侍女たちと執事(3)

くどいようだが、生来の怠惰癖に加わって、ここしばらく、いつになく深いメランコリーに侵され、ブログを更新する気力などまったく失せた状態にあった。調子に乗ってこんなブログなんか始めなければよかったと後悔することしきりであった。だが一昨日、鬱々とした気分が底を打って跳ね返ろうとするタイミングを何とかとらえ、ようやく更新に取りかかるきっかけを掴むことができた。
ところが、『サンセット大通り』の有名なラスト・シーンはYoutubeにいくらもあるのに、それを見逃すとこの映画の最も肝腎なところが解らなくなってしまうおそれのあるオープニングの決定的なシーンが見つからない。探せばあるのかもしれないが、いずれにしても日本語字幕や吹替版のものはありそうもない。
しばらく前、このエントリーの構想らしきものを練っていたとき、格安DVDの販売元に、キャプチャー動画をYoutubeにアップロードしても構わないかと問い合わせてみてはいた。当然のごとく答えはノーであった。そのことも更新の気力を削ぐ原因のひとつになっていた。映画自体の版権はすでに期限が切れているはずで、だから五百円などという廉価でDVDが販売できているのだ。だがおそらくそこに付けられた日本語字幕にコピーライトが残っているのだろう。
ならば字幕を外せばいいではないかと思われるかもしれないが、残念ながら日本語字幕が画面に直に焼き付けられた英語版一層のDVDである。そこで少しやる気の出てきた一昨日の午後、廉価版でないDVDはないかと日本橋を探してみた。すぐに見つかった。それがさらにやる気を蘇らせた。
挑戦してみようと思った。必要な箇所をキャプチャーし、それに独自に日本語の字幕をつけ、Youtubeにアップロードする。
新たに購入したDVDにはコピー・プロテクトがかけられていたが、それを外すフリーウェアはすぐに見つかった。もとより版権切れの映像と音声を取り出すだけだから、それほど罪の意識はなかった。字幕付けは、有難いことに、The Internet Movie Script Database (IMSDb)というサイトでオリジナルの脚本が見つかった。翻訳は、ぎこちなさが残るのは十分に承知しながらも、通常の字幕のような徹底的な意訳や遺漏を避け、できるだけ文意を外さないように心がけた。字幕付けの作業自体は、使い慣れたNLE(ノンリニア編集)のシステムを用いた。もちろん字幕付けなどという作業は初めてだったが、短寸のシーン二つだけということもあり、比較的スムーズに事は運んだ。ただ、セリフの喋り出しと字幕が現れるタイミングをどうするかということに少し試行錯誤した。因みに、廉価版もそうでない方も、なぜか音声のレベルがかなり低かったので、このシステムで可能な限り上げておいた。
Youtubeへのアップロードも未経験であったが、その日の深夜、何とかそれもやり仰せた。著作権についてどういう処理がなされているのか分からないようなものがごまんとある中で、これでも相当に良心的にやった方だと思う。問い合わせた廉価版の販売元の担当者は、含みを持たせるような感じで、取り敢えずはノーとしかいえませんというようないい方をした。
以上、新しいDVDを購入し、Youtubeへのアップロードまで、これだけの作業にほぼ半日を費やした。思っていたよりは短時間ですんだ。だがその無理がたたったのか、昨日、いざ本文を書こうとしても気力がまるで残っていなかった。


さて、本文である。いわゆるネタバレというようなことが多分に書かれることになるはずだ。もしこの映画をまだ観ていず、しかも独自に解釈してみようという意志をお持ちの方は、是非ともスルーされることをお薦めする。だが、半世紀以上も前に作られ、もはや堂々とした古典として流通している大傑作である。そしてその傑作とされた所以の肝腎のことについて私は書こうとしている。公開中の映画についてなら遠慮がちにならざるを得ないが、この作品に関しては臆せずに私は書く。


この映画には、いわゆる話者(ナレーター)という存在がいて、時に応じて場面の解説をする。ここに取り上げたオープニングとラストの二つのシーンでも解説を加えている男声である。一般的にナレーターとは、その物語もしくはドキュメントの外部から、その全体をすべて把握した俯瞰的な立場から、解説を加えるという存在である。ところがこの映画では必ずしもそうではなかった。
ここで、この二つのシーンについて、そのナレーターの意向に沿った解説をしておこう。



