臨時更新

コメント欄からヒントを得て、Youtubeを一つ追加しました。(12月21日、23時0分)


きのう、ある掲示板である方との遣り取りで、気がつけば調子に乗って思わぬ長文を書いてしまっていた。途中でとてもその全文を投稿できるようなものではないと気付いたのだが、取り敢えず気が済むまで書き続け、結局は大半を削除して投稿した。で、その削除した部分を、予定外(そもそも予定などないのだが)の臨時更新としてここに投稿することにした。
が、それだけでは文脈を掴みにくいと思い、その掲示板に投稿した部分も併せて一挙公開といきます。





○○さん。
テラークレーベルというのは知りませんでした。テラークという固有名詞はおそらく初めて目にするものだったので、てっきりクラークレーベルのもじりだと思い、さきにクラークレーベルで検索してみたほどでした。
テラークレーベルについて読めば読むほど、フランスのエラートレーベルと似ていると思いました。名前までそっくりじゃないですか。しかも設立が、前者が1953年、後者が52年というから偶然にしてはできすぎというものです。たしかパラフィンか何かの化学物質だったと思うのですが、ところがいま調べてみるとどうもそうではないような気もするのですが、いずれにしても、たしかアメリカとフランスの化学者がそれぞれまったく別個に研究していて、たしか同じ日にその物質を発見したという話を思い出しました。(ここまでが昨夜実際に投稿した文章)



(以下本分。)
ついでですが、フランスのエッフェル塔アメリカの自由の女神像もよく似た関係です。どちらもそれぞれの国の市民革命(前者はバスティーユ監獄襲撃事件、後者は独立宣言発布)百周年を記念する事業として建造され、近代以降に建てられた建造物としてはどちらも圧倒的な大衆的人気を博し、もちろんどちらも近代以降の建造物としては異例なほどに早く世界遺産に登録されています。しかも、エッフェル塔はいうまでもなく、自由の女神像にもギュスターヴ・エッフェルという技術者が極めて重要な役割で関わっています。一般に、エッフェル塔という名前がその設計者に由来しているということを知る人はあまりいないと思うのですが、自由の女神像(を支える内部の鉄骨骨組み。あの像自体はフレデリク・オーギュスト・バルトルディという彫刻家による衣装、ならぬ意匠)が、これもエッフェルの設計であったということを知る建築家はそれほどいないと思います。
ついでついでの余談ですが、アメリカ独立宣言を発布した第三代大統領のトーマス・ジェファソンは、本来は建築家でした。それも日本で一級建築士という資格制度を作った本人がその登録番号の第一番をせしめた田中角栄などとは訳が違い、ヴァージニア大学ヴァージニア州議会議事堂(どちらも世界遺産に登録されています)などを設計した本物の腕前を持つ人でした。30年ほど前に行われた、アメリカ史上最高の建築家は誰かとアメリカの建築家に問うたアンケートで、ジェファソンは、確かフランク・ロイド・ライトサイモンとガーファンクルが彼のことを歌っています)を抑えて堂々の一位になっていたはずです。もちろんこの結果には、アメリカ人特有のパトリオティズムというものが多分に働いていて、実際はライトの方が問題なく凄い建築家であったことは間違いのないところですが。
もひとつついでですが。バスティーユ監獄のあった場所に現在のパリ・オペラ座が建てられていて、こちらをバスティーユ・オペラと呼び、元のオペラ座(いうまでもなくガストン・ルルー原作による『オペラ座の怪人』の舞台になった建築です)は、その設計者のシャルル・ガルニエに因んで今はガルニエ・オペラと呼ばれています。ガルニエは、パリの都市景観を破壊するとしてエッフェル塔建設に猛反対する運動にも加わっていました。この運動の尖塔、ではなくて先頭に立っていたのが、かの文豪モーパッサンで、モーパッサンは、エッフェル塔完成後、同塔内に設けられた『ジュール・ヴェルヌ』というレストランに毎日足繁く通いました。あんなに反対していたのにという質問に、モーパッサンが、ここがパリで唯一エッフェル塔を見なくてすむ場所だからと平然と嘯いたというのは有名な逸話です。またガルニエも、後にエッフェルと協同で仕事をしたりしています。ガルニエ・オペラの方は、後から便宜上付けられた呼び名ですが、そしてエッフェル塔も最初は単なる300メートルの鉄塔というような呼び名しかなかったはずですが、すぐにエッフェル塔という名が正式名称(?)となりました。いずれにせよ、私の知る限り、設計者の名が冠せられた世界唯二の建築です。
ついでついでついでの余談ですが、バスティーユ・オペラの設計者を決めるべく開かれた国際コンペではこんな裏話がありました。当時世界で最も人気のあったアメリカのある建築家に、お前が出せば無条件に通してやると審査員団が持ちかけていたらしいのですが(フランスとはいえ、なにしろいわば土建業界なのです。残念ながらこんな醜聞はとてもありふれた話なのです)、当の建築家は忙しくて出品できなかったらしく、そのかわり、事前にそんなダンゴーがあったことなど知る由もない、ただその建築家の影響を受けて無邪気に真似ただけの案を出品してきた無名の新人がいたらしいのです。審査員たちが本人と勘違いして当選させてしまったことはいうまでもありません。その結果できあがったのが現在のパリ・オペラ座という次第なのです。
バスティーユ・オペラの設計者は、やはりというか、その後まったく鳴かず飛ばず(のはず)ですが、このオペラ座の最初の音楽監督に選出されたチョン・ミョンフン鄭明勲、本来はピアニスト)は、その後、ヴァイオリニストの姉のキョンファ(京和)、チェリストの弟ミョンファ(明和)と共に、世界的な活躍を続けていることは周知のことでしょう。明らかに固有の才能というものが紛れもなく表出されてしまう音楽と、見よう見まねや単なる知識をまぶすことによって誰にも、いかようにも表現できてしまう、所詮は複合的な表現手段に過ぎない建築の違いを、まざまざと思い知らされるような話でした。



