住まいの原型を探る(2)

以前、ある大学で設計を教えていたとき、恐い住宅を設計せよという課題を出したことがある。ホラー映画やオカルト映画が流行っていたからではない。家とは本来的に恐い空間であり、だからこの課題は、住宅というものの本質を考えさせようとして出したものだった。
得体の知れない何者かに追われて逃げまどっていて、ようやく現れた家に助けを求めてその中に逃げ込むと、実はそこにもっと恐い者が待ち構えていた、というのが現代的ホラー映画の一つの定型のようなものになっている。だからといってそれらの家が、何か特殊な佇まいや仕掛けをもって登場するということはあまりなく、大抵、ごく一般的な、というよりも典型的な形式を持った家として現れる。にもかかわらず、こういう物語に関する限り、最も恐い場所はほぼ例外なくその家の中である。
実際、お化け屋敷や幽霊屋敷を意味するhaunted house の haunt は home と語源を同じくする。haunt とは、<頻繁に回帰する>とか、<(霊などが)棲みつく>という意味で、つまり home とは、本来的に霊などが棲みつく場所と考えられてきたという訳だ。

家とは、社会という共同体を構成する最小単位としての家族というものを収容する容器である。共同体社会というものがまだ堅固であった時代、それを構成していた最小単位としての家族という共同体も、揺るぎのない堅固なものとしてあった。そして当然のごとく、その家族という共同体も、陰に陽にさまざまな制度によって支えられている。
親は愛情をもって子供を育てなければならない、子供は父母を敬わなければならない、兄弟姉妹は仲良くしなければならない。こういうものが陽であるとすれば、陰は、父を殺してはならない、母を犯してはならない、子供同士で媾ってはならない、などである。あらためて指摘されるととんでもないと思われるかもしれないが、家族という共同体をその最も基層で支えているのはこうした血腥い禁忌という制度である。それは我々の日常の中でほとんど空気のように無意識化されてはいるが、空気がなくなればたちまち生命は窒息するように、こうした禁忌が無力化すれば家族制度もたちまち瓦解してしまうことだろう。
私の知る限り、いつまでも終わりそうにない今日のホラー映画のブームは、1973年、ウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』によってその端緒を開かれた。むろんそれまでもドラキュラや妖女ゴーゴンを扱った映画、日本でも四谷怪談やかさねが淵といったいわゆる怪談映画という伝統はあった。だがそれらは娯楽映画の一分野として常時散発的に作られてきたもので、『エクソシスト』以降の一向に途切れることのないブーム(とももはや呼べないような気がする)とは、明らかに断絶された時期のものであった。
そして、『エクソシスト』に始まる途切れることのないホラー映画のブームは、かつてはまったくなかったという訳ではないにしろ、それほど大きな社会問題にはならなかった現代に固有の家庭内問題、つまり家庭内暴力ドメスティック・ヴァイオレンス、引きこもり、離婚率の上昇などといったいわゆる家族の崩壊というような言葉で象徴されるような現象が顕著になり始めた時期と、おそらく相当の必然性をもって、重なる。(続く)




滅多に人が通るような道ではないけれど、やはり下の通りから間近に見えるという理由で、彼らも一昨年の学生たちとよく似た立地を選んだ。一昨年は作業時間が丸二日間あったが、今年はこの日一日しかなく、本人たちもどういう構想を持ってどこまでやれるかという確かな目論見もなく、闇雲に作業を始めたようだ。





一昨年は、細い材料を組み合わせて籠状の構造システムに徹したが、やはり同じことは避けたかったと見え、まず大きな部材でしっかりとしたフレーム作りから始まった。





前夜、ホンダ先生が先に寝た後、学生たちと話していて、一昨年のものは非常に出来もよく興味深いものであったが、実際の鳥や獣の巣と建築的、空間的に決定的に異なるところがそれほどなかったような気がする、ここはもう少し人間の作業ならではの抽象性というものを考えてみてはどうかと(余計な)アドヴァイスをしていた。スクリーンという用語まで与えていた。