オープニング・シーン


ある大女優の豪邸で殺人事件が発生し、警察やマスコミが大挙駆けつける。被害者は若い男性で、射殺され、プールに俯せになった状態で浮かんでいる。取るに足りない三文脚本家であったというナレーションが入る。水中カメラからその遺体を捉えるが、顔の詳細までは判然としない。
ここでナレーターは、事の発端は半年前にあったと語り、映像はそのシーンに切り替わる。
ところがここでナレーターは突然、私という主語を使い始める。一瞬、日本の私小説と同じような体裁をとった物語なのかと思うが、すぐにまるで似て非なるものであるということが分かる。
ある男性がアパートの一室でタイプライターに向かっている。ナレーターが、私は売れない脚本家で、その頃、苦境の日々が続いていたと告白する。つまりこのシーンで、その男性は、この物語のナレーター(語り手)をつとめている私自身であるという仕掛けが明らかにされる。同時に、冒頭のプールに浮かんでいた脚本家もその男性、つまり私自身であったことが、明示されないまでも即座に了解されるようになっている。このシーン以降、彼(私)は物語の中の中心人物として登場することになるのだが、にもかかわらずその半年後に射殺されてプールに浮かび、なおかつその彼(私)の死について、私自身が物語の外部から解説を加えるという、異様にトリッキーな仕組みがこのシーンで明かされる。
この仕組みの最大のキーは、彼(私)の職業が映画の脚本家であるというところに隠されている。つまり、アパートの一室で彼(私)が苦労しながら書いているその脚本が、実はこの物語の脚本そのものでないのかという勘ぐりを誘発することまで明らかに意図されている。まさにいたるところこうしたトートロジカルな構造を絡ませながら物語は進行する。
という、ビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケット、D・M・マーシュマン・ジュニア三名によるこの『サンセット大通り』の脚本。一筋縄ではいかない、実に驚くべき入り組んだ仕掛けがさまざまに施されている。この物語の構造を、もしメビウスの輪に喩えるとするならば、細長い紙を半回捻って貼り合わせる、まさにその貼り合わせの箇所がこのシーンであるといっていいだろう。いや、とてもメビウスの輪のようなシンプルな構造ではない。彼(私)が自在に物語の内部と外部を行き来するという仕組みにおいて、クラインの壷に喩える方がずっとふさわしい。


ラスト・シーン

ここで圧倒的な存在感を誇る女性は、かつて無声映画時代に大スターとして活躍し、巨万の富を築き上げ、いかにも大女優のイメージにふさわしいごてごてした趣味で埋め尽くされた豪邸に住み、極めて忠実かつ寡黙な執事にかしずかれながら、かつての栄光の日々を忘れきれず、銀幕への復帰を熱望している。だが以前はよき盟友であった映画界の実力者たちも、年老いて美貌も衰え、目を背けたくなるようなその落魄を前にして、心にもないお世辞と逃げ口上でしかその場をしのぐ術を持たない。
銀幕への華々しい復帰に対する彼女の熱望は、もはや妄執とまでなり果て、自分の登場場面ばかりを強調した『サロメ』のシナリオを独自に書き終えていた。そこに偶然現れたのが売れない三文脚本家、つまり彼(私)であった。専門の脚本家という彼(私)の立場に彼女は興味を惹かれ、自分の書いたシナリオの仕上げを彼(私)に依頼する。だが、当然のこととして、自分より遙かに若くてハンサムな彼(私)の存在自体にも彼女はたちまち惹かれていく。とはいえ彼(私)にとって、彼女は単に都合のいいクライアントでしかない。彼女にはそんな素振りはあまり見せないまま、徐々に飼い慣らされていく男を演じるが、実際は別に知り合った若い女性と恋に陥っていた。
そうこうした情事の果てに、彼女は思いあまって彼(私)を拳銃で射殺する。すでに最初から自らの妄念の中で半ば狂的に生きていた彼女は、この瞬間から完全に狂気の中に入り込んでしまう。執事によって事件が警察に通報され、こうして物語は冒頭のシーンに戻り、そしてあまりにも有名になったこのラストシーンで映画は閉じられる。当然、このラストシーンでナレーターを勤めているのも、すでに死者となった不在の私である。


