黒い雨、どこにもない場所(3)

本文を少し訂正加筆しました。(09/02/06、 4:30A.M.)

今回のYoutubeは長尺ものなので、最初にそこに行って音楽を聴きながら読んでいただくと、なお一層効果的です。

先週の中頃、普段から親しくしていただいているマンション管理組合の理事長夫妻から、南港にある某高級ホテルの2名用宿泊招待券がある、1月末がその有効期限なのに自分たちのまわりには使うものが誰もいない、もったいないから誰かに使ってもらって下さいという電話があった。有り難く頂戴し、すぐに、いつもお世話になっているホンダ夫妻に使ってもらおうと電話した。
ところがなんとホンダさんは、私と一緒に泊まろうと言い出した。そうだったのだ。何しろ、昔、マルセイユで、見知らぬ男性からその住まいにまで拉致されかかったこともある紅顔の美青年でホンダさんはあったのだ。むろん、私自身もそうであったことに疑いを抱く者は誰もいないだろう。何を隠そう、我々二人は何十年も続くそんなアヤしい関係にあったのだ。


冗談はさて措き。
土曜日(31日)に何かの講演会で大阪に出てくる予定のあったホンダさんにとってもちょうど都合がよく、昨年末、ホンダ邸でいつもの通り奥さんと3人で深夜まで話し込んで以来、話も積もっていた。まさかそんなことはないだろうけれども、ベッドがダブルであればツインに変更して欲しいと頼んで金曜日の宿泊をホテルに予約した。
招待状に添えられたパンフレットには、最近できた結婚式用のチャペルと、それを設計した今をときめく若手建築家のポートレートまで印刷されていた。建築雑誌というものを見なくなってもう何年にもなるので、そんな建築家のそんな建物がそんな場所にできているということを私はまったく知らなかった。だが、流行りの建築的モードを何のためらいもなく踏襲(フシュウと読むんですよ、みなさん!)したその建物は、わざわざ見学のために赴く価値などまるでないということは、その一枚の写真からでもすぐに分かった。だが、そのことを確かめるためにホテルに宿泊するのもまんざら無益なことばかりでもないのではないかとも思った。私たちが宿泊したのは、おそらく2名で5万円以上はするような部屋だった。だが、そんな目的のためだけに自費で宿泊するのならば、100円でももったいないと私は思った。








すべてがあたかもスタジオ内で人工的に設えられたかのような空間であった。『フェリーニのローマ』で、市民が夜の街頭で食事をするシーン(背景のほとんどが描かれた書き割り風だった)を連想させた。
道頓堀は、もともとは土壇場、つまり刑場であった。そんな由緒を持つ都市的悪場所であったからこそ、芝居小屋が建ち並ぶ娯楽の街となったのか、あるいは刑場なり芝居小屋なりといった都市的悪場所たる施設を誘発する何かの空間的力、いわゆるゲニウス・ロキとでもいうようなものを、この場所が即自的に有していたからなのか。
いずれにせよ、意図的であったのかそうでなかったのかは分からないが、御堂筋や通天閣といったステレオタイプ化した大阪という都市のイメージを徹底的に避けていたこの映画のロケーションであったが、さすがにこの場所が発散している異様な都市的力には、スコット監督も抗いきれなかったのだろう。とはいえ、その道頓堀を、何の手を加えることもなく、誰も見たことのない、この地上のどこにもないようなスコット独特の都市空間へと見事に変貌させてみせた。
演劇をやっていている従姪(と表記し、じゅうてつと読むらしいです。従兄弟の娘です)が、脚本に名前まで付いた役のオーディションに受かり、撮影の話を何度も聞かされた。このシーンには何の関係もない役だったので、彼女がこの夜間の撮影に参加していたはずはないと思うのだが、話を聞く度に、私はこのシーンを想い浮かべていた。

