住まいの原型を探る2009(2)

追記、というよりも追加(Youtube 2曲)あり(12月7日〇時25分)。

サイドバーのデザインをシンプルにしました。(12月7日9時30分)。


先月末の29日(日)、また偶然にしてはちょっと出来過ぎと思うようなことが起こった。
26日、愛知県のマツイ夫妻から、12月17日に日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会が『ガリシア・デー』という催し物をやるのでまた一緒に参加しないかという誘いのメールをもらっていた。すぐに返事をすればいいものを、最近の私はこんな些細なことでもとても億劫になってしまっている。
ところが土曜日や日曜日になると、他の人たちも休んでいるということで私も少しは気分が楽になる。日曜日の午後になって、メールの遣り取りなどというまどろっこしい方法でなく、マツイ氏に直接電話をかけてみることにした。
すぐに電話に出たマツイ氏に、『ガリシア・デー』には参加できそうにないけれど、一度大阪に遊びに来ませんかと誘ってみた。今まで何度も彼らのところにうかがってはいろいろとお世話になっていたからだ。
「実はいま大阪にいるんです。」
先頃、南港にできたスウェーデン資本の巨大家具店に、クライアントと一緒に来ているのだという。そのあまりのタイミングのよさに、電話の向こう側とこちら側でどちらもが同じように驚いた。
昨年の10月8日の日記でも、同じようなことを書いたが、ことカミーノに関する限り、このような<奇跡>はいまだに続いている。
夕方、クライアントと別れた彼らと、難波で落ち合った。マツイ夫妻は、もちろんこれが初めてという訳ではないだろうが、大阪にはほとんど来たことがないというようなことをいった。本当は泊まっていきたいところだけれど、明日は朝から予定が一杯詰まっているのでどうしても今夜帰らなければならないという。年内に何とか時間を工面してもう一度大阪に来てもらうことにして、その夜は食事だけ一緒にすることになった。
こんな時に私がよく使うふぐ料理店にお二人を案内した。などと書くと、私がトンでもないお金持ちのように思われてしまうかもしれないが、何を隠そう、実際私は大金持なのです。というようなことなどあるはずもなく、大阪でふぐというのはとりたてて高級料理(もちろんそんな店もない訳ではないが、そんなところには私は入ったことがない)というようなものではなく、私のような者でも気軽に入れる店はいくらもある。とりわけ私のお気に入りのこの店は、とにかく新鮮で美味しく、またサービスも店員の態度もいつもとてもいい。秋たけなわの頃には、これをお鍋の中に入れさせていただいてもかまわないでしょうかなどといって、突然、サービスとは思えないような量の松茸を持ってきてくれたり、この夜は、大皿に盛られたてっちりの材料の中に、普通は特別に注文しないと入るはずのない白子がそれとなく隠されていた。お二人ともふぐは初めてだったらしく、その美味しさにビックリされていた(と思う)。 大阪の食文化の底力をあもみたらアカンデ、ふん!



おととい(12月2日)の夕方、ここ何年も味わったことがないようなとても気持ちのよい時間を私は過ごすことができた。さる商店街(特に名は伏す)を自転車で通過していると、とある整骨院の前で、白衣を着た二人の男性が、マッサージはいかがですかー、と通りがかりの人たちに声をかけていた。このときはホームセンターに買い物に行った帰途だったが、行くときも同じように声を上げていて、よほど評判の悪いヒマな医院なのだろうと私は思っていた。当然、私にも声をかけてきたが、それを無視して彼らの前を通り過ぎたことはいうまでもない。
ところがその後に続いた言葉に思わず私は自転車をUターンさせてしまっていた。慢性肩凝り症で腰痛持ち、3週間ほど前に1年ぶりぐらいで見舞われたぎっくり腰の新鮮な痛みもまだたっぷりと残っていた。そんな我が身が、30分300円ですよーという呼び声にビビビッと反応してしまったのであった。私の大金持ちぶりがいかなる程度のものであるか、この一事をもってしてたちまちツマビラカになったことであろう。
これはかなり粗雑な扱いを受けることになるかもしれないという五抹ぐらいの不安を抱きながらも、時間は十分にあったので、ものは試しと中に入った。
一室空間の内部は人々でごった返していた。施術台(でいいのかな?)が10台ほど並び、そのすべてに俯せのまま横たわった人たち、そして周囲にいる人たちと冗談を交わしながらマッサージをする施術師たち。そこは、とても陽気で和やかな雰囲気で一杯の空間であった。
受付けの男性が、保険証を持っているかと私に確認する。昨年から大阪市の保険証はカード式になり、だからいつも財布の中に入れておくことができるようになっていた。単なる肩凝りをほぐしたりするようなマッサージには健康保険は適用されないはずだが、痛みや、生活に支障の出るような筋肉や骨の問題なら適用されるものもある。だから、これは単に私の邪推に過ぎないが、ここに来る者は誰にも保険が適用できるよう、それにふさわしい症状を見つけ出すべく受付けでまず問診票を手渡され、筋肉や骨に関する問題点を洗いざらい書かされた。一時は腕を伸ばすことすらできず、まだ完全には治りきっていない右の五十肩、靴下を履きにくくなってきた左脚のこわばり、最近になって出てきた右アキレス腱の痛み、一昨年のサンティアーゴ巡礼以来いまだに残っている両足指の痺れ、等々。保険が適用されるにふさわしい資格は私にも十分すぎるほどにあった。
施術師は、3,40代くらいの女性が2名と、若いイケメン(風?)から屈強そうであったり超おでぶさんであったりする男性が約10名。それぞれの持つ力や特技などによって、担当する客、ではなくて患者に、適材適所、院長が振り分けていっているようだった。そのうちの一人はなんと顔がとてもワイセツであるらしく、みんなからその顔にはいつもモザイクをかけておくようにと忠告されていた。どんな顔なのかと思ったが、残念ながら施術師は全員インフルエンザ予防のためのマスクを着用していた。