今日のYoutube
西馬音内盆踊り

久米宏がキャスターを務めていた時のニュース・ステーションで、この祭りが生中継されたときのショックは今でも忘れることができない。女性たちが編み笠や彦三(ひこさ)頭巾という黒い布で完全に顔を隠して踊るさまは、少なくとも日本国内には他に類例がない祭りのように私には思えた。何しろ畏るべき異形の建築家、渡辺豊和の出身地、秋田県なのだ。しかも西馬音内(にしもない)という地名、馬音内も東馬音内もないというのだから、明らかに当て字だろう。これほどの異様な祭りが何の脈絡もなしに突然に発生したとは到底考えられない。なのに残されているのは単なる伝承だけで、文書は何一つ残されていないという。以前、渡辺にこの祭りのことを尋ねてみたことがあるが、これについては彼も何も知らないようだった。そんなことはとっくに誰かがやっているだろうが、この祭りのルーツを探ってみたいという誘惑を私は抑えられないでいる。


顔を隠して踊る女性たちにも驚いたが、ミ(♭)ーソーミ(♮)ソーラシラー、シーソラーシドシーラソミーと始まるメロディにもビックリした。ここしばらく民謡というものについて素人ながらの蘊蓄を少しばかり垂れてきたが、それはこのメロディの異様さを際立たせるという密かなワルダクミもあったからだ。ミ(♭)で始まるような民謡を持つ民族なり地域があれば、それだけでこの祭りのルーツの場所を特定できてしまうことだろう。それほどに異例中の異例のメロディだと私は思う。


この驚くべき♯や♭の、乱舞!


ちあきなおみ   「夜へ急ぐ人

これがあの紅白歌合戦で歌われたとは。この頃はまだ日本の大衆文化もちゃんとした血脈をさまざまに保っていて、紅白歌合戦というプログラムも、長らく日本人全体の祭りともいうべき機会になっていたと思うのだが、それがいつしか、私自身は一瞬たりとも目にしたくないというようなものに変わり果てていた。もう20年ほど、この時間、私はTVを観ていない。
それにしてもここで歌われている世界は、なんと上の西馬音内盆踊りと多く共通したものを感じさせることだろう。