それほどに、なにもかもがすべて芝居がかっていて、それでいて夢の中だけで見たことのあるような不思議なリアリティを与えるシーンであった。






戦後生まれの建築家100名が全国から集まり、共通のテーマのもと、全員で円卓会議をする。
1987年に開かれたこの最初の会議のテーマは「テクノロジー」であった。だからポンピドゥー・センターやロイズ本社ビルでいかにもメカニカルなイメージの建築を設計していたリチャード・ロジャーズが特別ゲストとして選ばれたのだろう。
このテーマと特別ゲスト、100名の建築家による円卓会議という未曾有(ミゾウユウと読むんですよ、みなさん!)の方法を策定したのが、おそらく難波和彦と本多友常ら数人の建築家と、金子悦輝であった。スポンサー企業との交渉から会場の設営、ゲストとの交渉、議事録の印刷等、すべての事務的作業を担ったのが、金子氏が代表を務めるデルファイ研究所であった。そもそもこんな趣旨の会議の開催をスポンサー企業に持ちかけたのが金子氏であった。





人物の背後からの照明というのは、スコット監督の常套手段といってもいい方法であるが、この映画では特にそれが目立っていた。高倉健の右側背後の行灯(あんどん)風の照明器具は、明らかにキリン・プラザからインスパイアされたものだろう。同様の縦長照明装置は、この映画のいたるところに登場する。
だが、その行灯風照明装置というものを高松伸にインスパイアしたのは、原広司であった。とはいえ、なにもこれは高松の名誉を傷つけようとしてそんなことを明らかにした訳ではない。都市的イメージを発散するに最も端的な街灯という装置を住居という小空間の中に最初に導入したのは原であった。だが単なる家具的なスケールを持つにものにすぎなかったそれらを高松は再巨大化し、都市的スケールを持つものに再変換した。つまり、原が住居の中に都市のイメージを持ち込もうとしたのに対し、高松は巨大な家具を都市空間に持ち出したのだ。
おそらくスコット監督は咄嗟にそのような構造を読み取ったのだろう。
因みに、マイケル・ダグラスの後方にある水平のリング状の照明は、横浜にある伊東豊雄の「風の塔」だろう。




私からすれば、これでも最盛時のイメージを辛うじて残しているに過ぎない。ジグザグを描くような空中斜路がもう一つ上方に架けられていて、その終点には、素朴な小屋としかいいようのないものが載せられているだけだった。その三段目の空中斜路が消えてしまっているのを発見したとき、私は怒りで体が震えたほどだった。
常に予定調和的なことしか考えることができなくなってしまっている、というよりもそうした思考が宿命づけられている建築家などには絶対に発想することのできない、まさに異物そのものであった。
かつてのあの獰猛なまでの風景が、ここまで落ちぶれてしまっては、もはや世界遺産に登録など出来得べくもない(そんなことを考えている者は誰もいないと思うが)。だが今もあのままに残っていれば、間違いなく世界遺産になり得ていただろうと私は思う。もっとも、踏みにじるようにして<私の屋久島>を変貌させてしまった世界遺産など、むしろ私にとってはどこかに消え失せて欲しいような制度だ。あんなものによって喜んでいるのは旅行業者ぐらいのものだろう。
前回のエントリーでSIVAさんが「工場の夜景にときめくというのはどういう心性なんでしょうね」とコメントして下さった。SIVAさんの好きな堺のコンビナートの、巨大な金属製の植木にネオン(※1)を絡ませたような夜景を見る度に私が思うのは、何もかもが我々の日常からは完全に断絶されたスケールや質感を眼の前にすることができるからだ、と私は思う。私たちの日常の中にはあるはずのない異界が、今そこにあるもののようにして見えるということ。





上に述べたように、キリン・プラザからインスパイアされて出来上がったシーン。普通ならそこに金属質、もしくはゴム質のものが取り付けられていて然るべき駐車場なのに!
光による画面の演出効果というものに対するリドリー・スコットの、獰猛なまでのこの執念。




今日のYoutube
Tangerine Dream 「Stratosfear」

http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51453616.html#comments



※1 http://www.justmystage.com/home/17701216/index.html
(このリンクの謎は、当該のページを隅々まで見渡せば、必ず解けるようになっています。)