幕間 雑事あれこれ。(2)

「奇妙な果実」の詩のリンク先を変更しました。((09/02/20、 3:50 P.M.)


ここ数日、書いておきたいことがいくつかたまっていて、ブログを更新しようと思っていたのだが、それよりもこちらの方が先だと、コンピュータのシステムをWindowsXPからVistaに入れ替える作業に没入してしまっていた。
Vistaが出た直後に買ったノートパソコンで、一度はVistaを触ってみてはいた。だが私にとってなくてはならないあるユーティリティ・ソフトが使えなくなっていた。だからそのノートパソコンは、非常な面倒を要したが、自分でXPのシステムにインストールし直して使っていた。
Keylayというキー・カスタマイズ用のシェアウェで、これがなければまるで手足にいろんな枷をはめられたように思うほど、私にとってはコンピュータの使い心地を格段に快適にするようなソフトであった。キー・カスタマイズ用のソフトは他にもいろんなものが出ていて、もっと便利なものもあるのかもしれないが、一度Keylayの便利さを知ってしまうと、それがなければ私にとってはコンピュータもタイヤの空気が抜けた自転車のようなものであった。
詳しいことは分からないが、Vistaの構造上、キー・カスタマイズ用のシェアウェアやフリーウェアは軒並み使えなくなっていた。それらのうちの一つでも使えるようになるまではXPをそのまま使い続けようと私は覚悟していた。
ところが、最近、念のためとKyelayのH.P.を開いてみると、何と昨年の10月末にVista対応にアップデートされていた。小躍りでもしたいような気分だった。
今回ついでに買った極小のノート・パソコンにはVistaのHome basicがインストールされていて、デスクトップはどのエディションにしようかと迷い、結局、Home Premiumと、ついでに1TBのハードディスク(7千8百円ほどだった)を増設することにして、Ultimateの64Bit版(いずれもOEM版なので正規版の半値ぐらい)を購入した。
二つのエディションは起動時にBIOSで切り替えて使い分けてみることにした。2,3日、さんざん四苦八苦した挙げ句、64Bit版では肝腎のKeylayを初めとしていくつか重要なソフトがまだ使えないこと、そのかわり、32Bit版ではいくら増設しても3GBしかメモリを使えなかったが、64Bit版では最大で128GBまで使用可能であること(私は8GBまで増設した。現在の私のデスクトップではそれ以上は不可能だ)、その割にはサーバーなどは別にして、市場に出回っているマザーボードには最大のものでも8スロットしかなく、一枚4GBのメモリ(日本橋では見つけることができなかった。店員に聞くと、まだ恐ろしく高価だという)を用いたとしても最大で32GBまでしか使えないということなどが判明した。
仕事柄、大メモリを要するソフトを使うことが多いので、これは助かる。実際、このブログでも、私のデジタル一眼レフカメラでは最大サイズ(1枚で8〜9MB)で撮影したjpgファイルの写真をPhotoshopで加工しているのだが、10枚以上開くと途端にスピードが落ちる場合が多かったのに、今回は非常にスムーズに作業ができた。増設用に購入した4GB分のメモリは、何と3千5百円もしなかった。いつの間にこんなに安くなっていたのか。松阪牛のステーキ・ディナーを5百円ほどで食べさせて貰ったような気分だった。私がコンピュータを使い始めた頃(ハードディスクなどまわりにはまだ影も形もなかった頃で、5インチのフロッピー・ディスク・ドライブが2基内蔵されていた。メモリは512KB、つまり0.0005GBだった)と較べると、ことコンピュータに関する限り、価格性能比は、印象として数十万倍以上、場合によっては数百万倍にもなっている。
一時は日進月歩ならぬ秒進分歩といわれていたコンピュータの世界だが、その勢いはまだ当分は衰えそうにない。人類の歴史の最も大きな区分の仕方に従えば、我々はまだ鉄器時代にあったのだということを20年ほど前にあらためて気付いて驚いたことがあったのだが、あと何十年か何百年かすれば、まさに現在が鉄器時代からシリコン器(?)時代への過渡期であったというような歴史認識がなされる時が来るのかもしれない。もっともそんな区分の仕方がまだ有効であるという歴史観が残っていたらとしての話だが。



