幕間 雑事あれこれ。(1)

メランコリーに捕われてブログの更新も滞りがちだった一時のことからすると、事態は好転したというべきなのだろう。このところいろんな雑用に追われ、今までの私からすれば、ないことに、忙しさが理由で更新が滞ってしまうというようなことになっていた。動きたくなくとも動かざるを得ない用件が多くなり、いつかまた必ず私の許に戻ってくるだろうことを十分に予感しつつも、メランコリーなどいつの間にどこに消え去ってしまったのだろうというような感じになっていた。
そこで、私としてはまだ2,3回は続けようと予定を立ている『黒い雨、どこにもない場所』のシリーズをちょっと中断し、いくつかのトピカルな出来事の報告でその場しのぎの更新とさせて頂こうと思う。

昨年末、知り合いの方から、購入した中古のマンションを、入居する前にリフォームしたいからと頼まれて工事ごと請け負っていた仕事がある。娘の事故以来、まったく仕事ができないというような状態に長らくあったが、そんな私が現場に復帰するにはこれ以上ないというような条件の仕事であった。おまけにそのマンションは自転車で行けるような距離のところにあった。
面倒な作業(申請業務、図面書きなど)をほとんど必要とせず、大まかな見積もりをモリカワさんにお願いしただけで、後は簡単なスケッチと主に現場での口頭の指示だけでこの仕事をやり仰せることができた。すべての作業は2月4日に終了した。
京大の研究員をされているクライアントのご主人は、最初の簡単な打ち合わせを済ませた後、すぐにバングラデシュに向かわれた。ODAによる支援事業とご自身の研究活動を現地で続けられ、今月の25日に帰国されることになっている。途中、2,3度だけ、変更や報告のメールを遣り取りした。奥様も中学校の教員をされていて、土日以外、現場に来ることも不可能な状態の方であった。実際、工事中の現場に来られたのはほんの一,二度だけであった。
お二人とも、最初の打ち合わせの段階で、私の考え方や仕事の進め方をすぐに了解され、ほとんどすべての裁量と、現場でのアド・ホックな作業の進め方について私に一任された。
クライアントに毎日のように現場に来られては口出しをされるというのが、私たちにとっては最も困難な条件の一つだ。出来上がった姿が私たちの頭の中には描けているが、工事現場の煩雑な状態の中ではそれをどのように説明しても理解していただけないことが多く、したがってクライアントによる現場での予定外の口出しは、出来上がりを確実に陳腐化させる方向に向かわせる。
ところがこの仕事はそうではなかった。状況に即して、といっても予算内にぎりぎり収まる範囲内で、次々と私はモリカワさんたちに指示を出し続けた。ほんの1ヶ月足らずの工事期間であったが、私もすぐに何とか本来の調子を取り戻し始めていた。だがモリカワさんたちはそれ以上に素速く私の意図を読み取ってくれるようになっていた。指示し忘れていたと思っていたことも、翌日に現場に行くと、すでに思い通りになっていたというようことが何度もあった。誇り高い建築家たちからすればまるで取るに足りない些細な仕事ではあったが、私にとってはまたとないリハビリになる作業であった。結果、少なくとも奥様にとっては、信じられないというような出来上がりになった。(と思う。)


