2月28日 オペラハウス

今日のYoutubeを忘れていました。その他、少々訂正加筆しました。(3月8日、午後10時40分)



この建物についての概略はすでにここに述べています。先にそれを読んで頂くと、以下の持って回ったような言い回しも少しは理解しやすくなるのではないかと思います。


シドニー・オペラハウスはいきなりこのようにして目の前に現れる。
というようなことはない。何気なく撮った写真の一枚に、いかにもそれにふさわしい“登場感”というものが現れていたからこの写真を採用しただけのこと。
どうでもいいことだが、きっと今頃は唾棄すべきもののように扱われているのだろうが、この“登場感”という聞くだに気恥ずかしげな響きを持っている言葉、バブルの頃、デンツーマンたちのあいだでは堂々と得意気に頻用されていた言葉だと聞いたことがある。




実際はいきなりこんな風にして目の前に飛び込んでくる。
予想以上でも予想以下でもなく、可でもなく不可でもなく。
初めて訪れるにしては、この建築のことを私は知りすぎていた。だがたぶん、実際に見てしまったことによって、知っていたはずの大部分が霧消してしまったような気もする。
大学のゼミで最初に読んだテキストがこの建築についてだった。20世紀建築史最大のイデオローグ、ジークフリート・ギーデオンが、これまた20世紀最高の建築書として名高かった『空間 時間 建築』の補遺として書き加えた章で、このオペラ・ハウスの設計者ヨーン・ウツソンを第三世代(※1)の旗手として最大限に称揚していた。
爾来、太平洋上をアメリカに向かう飛行機から、右手に見えるこの建物に向かって何度私は飛び降りようとする夢を見てきたことだろう。





もともと簡素な下地はあったのだろうとしても、まわりをこんな光景に仕立て上げ(ることができ)たのは、間違いなくオペラハウスのおかげであったはずだ。
この脳天気天真爛漫としか言いようがない環境を享受している人たちがそんな当事者ばかりであった訳でもないだろうが、設計者、デンマーク人のヨーン・ウツソンは、工事のあまりの難航と予算の追加に、中途でこの国を出て行く羽目になるまでに責め立てられていた。まさに石もて追われるようにして彼はこの国を離れたのだった。
自分の使命を揺るぎなく全うさせること、その揺るぎのなさが、ことごとく当局の意図に抵触した。
だが、かりに彼が当局のいいなりになって妥協していたとして、その妥協によって、もっと好ましい状態がシドニー市に招来されていたかもしれないという可能性についても考えてみておくこと。決してこれも無意味な思考ばかりとは言えないだろう。
ただ呑気な記念写真を撮るためだけに、世界中から日々何千、何万という無関係、無責任な観光客が訪れているというのに、昨年の暮れ、完成した姿を一度も見ることなくウツソンは死去した。ただ、シドニー・オリンピックの時、辛うじて娘さんが初めて訪れていた。




最もオリジナルに近い形で実現された部分。丹下健三が、大阪万博の大屋根で、そのパーツの一つを地上に置いて見せるという、明らかにこの案からヒントを得たとおぼしき方法を踏襲していた。
実現された姿は、いかにも構造解析がしやすそうな形態や構造に変換されているが、ウツソンのオリジナルのスケッチは、とてもこんなものではなかった。もっと自由でのびやか、かつただならぬ緊張感に漲っていた。体操の鞍馬で、着地直前のピンと伸ばした全身を両腕だけで支える、いわばそんな緊張感に溢れた美であった。
普通、この現在の姿からは想像もできないことだろうが、ウツソンは、この案の作成に関して、日本の寺院建築が最大のインスピレーションになっているということを、自らのスケッチを多用しながらくどいほどまでに説明していた。そんな予備知識があったからこそ、こんな私でも、こんな姿になったこの建物からも、そんな気配はありありと伺うことはできる(※2)。





