黒い雨、どこにもない場所(5)


25日(水)からちょっと旅行に出ます。観光目的という訳ではありません。その前に、だらだらと続けてきたこのシリーズを無理矢理、促成で仕上げました。文章は唐突な形で終わり、最後は無言の写真だけが続くような体裁となってしまいました。その場しのぎの咄嗟の判断ではありましたが、予定しなかった余韻のようなものが残り、これもなかなかの趣向ではないかと気に入っています。
可能であれば現地からレポートなどをアップロードします。




これもいかにもリドリー・スコット好みのシーンのひとつといっていいだろう。人物の背後、超低速回転する羽根越しに、光がほぼ水平に差し込んでいる。めまぐるしく交替する光と影。今にも何か暴力的な事態が勃発しそうな予感がひしひしと漲っている。別ないい方をすれば、観るものをその気にさせる情動的装置。
駄作しか作れない人ならともかく、優秀な監督たちみな、人間のさまざまな情動に対応するこのような映像的装置というものをいくつも自家薬籠中に用意しているものだ。その代表的なものが、なんといっても、といってもここでは内容にまで詳しく立ち入る余裕はないが、伝説のように語られているヒチコックの『サイコ』のシャワー・シーンだろう(※1)。(因みに、私にとっては、いつも得体の知れない底なしの深みにまで誘い込まれてしまう力を持っているのが、タルコフスキーによる水の映像だ。)
このシーンは、物語内ではもちろん大阪のはずだが、実際の撮影はニューヨークかどこか、いずれにせよアメリカで撮影されたものであることは間違いない。これは想像の域を出るものではないが、アメリカで撮影されたというその条件、つまりその空気、撮影スタッフたちを含めてこの場所全体を包んでいる都市空間のもたらすところのものによって、ここで描かれることになった暴力は、日本で撮影されたものとはまるで別種のものにならざるを得なかった。片や精緻に磨かれた冷ややかな石の表面と日本刀の切っ先、そしてこの荒れ果てたロフトのような部屋とそこに充満する荒んだ気配。自ずとここでは暴力は肉体同士がぶつかり合うといった類のものにならざるを得なかった。
そしてその両方の種類にわたる暴力性というものを、あり得べき最高の状態で体現したのが、もちろんマイケル・ダグラスではなく、いわんやでくの坊のごとき高倉健でもなく、この映画の完成披露試写会に出ることもできなかった稀有の松田優作であった。




お察しの通り、ロジャーズやピアノ、それに彼らと同じような範疇にいるもうひとりの英国の大スター、ノーマン・フォスターたちの建築をまったく私は評価していなかった。だがそんな野生の猛獣といった存在に対する無邪気な憧れともいうべき気配ががあからさまに浮き出ている分だけ、ロジャーズやピアノの建築の方がまだしも救いはあった。彼らの中でもおそらく最も人気の高いフォスターを、特に私は気に入らなかった。後にロンドンで彼の建築のいくつかを見て、私はフォスターのことをアフォスターと呼ぶようになった。人類の歴史のぶあつい文化の積み重ね、人間という存在が抱えるさまざまに不条理な悲喜劇、そうした文化的、人間的文脈というものが彼の建築からは根こそぎ抜け落ちていた。とくに、セント・ポール寺院からテームズ河を挟んで新設されたテート・ギャラリー(※2)にアプローチすべく新設されたミレニアム・ブリッジを見たとき、私は開いた口がふさがらなかった。橋というものは、彼岸と此岸をつなぐ梯、いやしくも橋というものを設計しようとする者ならば、それくらいの文化人類学的素養を弁えていて当然のことだと私は思っていた。愛する者を取り戻すべく彼岸に向かう者が必ず告げられる言葉、こちら側に戻ってくるまでは決して後ろを振り返ってはならぬ。オルフェウス神話だけでなく、このような類話は、世界中に、もちろん日本の神話にもある。ところがセント・ポール寺院からテート・ギャラリーに向かった私は、いよいよ目的地といった地点でいきなり方向転換をさせられ、ギャラリーの敷地には後ろを向いた状態で降り立たなければならなかった(リンク先の写真の右下に注目せよ)。およそ橋の名に値しない、そのくせミレニアム・ブリッジなどとこの上なく大仰な名を持ち、法外なコストを費やして建設されたあれは、単なる立体歩道橋のようなものでしかなかった。
人類滅亡後、ある日突然、どんな人間のためにでもなく建て始めるメカノ・マニアの狂った建築家、それがテームズ河岸の男爵、サー・ノーマン・フォスターだ。