さて。まず私は椅子に座らされ、受付けをしていた男性(あとでこの人物が院長であることが分かった)に、肩のマッサージを受けた。少し力を入れようとするときには、必ず痛くないかと尋ねてくれた。痛いどころか、こんな快適を保険で賄ってくれるということが申し訳ないほどであった。私の目の前で、若い男性が、俯せになったお婆さんの腿の裏側を揉んでいた。
パクさん(※)、これはひどい、普通の張り方やないやないですか。
しゃあないやん、一日中立ちっぱなしで仕事してんねんやから。
私のそばに、杖をついた80歳くらいの老人がやってきた。自分の担当者に、どや、今日はこんだけ歩いたんやと腰にぶら下げた万歩計を自慢気に見せた。うわっ、すごっ、と担当者も嬉しそうにそれに応えた。マッサージの終わったパクさんが施術台から降りようとして、予想外に身軽に動けたことを自分でも驚いていた。
次に私は他の人たちと同じように施術台に俯せにされ、存分に腰や膝を揉まれた。今度の私の担当者は、マスクからはみ出た顔の部分と頭髪の状態が、先頃惜しまれて亡くなった忌野清志郎に似ていた。隣りの台では、中年とおぼしき女性(私も向こうも俯せになっているので定かではない)が、チョワヨという言葉の意味と使い方について、自分の施術師に訛り言葉で説明していた。私の聞こえた範囲で要約すると、英語のgoodやnice、I likeといった意味を柔軟に併せ持つ韓国語で、おそらく施術師が痛くありませんかと尋ねて、彼女の口を突いて出たのがそのチョワヨ!だったのだろう。まわりの施術師たちが早くも自分たちの会話の中にそのチョワヨ!を挟み込み始めた。
客、ではなくて患者たちは入れ替わり立ち替わりやってきた。この商店街でつましく生活する人たちにとって、ここがいかに得難い貴重な場所になっているか、初めての私にもそのことが手に取るように分かる30分であった。客、ではなくて患者たちのほとんどが相当の老人だったので、よもやそんな方は一人もいないと思うが、たとえ高価なマッサージ・チェアを買う代わりに毎日ここに通う人がいたとしても、そして結局はそんなために税金が使われることになっているのだとしても、その使われ方を断固私は支持する。もしあの事業仕分けか何かでこの店、ではなくて整骨院のことが槍玉に挙げられるようなことにでもなれば、私は先頭に立って抗議活動をしてやろう。
ホンマに300円でええの?と思わず確認しながら支払いを済ませた帰り途、私はすっかり身も心も爽快になっていた。いうまでもなくそれは、受けた治療(!)のせいばかりでなく、とりわけ、在特会などという団体がこの頃になってあちこちで引き起こしている忌まわしい事柄とはおよそ対極にあるような、実に豊かで心和む時間と空間を堪能できたからでもあった。政治主導でこんなにも自然で何のわだかまりもない民間の国際交流を実現しようとすれば、いったいどれほどの予算が計上されなければならないだろうか。というより、そもそもどんな予算と政策、教育によっても、このような光景を全国で見られるようになるには、まだ気の遠くなるような時間がこの国には必要だろう。大阪の下町文化の底力を思い知るがよい。

※つまり、朴さん、漢字表記すればこうなる。






最初の朝、今までは基本的な事柄だけを学生に伝え、あとは彼らのなすがままに任せていたが、今年のホンダ先生はずっとつきっきりであった。私は昨年と同じく、司厨長に専念していた。この日の朝食は、一口食べるとみんな目を丸くしてウマァと口に出さずにはいられなくなる(らしい)argon特製のホット・ドッグ。私が担当する食事のメニューと食材は、すべて大阪で用意し、必要なものは下ごしらえを済ませてきてあった。
因みに、argon特製ホット・ドッグのレシピ。というほどのものでもない。      キャベツを太めの千切りにし、塩コショー、カレー粉(なるだけ辛口のものを)で炒めてロールパンにたっぷりと挟み、その上に粗挽きソーセージを載せてオーブン・トースターで焼く。昔、大学に通っていた頃、JR(当時は国鉄)の天王寺駅の構内にあったコーヒー・スタンドで、このカレー風味のホット・ドッグの味を知った。万年不眠症の私は、特にコーヒーに対しては猜疑心が強く、滅多に飲まないのだが、このホット・ドッグの時だけは別。ゆで卵と食塩、に匹敵するほどの相性の良さ。





