ことの次第(3)

その足で私は彼を訪ねた。パスポートを落としたその日、彼は大阪市に隣接するある市に仕事で出かけていた。前後の状況から考えてパスポートをなくしたのはその時であったはずだと彼はいっていた。確かに大阪府警の拾得物のリストには、その市にもパスポートが一冊届けられていた。だがそれは彼のいう緑色ではなく、紺色と記されていた。リストに記載されたすべてのパスポートのうちで緑色のものはただ一冊、それがまさに彼の行動圏にある昨夜の警察署に届けられていたのだ。だから彼は勘違いをしているだけだと私は思っていた。
エス、イエース、マイ パスポート ワズ ディープ・ブルー。オンリー コヴェル ワズ グリーン。何のことはない。紺色のパスポートに緑色のカバーがかけられていたというのであった。
翌朝、今度は彼も伴ってその市警に趣き、拾得物の係に用件を告げた。しばらくすると、まるでTVドラマのような刑事が三名、血相を変えて現れた。私たちは別室に連れ込まれた。だがもう私は慌てることもなく事情を説明し、彼は入管の出頭証明書を呈示した。こともなくパスポートは彼の手に返還された。
だがそれはまたもや私たちが出発点に引き戻されることになるだけのことであった。
戻ってきたパスポートは中身がばらけ、その中身はふやけていた。くすんだ緑色のカバーが破れ、その破れ目から紺色の表紙が顔をのぞかせていた。そのパスポートが使い物にならないであろうことはそんなことの専門外の人間である私の目にも明らかであった。
刑事たちもそのことについて多少は気懸かりそうな様子も見せたが、もうそれは自分たちの責任外のことであった。彼らにしてみれば労なくして大阪から一人の犯罪者を減らすことができるという訳であった。彼らは上機嫌であった。そして帰り際、私にこんな言葉を投げかけた。
ダンナさん、ちゃんと面倒見たってやぁ。
あの日はひどい雨だった、彼は言い訳するように私にいった。途方に暮れる間もなく、私たちは領事館に向かった。少なくともこの前より持ち駒は増えたのだ。
彼はぐしゃぐしゃのパスポートと入管の出頭証明書を受付けに見せ、すがるように説明しようとした。今回の受付けは男性であったが、にべの無さでは前の女性と変わりはなかった。前回とまったく同じ内容のメモ用紙が彼に手渡された。
今晩もう一度叔母さんに電話で確認するように。こう彼に告げるのは何度目のことであったろう。恥も外聞もなく白状するが、一日も早く厄介払いをしたい、とっくに私はそんな気分になっていた。その夜から、思う存分私は途方に暮れることができた。
実は最初に入管に出頭した翌々日の12月20日から1月4日まで、フィリピンという国は長い休暇に入っていたという。大分たってから私はそれを聞かされた。そんなことを彼が知らなかったはずはなく、だが彼自身も焦るあまり念頭からすっかり消えてしまっていたのだろう。その日は1月13日。休暇が明けて8日目のことであった。
1月15日の昼過ぎ、やっとそれは届いた。私は、ときには叔母さんの手際の悪さを想い、役所や教会の融通の利かなさを呪い、フィリピンの郵便事情を蔑んだ。だが叔母さんに最初の連絡が届いたのが休暇に入る2日前の夜。彼女が動き始めたのは実質的には休暇明けのことであったろう。だとすればそれからちょうど十日目。叔母さんも役所も教会もフィリピン郵便も、みんな実にてきぱきと行動してくれたにちがいないのだった。
どの書類も驚くべき麗々しさであった。特にその一枚はいままで見たこともないようなゴージャスなものだった。表彰状のような厚手の用紙に、巾3センチほどの赤いリボンがかけられ、そのリボンが真っ赤な蝋で封緘されていた。
いうまでもなくその足で私たちは領事館に行き、3時間ほど待たされ、ついに彼はトラベラー・ドキュメントなるものを手にすることができた。それを持ってすぐさま私たちは入管に向かった。
担当官は、この一ヶ月間の私たちの悪戦苦闘をまるで意に介することなく(当たり前だが)、こともなげにそれを受けとり、何やら書類を用意し始めた。
出国は一週間後の22日。それまでに航空券を購入し、その領収書と便名をこちらにファックスすること。出国の前日の午前9時、必要書類を揃えて必ずもう一度ここに出頭するように。
以降、一切の滞りなく、1月22日、彼は故国に旅立っていった。
その前夜、私は最初は空港まで見送りに行こうと思っていたのだが、なぜかそんな自分に抵抗するかのように彼にこう告げた。
空港までは自分でシャトル・バスで行くように。少々私は疲れすぎた。
深々と彼は腰を折ってこういった。センセー、ホントーニアリガトーゴザイマシタ。
彼の口から出た、初めてのセンテンスとしての日本語であった。



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