1992年のバルセロナ、そして96年のシドニー。この二つのオリンピックをそれぞれの都市に誘致するに際して、一般の人たちが想像する以上に大きな力を発揮したと思われるのが、アントニオ・ガウディ設計のサグラダ・ファミリアと、そしてヨーン・ウツソン設計のこのオペラハウスだ。
だがサグラダ・ファミリアの場合、オリンピック関連の番組では、建物の表面をなめ回すように撮影されたカメラの映像を背景に、必ず、ガウディ個人の生涯と、とりわけ悲劇的であったその死について、一般の人向けの番組でもいやというほど詳細に語られた。
一方、常にレポーターの背景映像にしか現れなかったオペラハウス。とはいえその背景を必ず不可欠のものとして作成されていても、この建物のクローズアップ映像が取り上げられたり、ウツソンの生涯やその解雇を巡るエピソードについて語られたりすることは、私の知る限り、皆無であった。
持って回ったいい方はやめよう。この二人の建築家、その設計した建築が一般の人々によって受け入れられるそのあり方にこんなにも大きな差があったのは、二人の設計したその設計のあり方自体に、あまりにも自明の理があったからだ。これは、いくらアントニオ・ガウディといえどもその足許にも及ばない、神にもっとも近い造形力を持つ人物とまで称されたあのミケランジェロでさえ、立場的にはウツソンの側に立つ途を選んでいたのだ。バチカンの総本山、サン・ピエトロ寺院の長大な見学コースの最後にシスティナ礼拝堂が控えていて、ミケランジェロの描いた『最後の審判』に包まれることによって人々の感動は頂点に達するようになっている。だが、そもそもあの長大なルートを含むあの建物自体が、ミケランジェロが設計したものだ(歴代の建築家も多数関わってはいるが、最も基本的な部分はミケランジェロによる)。そんなことを知るいったいどれだけの人々が、あの長大なルートを平気で土足で歩き回っていることだろうか。





だが、なぜそうなのか。なぜガウディの建築は、それを設計した人間の人格まで物語的に解釈され、有り難く拝聴され、だが一方、なぜウツソンやミケランジェロの建築はそのようには受け入れられなかったのか。
その核心を成す言葉なら私は知っている。アノニマス。絵画や彫刻や音楽や文学とは違い、建築とは、存在のその本質において、アノニマス。これが答えの核心だ。建築という存在にとっての永遠の謎、だがその謎が解かれたときには建築という概念そのものが瓦解してしまうであろうほどの、永遠の謎、アノニマス。私の師、向井正也からいやというほど、だが決してそれ以外の何の説明もなく植え付けられてきた言葉だ。生涯をこの言葉の本質に向かおうとしておそらく挫折するしかなかった向井正也。それを、辛うじて私のような者にも伝えようとした恐るべき真理。
極めて傲岸不遜ないい方になるが、このアノニマスなる概念についてまともに答えることのできる人間はこの日本にはおそらく一人もいない。世界にもいるかどうか。建築の本質にアノニマスという概念が潜んでいるということ、いや、そもそもアノニマスという言葉すら知らない人たちが、今日の建築の世界の主流を形成している。謎が解かれる前に、建築という概念は瓦解し始めている。










※1 フランク・ロイド・ライトル・コルビュジェ、ミース・ファン・デア・ローエ、ヴァルター・グロピウスなどが第一世代、アルヴァ・アールト、イーロ・サーリネン、マルセル・ブロイヤー、丹下健三などが第二世代の建築家たちであったと記憶している。
※2 たとえば寺院の山門などが最も端的な例だ。そんな日本建築が、彼には、基壇と屋根だけが構成する建築と見えていたのだ。実際、このオペラハウスが載る基壇のあり方に、いかに彼が大きな力を注ごうとしていたか、どうせ音響など七面倒くさい事情によって大仰な設えが加えられるであろう劇場内の空間よりも、いかに大きな精力を彼がこの基壇の設計に注ごうとしたか、痛いほど私には分かるつもりだ。



今日のYoutube
The Beatles   「She's Leaving Home」