時折、雪がちらついたりして今年も概して天気はあまりよくなかったが、ほんの少しの間だけ、北アルプスの峰々がお顔をお見せ下さった。ちょっと珍しい写真だと自分でも思う。






昨年の学生たちの遺産を基にして、作業は続く。                     なかなか面白いものになりそうだとホンダ先生は少し興奮気味であった。





ここに来て2度目の晩餐、おでん。具は大根、コンニャク、ゴボ天、チクワ、ガンモドキ、スジ、タマゴ。大根とコンニャクは大阪で先に丸一日煮込んできた。
この日の昼は、学生が用意していたまたもやちゃんこ鍋。今年の学生は、飲み物にはただならぬ拘りを見せたが、自分たちの用意してきた食事には、いたって無頓着であった。アルコール類は、女子学生のひとりがもの凄い酒豪で、彼女が一手に引き受けていて、いろんなものが十分すぎるほどに用意されていた。ビールはもとより、焼酎、ワイン、ウィスキー、テキーラ、等々。なんとその女子学生は私の高校の後輩であった。あっぱれというべきか、不肖というべきか。





前日、暗くなるまで頑張ったせいで、ほぼ今年の目標としていた姿にまで出来上がった。





正面右寄りの開口部が入り口。私が途中で見に来たときは、あのようなアーチ状の枝は取り付けられていなかった。きっと誰かが、ハッと気付き、ある確信的な思いを持ってやったことなのだろう。あの枝が取り付けられたことによって、つまり単なる大きなアキでしかなかった部分に入り口という記号性が付与されたことによって、子供の遊びの延長のようにしか見えていなかったこの意味不明な空間は、一挙に建築という制度を獲得することになった。それはホンダ先生の思いが四回目の試行にして漸く結実した瞬間であった。授業時間に教科書的に教えられても到底理解できないであろうようなことを、この学生たちは身をもって体験し、その認識をそれぞれの血肉に深く埋め込んでいくことになるだろう。







建築という制度を獲得したことによって、それまではその場凌ぎのナイーヴな要素にしか見えなかったものたちが、劇的にその性格を変えていく。もうすでに借景などという複雑、高等な概念までが芽生え始めているではないか。





この写真では分かりにくいが、奥左側の林道に張り出した床のような部分は、昨年のものがそのまま手を付けられずに残された。だが、もはや昨年のものとはまったくその本質を異にしてしまっている。俄然、バルコニー、テラスといった建築制度的意味を露わにし始めた。






辛うじて紅葉(黄茶葉?)が僅かに残っていた。





広葉樹による黒イモリ、ではなくて黒い森。ドイツ語ならシュヴァルツ・ヴァルト。





最後の晩餐は昨年と同じパエリャとタンドーリ・チキン。どちらも昨年よりは美味しく出来上がった(と思う)が、私の本当の腕前からすればコンナモノ、まだまだ序の口だ。写真撮影のために蓋を取ったが、水分がなくなるまで囲炉裏で加熱し続ける。今年はムール貝をたっぷりと用意することができた。

私の料理の腕前を甘く見てはいけない。
来年の学生さぁん、来年はここでてっちりですよー。





惜しむらくは、これが林道に面した立地にではなく、森の奥深くといったところにあればもっとよかった。以前、ある芸術系の大学で建築を教えていたとき、『森の中で出会ったもの』という課題を出したことがある。驚くべき興味深い案がいっぱい出てきた。そんな課題を考え出すきっかけになったのは、10度以上行っている屋久島での森の凄さ、そして結晶化したように神秘的な空間をいたるところで体験していたからだ。それと、子供の頃に観た、オードリー・ヘップバーンアンソニー・パーキンスという人間離れしたような二人が出ていた映画、『緑の館』。それとやはり子供の頃に観た、葉山良二と月丘夢路の出ていた映画『白夜の妖女』。これは泉鏡花の『高野聖』を映画化したものであったことを大人になってから知った。



今日のYoutube
チョ・ヨンピル      「恨五百年」   

私もSIVAさんと同じく(またもや!)、昔、事務所で一人で徹夜していて、夜中にFM放送から突然流れてきたこのチョ・ヨンピルの歌に、戦慄のようなものが走るのを感じたことがある。
このいかにも複雑そうに聞こえる曲も、やはり民謡の証しで、よく聴いてみると、♯や♭は一切使われていない。音楽学の世界では常識のことなのかもしれないが、世界各地の民謡は、僅か七音(か、それ以下)の組み合わせ(もちろん例外も少なくはないだろうが)でかくも多様な特性を生み出しているのだ。


Supersax 「Salt Peanuts」

高校のときの音楽の授業でベートーヴェンの『神の栄光』という合唱曲を歌わされた。そのとき、ユニゾンの持つ異様な力に目覚めた。
で、ついでにその曲も。

L.V.ベートーヴェン    「神の栄光(Die Himmel Ruhmen)」