昨年来、チェ牧師から、釜ヶ崎の炊き出しの本拠となっているいこい食堂の老朽化が激しいので、一度見て欲しいと相談があった。間口が一間半の建物だが、奥行きは意外とある。2階の一室は金井愛明牧師の記念室のような状態で保存されていた。チェ牧師は、取り敢えずは正面入り口のアルミサッシの上部が垂れてきているので、それを何とかしたいという。だが私の目には、そんな一部だけに手を入れてもほとんど意味がない、どこもかもにゆがみ、たわみ、雨漏りの跡があり、いたるところ邪魔なもの、つまずきそうな段差だらけであった。そんな雑然とした密集状態の中に、動かなくなった巨大な業務用冷蔵庫が物入れとして使われていたりした。

先週半ば、私は法務局や大阪府庁の各課などを回った。最初は「釜ヶ崎炊き出しの会」とか名付けたNPO法人を設立すればと考えていた。だがクンナの店(※)で偶然に出会った人から、昨年暮れの法改正によって、一般社団法人や財団法人を設立する方がずっと簡単になったと教えられていた。その法人によって得た剰余金を理事など特定の個人に分配しないという条項を定款に加えれば、免税措置が講じられる領収証を寄付者に発行できるということが分かった。頼めば喜んで寄付してくれそうな人たちが私のまわりにも何人かいた。私は意気揚々とし始めていた。

そんな私の動きを察知して、先週の金曜日、また相談があるからとチェ牧師に呼ばれた。彼は、こちらの話す日本語はほとんど理解できるのだが、本人は日本語を話すのは得意ではない。だから、同時通訳の資格も持っている奥さんのパクさんも同席した。
チェ牧師は深刻な顔をしていた。
この建物は、一昨年亡くなった金井愛明牧師が、元々は釜ヶ崎で暮らす人たちのために開いていた格安の食堂であり、そして釜ヶ崎は、行き場を失った人たちが全国から流入してくる逃れの街であった(もちろん今もそうであり、今後もますますそうであり続けるだろう)。そんな人たちが気軽に入ってくることができ、気軽に雑談や相談のできる場所、それがいこい食堂の原点であった。彼らと同じ地点に立ち、同じ視点からものを見、考える。だから炊き出しという、上からものを施すというようなことはあまり金井牧師の本意ではなかったという。牧師は、みんなと一緒にカラオケを唱い、お酒を飲み、煙草も吸うような人だったらしい。
牧師自身の遺言によって葬礼など一切のことが行なわれなかったので、彼の死を知らなかった人たちが、しばらくしてから教会にやってきて、泣き崩れる者が何人もいたという。釜ヶ崎の人たちのたっての願いで、牧師の死後半年ほどしてから一度だけ、いこい食堂のそばの大きな建物で追悼集会が開かれた。アルコール臭と煙草の煙がもうもうと立ちこめる中、それは行われた。その司会を担当したのが、去年の暴動の中心人物となったあの稲垣さんだった。

彼らが路上で寝起きするような生活をしているのに、自分は雨露からも寒さからも保護されたこんな建物に住んでいる、そんな引き裂かれるようなどうしようもない歯痒さが金井牧師の原点であった。だから、いこい食堂をわざと使いにくく、暗く、乱雑な状態のままにしていたのだった。
金井愛明という牧師の存在は韓国でも知られていた。10年ほど前、その噂を聞いて牧師に会いにやってきたのが崔汀石氏、すなわちチェ牧師であった。崔氏は金井牧師に会うなりその生き方に感銘を受け、父親からの猛反対などがあったにもかかわらず、金井牧師の跡を継ぐべく釜ヶ崎で生きることを決意した。
いまチェ牧師は、炊き出しのための食料を得るべく、多いときには週に二度、和歌山県かつらぎ町に援農に出かけている。また、毎週水曜日の夜は、天王寺までの路傍で生活する人たちに食料や衣料の配布と安否確認のための夜回りも続けている。