くどいまでに繰り返される背後の照明のモチーフ。





実行委員の任期は暗黙の裡に3年と決まっていた。だが最初の3年間におそらく二、三十回は開かれた実行委員会で、ほぼ皆勤だったのは難波和彦と本多友常と私の3人だけであった。難波氏はもともと東京在住で、自分で事務所を運営し、スタッフもしっかりしていたからだろう、そして委員長としての職責を十分に感じていたからでもあるのだろう、彼が欠席したことはおそらく一度もなかった。本多氏は大阪に本社のある大組織に属していたが、彼にももちろん有能な部下は多くいたし、何より所属する組織を外部に向けて宣伝するスターのような位置に彼はいた。だからこの会議に参加することは、彼にとってはいわば業務命令のようなものでもあった。他の人たちも、むろんそれぞれに有能なスタッフを抱え、この会議に参加することに意義を感じていない者などほとんどいなかったはずだが、おそらくそれ以上にその人たちは忙しかった。ところが私はといえば、バブル経済などどこの世界の話なのかというほどいつも暇をかこっていたし、無料で東京に出て行けるということもあって、そして実行委員としての少しばかりの責任感もあって、最初の3年間、たぶん一度も欠席はしなかったはずだ。
というより、事務局を務めていたデルファイ研究所の金子悦輝は、まず最も基本的なことを決めるべく、いつしか難波、本多、私だけを呼んだプレ実行委員会のようなものを招集するようになっていた。全国の建築家たちに発送する本会議への招待状、会議後の報告書の作成など、よほど暇な奴だからと金子氏は見たのだろう、そんなことまで私に任せるようになっていた。デルファイ研究所は当時ATという雑誌も発行していたので、私も書きたいことがあれば彼に頼み、いつも二つ返事で書かせて貰ったりするようになっていた。





何の手を加えることもなく、と、道頓堀の夜間撮影のシーンのところで私は書いた。が、実をいうとそうではない。ほとんどのシーンでは、照明はいわずもがな、普段その場所にはなかったものが、スコットにとってのシーンにふさわしく、いろんなところにそれとなく設置されていた。この映像に見られる三つの×状の照明器具のようなものも、おそらくそうして設置されたものなのだろう。だが少なくともこのシーンに関する限り、猛り狂う本物の野生のライオンのそばにぬいぐるみの猫でも置いたかのように、それはあまりにも弱々しく、何の効果も発揮しているとは思えない。





第一期実行委員会の任期が終わる3年目、つまり1989年の秋、映画『ブラックレイン』は公開された。
大阪って本当に地獄ようなところだったのねぇ。
映画の冒頭、マイケル・ダグラスアメリカから松田優作を日本にまで護送してくる機中、上空から俯瞰したシーンのことを、おすぎとピーコが大阪のラジオでこういっていた。
難波和彦は、スコットの映画に、とりわけ『ブレード・ランナー』に深入りしていた。映画の中でハリソン・フォードが使用していたと同じ四角のグラス(おそらくシド・ミードのデザイン)と同じものを、自分の誕生日に所員からプレゼントされ、そのグラスだけは家族の誰にも触らせず、後生大事に自分で扱っているという。また昨年、自分の研究室の学生に3本の映画を挙げさせたところ、一位はやはり『ブレードランナー』、二位と三位が小津の『東京物語』とキューブリックの『2001年』が分けたと聞いた。(※3)
映画の公開直後に開かれた実行委員会で会ったそんな難波に、当てつけがましく私はこういってやった。
あの飛行機が降りようとして俯瞰している冒頭の大阪のシーンは、最初の会議の時に私がスライドで映した場所だ。





