黒い雨、どこにもない場所(4)

楽しみつつもためらいがちにこのシリーズを続けているが、そのためらいの大部分は、何だ、単なるお前の自慢話だったのかと思われそうで、そうならないためにはどうすればいいのかと思案に暮れていたからである。だが、自分が直接に関わったことであるとはいえ、少なくとも日本の建築界のためにはこんな記録を残しておくのも悪いことでもないだろうと、敢えて続けようとしている。
というのももちろん単なるタテマエで、他に自慢できるようなことなど何もない私にすれば、たまたま僥倖のように出くわしたこんな出来事だからこそ大いに自慢したくもあり、そしてほとんどそれだけがこんなにもしつこくこのシリーズを続けていることの本当の理由なのである。つまるところこのシリーズは、いかにも狡猾なさりげなさを装ったきわめて鼻持ちならない私自身の自慢話であったのだ。気をつけられよ。



戦後生まれの建築家100人で円卓会議をするという趣旨については、前回でも述べたとおり、難波和彦、本多友常ら何人かの建築家と、デルファイ研究所の金子悦輝などが中心になって決められていた。だが何年続くかも分からないこの会議を、来年以降もどう運営していくかということなどを決める実行委員会なるものが招集されることになった。合計12,3名だったと思う。バブル経済の真っ最中であったからこそ行われたこんな贅沢な会議であったが、バブル経済の真っ最中であったからこそ、みんな忙しく、おそらく1年目だけでも数回にわたって招集された実行委員会に全員が揃ったのは、私の記憶している限り、顔合わせとなった最初の日だけであった。
と、いきなりさり気なく私もその実行委員会に招集されていたことを書いてしまったが、いうまでもなくそれは本多友常の推薦による以外のなにものでもなかった。関西から加わったのは、本多と若林広幸と私の3名であった。ほかは全員東京の人たちであった。大半が実際には初めて会う人たちであった。だがそれぞれどんなことをしているかを私が知らない人はほとんどいなかった。





ポンピドゥー・センター(リチャード・ロジャーズ、レンゾ・ピアノ設計)は、ただひたすらこんなイメージをモデルにした、今となってはむしろ気楽とさえ思えるような発想の建物であった。とはいえ、設計の当事者たちにとっても、役人たち(いうまでもなくポンピドゥー・センターは構想当時のフランス大統領の名が冠せられた国立美術館である)にしても、相当に骨の折れる仕事であったろうことはまちがいない。パリの街並みにとってあまりに場違いなその様相は、当然市民から多大な反発を招き、その騒ぎから第二のエッフェル塔とまで称されていた。だが完成するやたちまちパリ有数の観光名所となったことはこれまたエッフェル塔に同じであった。





毎日この場所を通勤や通学に使っている人たちの中には、この映画のこのシーンが、あのいつも自分が歩いている場所だということに気がついていない人もいるのではないか。
築地本願寺平安神宮を設計し、漫画を多く残したことでも知られる伊東忠太の設計した阪急梅田駅の元のコンコースと、相当強引に西側に移動させた新しい改札口との間に設けられた新コンコース。大部分取り壊されてしまったけれども、旧コンコースには、ビール瓶を横に積み重ねてステンド・グラス風に扱った伊東忠太ならではの斬新なアイデアなども盛り込まれていて、通俗的な擬洋風という印象からはひときわ飛び抜けていた。
ところが大阪万博を当て込んで拡大、新設された部分には、目を背けたくなるような露骨な通俗性ばかりが大音声でがなり立てていた。当時、大層真面目な建築学徒であった私は、そんな義憤を友人たちにがなり立てていた。
ところがリドリー・スコットは、そんなことなどまったくお構いなしだった。
おそらくこれほど正確、巧緻な石張りの空間はヨーロッパやアメリカにもないのだろう。石積み建築の歴史の話ではない。石の張り方の話である。寸分どころかミリ単位の狂いもない石の床、柱。そして冷やかなつや。スコットは、自分の描く暴力性にとってこれほどふさわしい空間はないとおそらく即座に読み取ったにちがいない。少なくとも日本で撮影が行われている限りにおいて、彼の想像力の中では刀の切っ先というイメージがいつもそれにふさわしい空間を探し求めていたのだろう。あるいは、この空間から、あの刀の切っ先が火の粉を上げるシーンを思いついたというべきかもしれない。
そしてリドリー・スコットはその自分の想像したシーンにふさわしく、この空間を再変容させた。毎日、賑やかな音楽や雑音の中を無数の人々が歩いているという、そんな光景しか知らなかった当の無数の人々の誰ひとりとして見たこともない、その裸形の姿をスコットは暴き出した。
またまたそれは、この地上のどこにもないような場所として現れた。





