3月2日、3日 香港

香港上海銀行の竣工年を追記しました。(3月17日、21時50分)



往路はトランジット(経由)だけであったが、帰路、香港に2泊した。
香港は初めてだった。予想通りであったというべきか、予想以上であったというべきか。というより、どんな予想を自分が抱いていたかということさえ、現前のリアリティなるものによって消し飛ばされた。消し飛ばされるに十分以上、私は疲れていた。そしてその疲れはさらにさらにいや増された。
左下の隅でカメラを構えているのがドケ君。彼は十数年ぶり、二度目の来香(?)であった。





奥に見える現代的な建物よりも、私たちには手前の雑然とした素顔を見せる街並みの方が遙かに興味深い。ほとんどの建築家はこの考えに同意するだろう。





本当は九龍城が取り壊される前に来ておきたかった。だがロバート・ラドラムの、確か『暗殺者』で、九龍城内部まで克明に描写されているのを私は読んでいた。そしてその記憶が私の中では実際の体験に匹敵するような位置に納まっている。8年ほど前にやはりドケ君と行ったカイロ郊外に、いずれ九龍城のような様相を呈し始めるのではないかというような超過密高層住宅群がいやというほど目についた。





フェリーで香港島に渡る。自分ひとりであれば渡らなかったかもしれない。





私が学生であった頃、アメリカ建築界の大スターであったポール・ルドルフが、その晩年に設計したビル。何ということのない通奏低音に装飾音符だけをまとわりつかせたようなデザイン。ここまで自分の晩節を汚しまくった建築家は、他に丹下健三ぐらいしか私は知らない。だが丹下の方が較べものにならないほどもっとひどい。





中国系アメリカ人、イオ・ミン・ペイの設計したビル。90歳を越えているが、まだ活躍中のはずだ。一般的にはもっぱらルーヴル美術館中庭のガラスのピラミッドを設計した建築家として知られているようだが、本来はもっとローマ的なデザインをする建築家であった。
ルドルフのビルや下に述べるものに較べれば、ずっと好感は持てる。超高層になれば、構造力学的には地震よりも風力の方が大きな問題となる。香港には地震はないのだろうけれども、亜熱帯の海辺に建つという条件から考えると、こういう構造=デザインにしたというのはそれなりに納得できる。





2月24日のエントリーでもさんざん悪口を垂れたノーマン・フォスター設計の香港上海銀行。どうだ、このマンガっぽさは。ガキっぽさは。これができたとき(1986)から私はこの建築家をまったく信用していなかった。





SunScoopなるものが建物背面に取り付けられている。常に太陽を追尾し、その反射光を建物内部にもたらすそうだ。こんなものを実際に作ってしまうからこそ、私はフォスターのことをメカノ・マニアの狂った建築家と呼び、アフォスターと呼んだのだ。
背後にも十分に余地のある、香港では例外的に恵まれた立地条件にあるのに、なぜこんなにも子供っぽい発想のものを、莫大なコスト(この建物は通常の何倍ものコストがかかっているということが売り物になっているらしい)をかけて作らなければならなかったのか。いったい、いきなりあらぬ方向からぎらぎらした光が差し込んでくることを、この熱暑の地で働く人たちは本当に歓迎しているのだろうか。気功や風水や太極拳や漢方を生み出した国の人たちなのだ。そんなことをされれば自然の生体リズムが狂わされてしまうと、なぜ抗議しなかったのだろうか。





建築とはもちろんテクノロジーの産物にはちがいないが、それ以上にイデオロギーの産物でもある。イデオロギーがテクノロジーをコントロールしなければならない。今日のような状況では、ますますそうでなければならない。
この場合、断然私はイオ・ミン・ペイの側に立つ。





確かに大阪よりは混沌としているのだろう、とは思う。





何かと思ったら、渦巻き状の線香だった。ある仏教寺院で。





中国名物、竹の足場。ちょうど足場を外しているところを見かけた。あっという間に外した竹を、下に向けて落とし、下の階にいた職人がそれを軽々と受け止めていた。コスト、簡便、強靱。耐火性能を除けば、現代の日本ではそれ以外考えられない鋼管足場より、利点はずっと多い。なによりユーモラスなのがいい(ちょっと無責任)。








光と音と匂いと、人々、人種、言葉の多さ、大きさ、強さ。
死因は不眠か肩凝り、自分はそうして死ぬのだろうとかねがね思っていた。だが情報摂取過多症による突然死、これもありかなと思う香港の夜は更けて。
ネオンの洪水だからという訳ではないが、しばらく前、neonさん(吹替版に愛の手をさん、いつも勝手な命名、スミマセン)との遣り取りで、テレンス・スタンプの話が出たことを思い出した。
フェデリコ・フェリーニが監督した「悪魔の首飾り」で、テレンス・スタンプが演じていたまさにトビーのように、この旅の間、ずっと私はこの上ない疲労感と不眠の中にあった。日本を発つ前から、睡眠時間は3時間にも満たない日が続いていた。
エドガー・アラン・ポーの3つの原作を、それぞれロジェ・バディムルイ・マルフェリーニが監督したオムニバス映画(世にも怪奇な物語)。ただでさえいやというほど重量級の監督、俳優、音楽家、その他諸々のスタッフが揃っていたので、最後のフェリーニの作を観る前に、いつも私はトビーのように疲れて果てているのだった。そしてとりわけ重量級であったフェリーニの映像によって、必ず私は息の根を止められていた。
あと1日滞在していれば、きっと私もトビーのように死に吸い寄せられていたことだろう!




往路とは別の建物からの帰国便であった。実はこの建物もノーマン・フォスターの作。優しげな光に包まれた天井が、疲れた心を癒してくれるようだった。少なくとも私には目障りとしか思えない極彩色の巨大なモビールがぶら下がった関西空港よりは、遙かに好感が持てた。フォスターに悪意ばかりを抱いている訳ではない。



今日のYoutube
フェデリコ・フェリーニ  「Toby Dammit(悪魔の首飾り)」


世にも怪奇な物語(Histoires Extraordinaires)」の一部。