現実の空間がここまで獰猛なものであれば、いかなリドリー・スコットでも加えるべきものなどあろうはずもない。





悔しそうに難波氏は応えた。
あのシーンはアナタのスライドがヒントになっているのかもしれない。だってリドリー・スコットとリチャード・ロジャーズはとても親しい友人同士なのだから。
いくら私が自他共に認める控えめで謙譲精神に溢れる人間であるとはいえ、その難波氏の言葉を否定する論拠も反論する根拠も私は持っていなかった。
スタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』で、惨殺行為が行われる<Home>という表札の掲げられた住宅が、若き頃のリチャード・ロジャーズとノーマン・フォスターを中心とした「Team 4」によって実際に設計された住宅であるという、私のとっておきの豆知識も、彼によって、そんなこと常識だよとまでいわれて私は打ちのめされていたのだった。






B29が来襲してきて爆弾を落とした、そのあと、黒い雨が降ってきた、とかなんとか若山富三郎はひどくもたもたした英語で話す。ここで、Black Rainというこの映画のタイトルが、井伏鱒二の『黒い雨』と同じ意味であったことを初めて我々は知ることになる。
とはいえ、その井伏鱒二的文脈は、後にも先にもぷっつりと切れたまま二度とこの映画の中に浮上することはない。
それよりも、贋札造りの利権を巡る大衆好みの物語だけがこの映画の圧倒的な文脈を形成し、そしてその文脈に沿って、すべての暴力的、日米友好的、上司と部下の対立的、登場人物同士のセンチメンタルな交流的、その他さまざまな的エピソードが配される。
若山富三郎の話す英語が聞くに堪えない発音のものであるにもかかわらず、使用される語彙には一つの誤謬もないという、常識的にはあり得ないことが平然と繰り広げられるのと同様に、あらゆるいかに非現実的な事柄も、いかにリアリティあるフィクショナリティを獲得し得るか、焦点はただその一点に絞られる。それが物語、映画というものなのだろう。そして我々は、この映画に現れた現実の大阪という都市が、いかに現実から引きはがされておよそ別種の空間的文脈に沿って再形成させられているか、別ないい方をすれば、いかに誰も見たことのない大阪、というよりも誰も見たことのない場所がそこに現出させられているか、その出来具合から、リドリー・スコットという男の力量を計り知ることになるのである。





しかも難波氏によれば、『ブレード・ランナー』のラスト・シーン、ハリソン・フォードと死闘を繰り広げたレプリカントルトガー・ハウアーを気取ったポートレートを、リチャード・ロジャーズは、自分の設計したロイズ本社ビル屋上で撮影しているという。
ノーマン・フォスターと同じく河岸男爵という一代貴族の称号を持つサー・リチャード・ロジャーズが、ルトガー・ハウアーにとても似ているということは、私もずっと気になってはいたのだった。

いうまもないが、左がリチャード、右がルトガー。どうでもいいことだが、ノーマン・フォスターはドナルド・サザーランドにとてもよく似ているとかつて私はどこかに書いたことがある。




























おまけ。私のジュウテツ。




※1 あまりにも有名になったこのシャワー・シーンを演じたジャネット・リーによって、『サイコ・シャワー』なる本まで出版されている。
※2 もとは火力発電所であった建物を美術館に改造して鳴り物入りで開館された。北京オリンピックのメイン・スタジアム“鳥の巣”を設計したスイスの建築家コンビ、ヘルツォーク&ド・ムーロンが担当した。
※3 昨夏、この歳になって突然思い立った無謀な大学再受験のため、推薦状を書いて貰うべく訪れた彼の研究室で聞かされた。



今日のYoutube
John Coltrane   「My Favorite things」

いかにもハッピーな雰囲気を持つRichard Rogers 作曲のこの曲も、コルトレーンの演奏によって殺気のようなものさえ帯びたものとなる。