昼休み。前夜の寝不足と午前中の猛作業で早くもぐったり気味。





午後の作業が始まる。スクリーンという言葉にやはり少し拘ってしまったのだろう。こちらが意図していたものとは様相はかなり異なっているが、道路に張り出した人工の床と連携して思わぬヴォリュームを持つ空間が姿を見せ始めていた。





エンドレスに続くかのような作業も、時間が来て強制的に終了せざるを得なかった。それでも、地面が整理されると、相当に主張の明確な、しかも周囲の無限定な空間からは截然と区画された空間が生まれている。雪の重みに耐える強度も十分にありそうなので、後の作業は来年の学生に受け継がれるかもしれない。





この日の朝食は焼きおにぎり。このような世代でも、料理番は無条件に女子と決まってしまっていたようで、二人は朝早く起きてご飯を炊いていた。料理ばかりに手を取られると肝腎の住まい作りに女子はほとんど参加できなくなるので、この日の昼食から私が料理番をすることにした。最初から私も2,3食ぐらいは作ってあげると申し出ていて、ひとつはnagonaguさん経由HANAさんという方のレシピのスープカレーを作ろうと考えていた。だが当然学生たちもカレーは用意しているだろうと思い直し、別のメニューを考えていた。この日の昼は、案の定彼らが準備していた牛肉、タマネギ、ジャガイモ、ニンジンと出来合いのルーによる普通のカレー。ただ20人前ほど作らねばならず(隣の別荘のダイモン夫妻も招待していた)、そんな人数の水加減が分らず、当てずっぽうでやったところ、意図せざるスープカレーができてしまった。必死に囲炉裏の火を大きくして水分を飛ばそうとしたが間に合わなかった。それでも、みんなは美味しいといってくれた。





昼食後、ひとりで大町市に夕食の材料の買い出しに出かけた。メニューはパエリャとタンドーリ・チキン。タンドーリ・チキンは2日前からスパイスだらけのソースにつけ込んだものを持ってきていたので、焼くだけで済むが、パエリャの材料は新鮮なものがいいだろうと現地で調達するつもりだった。自動車で片道一時間近くもかけて大町市に出向き、大きなスーパーがあったので求める魚介類を探したが、やはりこんな奥深い山の中の都市、満足できるような材料はなかった。
パエリャは基本的にはオーヴンで焼く料理で、だから専用の鍋はとても底の浅い平たいものである。それをこんな深鍋で、ほとんどごり押しのような調子で調理せざるを得なかった。しかもやはり20人前。ひとりでは持ち上げることも大変なほどの重さになった。





せっかく作った料理もほとんど写真を撮るのを忘れていた。これも思い出して慌てて撮ったが、ひどくぶれていた。銀紙をはがしただけで、学生たちから思わずオーッと声が上がり、一口食べてはメチャメチャウマイ!、二口食べてはコレハヤバイ!!、などと感嘆の声が上がることしきりだった。なんと正直で素直な嘘のいえない学生さんたちなのだろう。ダイモンさんの奥さんも、こんな深鍋でこんなに美味しくできるのね、今度やってみようかしらと仰った。美しい奥様だ。





タンドーリ・チキン。持参した特別の電気ファン式オーヴンで焼いた。本当はもっと色鮮やかになるはずだったが、これもいつも作っている量の何倍もあったので、思い通りにはいかなかった。ひとり二きれずつ用意していて、この後、もう一切れ分は酒席のためにヒッコリーでスモークしてみたのだが、そちらの方が遙かに美味しく出来上がった。だが写真を撮り忘れた。



今日のYoutube
Federico Fellini  「Satyricon」 "Freeing the Slaves(奴隷を解放する)"

全編、酒池肉林的世界が描かれていたこの映画で、唯一静謐と清浄さを感じさせるシーンであった。