1月のある朝、自転車で現場に向かう途中、エンドーさんとばったり出会った。久しぶりだった。お昼頃には現場から戻ってくるというと、それなら昼ご飯を一緒に食べましょうということになった。
エンドーさんはその方面ではとても有名な方だ。27歳にして某名門国立大学の法学部の助教授になり、将来を大いに嘱望されていた。だが、ある研修で釜ヶ崎に来られたとき、そこで目にした状況にショックを受け、さらに金井愛明牧師に出会ったことが決定的な契機となった。金井牧師は、自身の生涯を釜ヶ崎で暮らす人々と共に過ごすことに徹されていた方だった。すぐにエンドーさんは大学の職を辞し、金井牧師の許で自ら日雇い労務者としての生活を始められた。肉体労働とはまったく無縁な生活を送って来られた方が、いきなり、建設現場で鉄筋工の助手のような仕事をする立場になった。重い鉄筋を運んでいてよろけてしまい、コンクリートの壁を傷つけてしまったことがあるというような経験談を楽しそうに話すのを聞かせていただいたことがある。その後、金井牧師の勧めによって、釜ヶ崎に直近の場所で自身の人生を弁護士として再出発されることになった。
そんなエンドーさんに対して、私は密かなワルダクミを案じていた。
ある事情から、エンドーさんにお願いして、私の兄の経営する会社の顧問弁護士にもなっていただいていた。そんな途方もない方を顧問弁護士として抱えることになり、兄は非常に恐縮していたのだが、あにはからんや、肝腎なときに連絡を取れないことが多いと嘆かれてもいた。
エンドーさんは、自動車の運転免許はおろか、携帯電話もお持ちでない。ただ、これだけは文書作成上やむ得ないからなのだろう、辛うじてコンピュータとプリンタは事務所に備えられていた(とはいえモニターが今も球面ガラスのブラウン管方式のものであることはいうまでもない)。むろん、インターネットに接続されているような気配などありそうになかった(電子情報化された過去の判例を一瞬にして検索できるということの利便さを彼も認めていない訳ではなく、必要なときには然るべき場所に赴いて、そのような端末を有料で使うようにはしているらしい。だがそんなことはインターネット・カフェでも可能なことを彼はご存じない)。場所柄、ヤクザの親分のような人たちの弁護を依頼されることも往々にしてあるらしく、そんな親分たちから、業を煮やして、頼むからこれを使ってくれと携帯電話を郵送されてきたことが一度ならずあるという。
だが彼も負けてはいない。
もしこの携帯電話をどうしても使えとおっしゃるのであれば、私はこの仕事を辞退させていただきます。
ところがあるとき、じゃぁメールでお送りしますというようなことを彼が電話の相手に向かって話しているのを耳にして私は愕然とした。何と! 毎週月曜日だけ女性のアシスタントが彼の事務所に来ることになっていて、そのアシスタントが必要な事柄をコンピュータに打ち込み、フロッピー・ディスクに保存し、それを彼女の自宅に持ち帰ってそこからメール送信してもらうことになっているのだという事実がすぐに判明した。
昼食を共にしながら私はエンドーさんに尋ねた。エンドーさんのそのアンチ・テクノロジーの姿勢は、いったい、思想ゆえのことなのか、それとも個人的な好みや資質ゆえのことなのか。
本来は理系の職能であるにもかかわらず、可能な限りテクノロジーというものを忌避し続けている恐るべき人たちが私のまわりにも何人かいる。渡辺豊和氏やホンダ教授がその代表的な人たちだ。最も極端なのはなんといっても渡辺氏だが、ホンダ教授も、毎朝、自分の研究室に来ると真っ先にコンピュータのスイッチを入れなければならないという義務からあと何年かで解放されるかと思うと、それはまるで無料で世界旅行をさせてもらえるかのようなことだと言ったことがある。私はといえば、自分の生活からコンピュータを奪われると、それはまるで牢獄に入れられるに等しいようなことだと応え、二人で大笑いした。
だからそんな人たちの対し方については、誰よりも私は心得ている。
さて、エンドーさんは私の質問にはまともにお答えにならなかった。そのかわり、その場にお持ちになっていた古書店で買い求めた茶色がかった本を片手に握り、この手触りこそが読むという行為にどれだけ意味のあることであるかというようなことをおっしゃった。
負けずに私は私で、手に入れたばかりのiPhoneをこれ見よがしに取り出した。こんなに小さくて軽い道具の中に150編ほどの日本の近代古典文学が納められている、それがたったの315円だった、しかもそれだけではない、こんなものも納められていると、230円でダウンロードしたばかりのエドガー・アラン・ポーの英文小説14編も見せつけてお上げした。
もしエンドーさんのアンチ・テクノロジーという姿勢が思想ゆえのことであれば私も余計な手出しをするつもりはない、だがそうでなければ、エンドーさんの生活の中に押しかけ強盗のように私は侵入し、テクノロジーを導入させていただくと私は宣言した。
微笑みながらエンドーさんは、面白い方だとおっしゃった。
その日彼が私を誘ってくれたのはキジムナーという店だった。沖縄そば定食がオススメですとおっしゃった。二人でそれを頂いた。





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アンドレイ・タルコフスキー  「サクリファイス

この6分近いワン・シーンに満足できなかったタルコフスキーは、もう一度の撮り直しを望んだという。