何しろ100名による円卓会議である。テクノロジーという、建築とは切っても切れない関係にあるテーマであるとはいえ、全員がそのことについて切羽詰まった意見を持っている訳ではない。実行委員会のほとんどは東京の人たちだったけれども、100名の中には地方から出てくる人たちも少なからずいる。大半が、こんな会議に面喰らいこそすれ、活発な論議が繰り広げられるとはとても考えられなかった。だから会議の進行が滞ったときのことを想定し、何名かのサクラが用意された。知らない間に私もサクラのひとりにされていた。というよりほぼ全員に何らかの役が割り振られた。難波和彦は実行委員長のような位置に納まっていたし、本多友常は司会者の一人になっていた。私に与えられたのは端役のような役割であった。





大阪は八百八橋の都市といわれていたが、かつて大阪の市内を縦横無尽(は相当に大袈裟)に走っていた運河の大半が暗渠化され、今ではその記憶を地名に残すのみとなったところが多い(実際、橋の付く地名はやたらと多い)。ところが有名になりすぎた心斎橋だけは、地名だけでなく、橋そのものも残された。当然、下に川のない橋、つまり実態としては歩道橋として残されたのである。そんな落ちぶれた様を、日本の映画監督の誰が撮影に利用しようなどと考えただろうか。
かくして、下に舟や船ならぬ無数の自動車やバイクが行き交っていることなど微塵も気にせず、スコット氏はこの橋上のシーンを作り仰せた。因みに向こう側左端のガラス張りエスカレータの建物は、故黒川紀章氏設計のこれまた今は亡きソニー・ビル(黒川氏の設計したものの中では3本の指に入る傑作であったと私は思う)、右端は現日本建築家協会会長(になったらしい人)の作。





いくらあなたたちが、いかにもこの工場のような、人々の目に見慣れない建築を作ろうとしても、所詮それは、見る、見られるという関係性において予定調和的に作られざるを得ない。いくら頑張ったところで、あなたたちの作る建築は、せいぜい動物園の檻の中で飼い慣らされた動物のようなものでしかない、いま私が映し出しているこの工場群は、まさに獰猛な野生の生物そのものだ。人に見られることなどこれっぽっちも予定されることなく作られた。
しどろもどろになりながら、このようなことを私は述べた(つもりだ)。本当はもっと強い皮肉を込めたかった。だが、私はたぶん1番目か2番目かの発言者だったはずだ。ただでさえ引っ込み思案で気の弱い私が、そんな場所で堂々と自分の言葉を開陳できる訳などあるはずもないではないか。
結局何がいいたかったの?
会議の日程がすべて終了した後、慰労のためと称して実行委員会だけが宇奈月温泉の超高級旅館にもう一泊させて貰ったとき、夕食の席で難波和彦が私に尋ねた。

だがリチャード・ロジャーズを交えた一日目の会議が終了した直後、金子悦輝から、ロジャーズ氏が、私の映したスライドが欲しいといっていると聞かされた。もちろん断る理由など何もなく、どうぞみんな上げて下さいと答えた。むしろあんな世界的大スターに欲しいといわれたことを名誉とさえ私は思った。



今日のYoutube
John Cage and Raashan Roland Kirk  「Sound??」 (1966)

ジョン・ケージが、天真爛漫、百花繚乱、縦横無尽、超絶技巧、口八丁手八丁の真性の天才ミュージシャン、ローランド・カークに捧げたオマージュ・フィルム。このフィルムで二人が顔を合わせるシーンは一度もない。
見どころは何といっても10分を過ぎたあたりから。
ロンドン動物園で行われたこのセッションで、ローランド・カークと動物たち、どちらを野性的というべきだろうか。
なぜかこのフィルムのクレジットには、この動物園のバード・ケージ(飼鳥舎)を設計したからなのか、セドリック・プライスの名も連ねられている。