私はこの建物を美しく便利にしたいなどとは毛頭考えていないのです。金井牧師の頃からも、一度たりとも寄付などというものは受けたことがないのです。さし当たって自分が考えているのは、いまある予算の範囲内で、ここをみんながもっと気軽に入ってくることのできる空間にするということ、それだけで、その知恵と工夫をあなたにお願いしたかったのです。
勝手な判断で拙速な行動に出ていた私は恥じ入るばかりであった。だが、とても困難な課題ではあるが、別の意気が昂まり始めた。

※ 残念ながら西道頓堀の店は1月末で閉店した。だが、芦屋、丹波篠山、大和郡山の3店は繁盛しながら稼働しているという。






2月7日の土曜日の援農は、毎年恒例のチェ牧師の主導によるキムチ漬けであった。アベさん、タムラ君、それにチェ牧師を頼って韓国からやってきていたキム君、チェ牧師、私の5名であった。アベさんとは久しぶりだった。とても繊細で器用、かつ哲学的な人だ。いつもの通り、釜ヶ崎についていろんなことを教えてもらった。キム君は小学校を卒業した後、中学にも高校にも行かず、自分で考えて農業の仕事を始めたという。韓国ではそれは違法ではなく、個人的に勉強を続けながら受験資格を取って大学に入り、本格的な農業の勉強をするつもりだという。この援農の後すぐ、彼は帰国した。農業を続けていくことに少し迷いを感じ始めていたらしいのだが、この日本滞在で迷いは解けたらしい。毛糸の帽子がチェ牧師。手前のがっしりとした男性はタムラ君。





通常、白菜のキムチは縦に2等分や4等分した白菜を束のままにして漬けるはずだが、こんな漬け方はチェ牧師独自のもの、というよりもアベさんによれば、大量生産しているキムチ業者なども同じような漬け方をしているという。昨年、私が援農にもほとんど参加できなくなるほどの引きこもり状態だった頃、チェ牧師が漬かったばかりのキムチを届けてくれた。見た目は驚くほど白っぽくあっさりしたものであったが、食べてみると驚くほど美味しく、しかも日が経つにつれ、それはますます美味しさを増していった。





キム君。





残り少なくなった去年の梅干し。炊き出しでこの梅干しをちょうど使い切る6月頃、またあの心躍るような子供達と釜ヶ崎の人たちとの合同梅干し漬けが始まる。





育ちすぎた大根の芯部分だけを切り取ってそのまま食べる。瑞々しく、甘く。




まだ固い蕾のままのようなものから満開状態のものまで、いろんな梅が見られた。








それなりの理由があるのだろう、果実採取用の梅はほとんどすべてが白梅で、紅梅は主に観賞用として人家の庭に植えられていた。








柿の木さぁん、またまた柿の木ですよぉ。
たぶん今日の時点ではもう開花が始まっているにちがいない。柿の木があんなにも美しく華やかな状態になるとはこの歳になるまで知らなかった。樹影だけでは梅の木とほとんど区別がつかない。果実が採取しやすくなるよう、水を詰めたペットボトルなどを各枝にぶら下げてこのような状態にする。一昨年のスペイン巡礼行でも、葡萄やオリーヴの樹に同じような工夫がしてあった。




今日のYoutube
ビリー・ホリデイ 「奇妙な果実」

興味のある人はこの詩を、じっくりと読んでみて下さい。難しい詩ではありません。アメリカという国は凄まじい差別の歴史を持っているが、そんな差別の世相が真っ盛りであった頃のことであるにもかかわらず、少なくともこんな歌詞の歌を歌う黒人女性を不世出のジャズ歌手として認めるだけの度量は持っていた。徹底的な差別構造を、未だに、頑ななまでに、陰湿なまでに保とうとしているどこかの国とは根本的に違っている。と私は思わざるを得ない。