住まいの原型を探る(1)

先週金曜日午後10時、ホンダさんと車で難波を出発した。和歌山から出発した学生たちと、11時半に大津サービス・エリアで合流することになっていた。だがかなり早く着いてしまった。車から降りると、肌を刺す寒さだった。
2台の車に分乗した学生たちは予定時間通り到着した。3回生8名(うち女子2名)と院1回生2名の合計10名。いきなり戸外で全員から自己紹介されかかったが、一度に覚えられる訳はないからおいおい覚えますといって断った。見覚えのある学生も何名かいた。
何度かのゆっくりとした休憩を挟み、朝の7時前、ちょうどいい頃合いに現地に到着した。
玄関の引き戸を開けた学生が驚きの声を上げた。逃げまどう鼠たちが見えたからだ。だが彼が本当に驚いたのは、家というこの仮構の暗闇に、予想もしなかった深くて濃い空間がわだかまっていたからだ。
これがホンダさんにとっては71回目の来訪になるという。私はこれで3度目、もちろん学生たちは全員初めて。私も初めての時は驚いた。というよりショックを受けた。以来、この家は何度も私の夢の中に現れ、受けたショックによってその空間は脚色され、現実とはかなり異なった姿で私の記憶の中に定着されていた。一昨年、ほぼ20年ぶりで再訪したとき、その違いに少なからず驚いた。
住まい、もしくは建築の原型を探らせ、それを実地に創作させること。ホンダ先生が自分の所有する山小屋の周辺で、学生たちにそのような体験をさせることを思いついて今回が4度目の試み。昨年はホンダ先生のスケジュール上やむなく中止せざるを得なかった。私も一昨年に次いでこれで2度目の参加。娘の事故の心労で疲弊しきっていた部外者の私をホンダさんが誘ってくれた。これで今年もしばらくは持ち直せる。




もともとは茅葺きだったが、毎年の維持費にあまりにお金がかかりすぎるので、昨年、ホンダさんは泣く泣く金属屋根に葺き替えた。放置すれば倒壊するほどに傾いた全体を、何とか元に戻すことが現在の問題であるという。この家はフォッサ・マグナの上に建っている。
ここに来て、まず最初にやらなければならないのは、屋内にこもった湿気を追い出すためにすべての障子を開放し、床に積もった埃や塵を払いのけること。10名もの人数で一斉にかかれば、たちまち片付いていく。ホンダ先生は山のたまり水から引いたホースを調整している。だがチョロチョロとしか出ない。





最後の1名が、寒さに震えるみんなのためを思い、囲炉裏で火を起こす作業に専念する。残念ながら今はそのシーズンではないが、煙が上がり始めると、上から蛇が落ちてきてボタッと音を立てることもあるという。
片付いた後、昼過ぎまで全員で仮眠する。





目覚めて震えながら風景に見とれる学生。





真正面に鹿島槍。うっすらと靄がかかったような天気で、最後まで快晴にはならなかった。





上の絶景を眺めながら、この足場板を跨いでしゃがむ。握り棒まで完備されている。もちろん男女共用。いうまでもなくみんなの視界からは完全に遮断され、使用者がバッティングしないよう厳格なルールも定められている。





一昨年の学生たちの労作の名残り。雪の重みでいまは半壊状態。





同。
落ちていた枝や蔓を組み合わせ、内側にほっこりとした空間ができていた。元々は入り口や窓らしき開口も設けられていたが、雪でひしゃげて分りにくくなっている。
鳥の巣という愛称が付けられた北京オリンピックのメイン・スタジアムと同じ構造システムでできている。だが実現したのはこちらの方がずっと早かった。しかもあちらの方は単なる構造システムのアナロジーでしかなかったが、内包された空間はこちらの方が遙かにプリミティヴで力強かった。これは学生たちを贔屓していっているのではない。もちろん、こちらの方は、実際にプリミティヴな材料、プリミティヴな工法によるものなのでプリミティヴなものが出来上がるのは当然とはいえ、空間の遠く深い力強さという点において、鳥の巣というニック・ネームが喚起するイメージとはおよそ無縁のものでしかなかったスタジアムなど、その足元にも及ばない。





何かを求めて森の中に列をなす人々。
雪のシーズン、黒い僧服を着た彼ら(※1)を夢想する。
この日の彼らの作業は敷地の選定と材料集め。




黒い森。





夜、食事の後の歓談。向こう側で背中を向けている学生は、写真に撮られるのがいやだから。ではなく、冷えた背中、とりわけ足の裏を暖めようとしている。手前でフードを被ったままの姿がホンダさん。





ホンダ先生は連日の多忙で早々と囲炉裏の脇で深い眠りに吸い込まれた。女子学生が毛布を掛けてあげていた。
ホンダ先生に代わって、慢性不眠症の私が出しゃばった。
蛍光灯の下、エアコンの効いた部屋で雑談をする、のではなく。
凍える闇の中、燃えさかる炎を見つめながら考え、言葉を紡ぐ。炎の隠喩(※2)について語った訳ではなかったけれど。
この体験は彼らに何をもたらすのだろうか。
何本かの映画を彼らに薦めた。とりわけ、ついこういう場合にはいつものように、フェリーニの『サテリコン』を絶賛してしまった。


※1 Caspar David Friedrich  「Klosterfriedhof im Schnee」
※2 ガストン・バシュラール


今日のYoutube
Federico Fellini   「Satyricon」

全編が人間業とは思えない超絶的なイマジネーションによって満たされたフェリーニの映像はもちろんのこと、極めて純度の高いものではあったとはいえ、いつもの幾分過度になりがちだった大衆迎合的センチメンタリズというものを極力廃し、現代音楽という困難な分野にも深く関与しているという自身の矜恃を存分に発揮しているニーノ・ロータの音楽も凄まじい。
建築空間の原型というものが、この映像の中で、どんな建築家の設計した建築よりも大きく深く息づいている。