインの演じてきたキャラクターには常にある共通したところがあった。地味な脇役が多かったなかで、70年代に日本でも深夜に放映されていたTVシリーズの『燃えよカンフー』の主人公がその代表的なものといっていいだろう。つまり寡黙な思索者というのがその概ねの共通するキャラクターであった。それは彼の私生活から滲み出ていたものであったのかもしれず、あるいはハンサムな二枚目とは言い難い独特の風貌がそんな役柄を引き寄せてきたのかもしれない。ところが。
いわゆるカルト映画の代表的な作品として、その筋で大きくもてはやされてきた『デスレース2000』という映画がある。B級映画の王者といわれたロジャー・コーマンの製作になる作品で、アメリカ大陸を横断する間に何人の人間を轢き殺すことができるかということを競い合う自動車レースの映画である。轢き殺した相手が老人や子供など社会的弱者であればさらにポイントは高くなり、だから病院や幼稚園などのあるルートに入った車があると、TVで実況中継をするアナウンサーがチャーンス!などと叫んだりする。キャラダインはこの映画で主人公を演じていて、もちろん彼もこのレースの参加者だ。



キャラダインの操縦するレースカーが病院に通じるルートに入ったところで、アナウンサーが驚喜し、のみならず病院の看護師たちも喜んで車椅子やストレッチャーに載せられた老人たちを路上に提供する。この映画のクライマックスの一つといっていいシーンだ。だがキャラダインは老人たちの手前で急ハンドルを切り、植え込みの向こう側で見物していた看護師たちを次々と跳ね飛ばしていく。なんというカタルシス。キャラダインが老人たちを殺さなかったとはいえ、看護師を初めとする病院関係者はもとより、このシーンに怒りを露わにする者が多くいることだろうことは想像に難くない。



この映画も、レイプレイと同じように、あまりに非道徳的として問題になったことがある。若い女性を陵辱することを目的とするゲームと同じく、いくら作り物の世界であるとはいえ、小石を弾くように人の命を扱う映像が、大衆向けのために供されていいものだろうか。
いや、おそらく、小石を弾くように人の命を扱うというその表現自体の中に、答えのヒントがあると私は思う。いかなブラックなものではあるとはいえ、そこには現実離れした誇張が、徹底的なデフォルメが、つまりはそのブラックさを笑い飛ばしてしまうようなユーモアがあり、一方レイプレイの方には、これはまったく推測の域を出るものではないが、プレイヤーの欲望をそのままに肥大させていくような誇張はあるとしても、欲望自体を換骨奪胎してしまうようなユーモアはおそらくあり得べくもない。そんなものはむしろ最も忌むべきものとして考えられていることだろう。両者の間には、人間性(humanity、いうまでもなくユーモアの語源でもある)というものに対して、その考え方に決定的な違いがあるといわざるを得ない。第一、こんなレースに参加しておきながら、キャラダインは最後のところで弱者の側に立ってしまうのだ。
別な観点から考えるならば、1975年に作られた『デスレース2000』は、ヴェトナムで実際に起こったむごたらしい大量殺戮とその反戦運動、ヒッピー・レヴォリューション、フラワー・チルドレン、緑色革命といったヒューマニズムついての大変動を経験したからこそ可能になった映画であったと私は思う。ヴェトナム戦争の凄まじいまでの非人間主義、その恐るべき現実の経験を踏まえた上での、フィクション内における滑稽な殺戮のオルギア、それが『デスレース2000』であった。だが、レイプレイは、容易に推測されるところ、そうしたヒューマニズム埒外のことである。というより、ヒューマニズムというものの無化が、そのゲームを成立させる条件だ。従来のヒューマニズムにいかに反するようなことであろうと、現実の他者と関わることのない仮想空間内で行われるものなのだからそれらは許されて然るべきだ、こうした考えがレイプレイというゲームを成立させている。つまり『デスレース2000』は、好意的に捉えるならば、ヴェトナム戦争によって旧弊化したヒューマニズムを同時代精神に適正に即応させるべくその基準をシフトさせようとしたのに対し、レイプレイは、仮想空間内にある限りという最低限のルールだけを設けておいて、一切の人間主義が無化された条件をその空間内で享受する。ということは、アフガン、湾岸、イラク等と続く戦争によって、ヒューマニズムの基準がさらに激しく変位したことが、レイプレイというゲームが出てきたことの背景にはあるのだろう。と単純に言い切れるものでもないとは思うが、少なくとも何らかの要因にはなっているだろう。だからといって私個人は、いくらこれも表現の自由だといわれたところで、レイプレイというゲームを許容したいとは思わない。むろん権力が非道徳的であるという理由で規制することなど論外ではあるが。またいわゆる識者たちが心配するところの、仮想空間内における無倫理性の体験が現実空間に持ち込まれることの可能性については多様な判断があり得るだろうが、そんなことよりも、いくら仮想空間内とはいえ、自己の欲望のために他者を陵辱するという行為自体、観念的にあまり許されたものではないと私は思う。それが知性を持つ人間のあり方だ。これは表現の自由というテーマとは別問題だ。
ところで、近年、デヴィッド・キャラダインの出た映画ではなんといっても『キル・ビル』だ。クェンティン・タランティーノが、キャラダインが主人公を演じた『燃えよカンフー』と『デスレース2000』の内容をこの映画で合成しようとしたことは明らかだ。中国の老賢人に武術を習うという同一のエピソードが出てきたり、全編が血しぶき舞い散る決闘シーンの連続でありながら、いたるところでその血腥さを換骨奪胎させてしまう誇張と滑稽のオルギアでもある。そのオルギアの中でキャラダイン演じるビルひとりだけが、終始、残忍な殺戮者にして寡黙な思索者であり続ける。
少なくともタランティーノならば、アフガン、湾岸、イラク等の戦争をへた後で映画表現はどう変わるべきか、どう変わらざるを得ないかということについて、考えていそうだ。




今日のYoutube
Mozart's Greensleeves 「グリーン・スリーヴズ」

これをYoutubeにアップロードした人は、この曲のあまりの美しさに、モーツァルトの曲と思い込んだのだろう。その勘違いを指摘するコメントが沢山寄せられている。