私(彼)=ナレーターを演じたのは、この映画で一躍大スターに躍り出たウィリアム・ホールデン。役名はギリス。ワイルダーは最初この役をモンゴメリー・クリフトに依頼したらしいが、当時、クリフト自身が自分の倍以上の年齢の女性と同棲していたらしく、自分の私生活がそのまま投影されたような役だからと断られたという。
元女優のノーマ・デズモンド役を演じたのはグロリア・スワンソン。彼女自身、実際に無声映画時代の大スターであった。この役も、ワイルダーは最初は同じくかつての大スターであったグレタ・ガルボ、次いでメイ・ウェストに依頼しようとしたらしいが、いずれも自分の私生活がそっくり投影されたような姿を演じることはとても受け入れられないと断られた。
このラストシーン、ノーマ・デズモンドは狂気の中で自ら脚本を書いたサロメを演じ、そしてグロリア・スワンソンは、その迫真の演技を演じるノーマ・デズモンドを、迫真の演技で演じた。この演技でスワンソンがアカデミー主演女優賞を獲れなかったというのは実に驚くべきことだ。

この映画で、最も興味深く謎めいた人物、ノーマの執事役のマックスを演じたのが、伝説の映画人エーリッヒ・フォン・シュトローハイムであった。ラストシーン、マックスは、事件の取材にやってきたニュース映画のカメラマンや照明係に指示を出し、階段の下からノーマの最後の演技にキューを出す監督役を演じる。エーリッヒ・フォン・シュトローハイムという名が示すように、ユダヤ系ドイツ人としてウィーンに生まれたが、ワイルダーよりもずっと年長で、しかも早いうちにアメリカに移住していた。最初は性格俳優として、次いで監督としてハリウッドで八面六臂の活躍をし、そのどちらにおいても類い希な才能を高く評価されていた。だがことごとく予算を無視したあまりに凝った映画の作り方によって、徐々にハリウッドから疎ましい存在と見なされるようになっていた。この映画で鉛のような重々しい存在感を示していたのは、そうした資質と経歴のなせる業というべきだろう。

驚くべきことに、物語の中で、この寡黙な執事は、ノーマは三度結婚していたといい、その最初の夫が自分であり、かつ彼女を女優として世に送り出したのも、以前映画監督をしていた自分であったと彼(私)に告白する。以来ずっとノーマの執事として仕えてきたのも、どうしても彼女を見捨てることができないからだともいった。むろん、恋慕の情だって残っていない訳ではなかっただろう。
映画の中で、ノーマ・デズモンドが、自邸の映写室で、自分の出ていた昔の映画を彼(私)と一緒に鑑賞するシーンがある。当然それは、執事のマックスが監督時代に撮った映画という設定であったのだろう。ところが、マックスを演じたエーリッヒ・フォン・シュトローハイム自身、ノーマを演じたグロリア・スワンソン主演の映画を実際に監督したことがあり、だが二人の間に衝突が生じてその映画は未完のままに終わったという。ノーマの映写室で映されていたのは、まさにその未完のフィルムであったらしい。しかもワイルダーの奸計はそんなところだけにとどまらない。ラストシーン、マックスに仮の監督役を演じさせることによって、未完のままであったグロリア・スワンソンとエーリッヒ・フォン・シュトローハイムの映画を、彼はこの映画の中で完成させてやろうとしたと解釈することもできる。同じヨーロッパからのユダヤ移民であった偉大な先輩映画人に対するワイルダーの、尊敬の念と篤い思いが秘められた心に沁みるシーンでもある。

この『サンセット大通り』は、パラマウント社で制作され、ノーマ・デズモンドが復帰を願ってかつての映画仲間に会いに出かけるのも、実際のパラマウント社であった。しかも同社が『風と共に去りぬ』の映画化権を取り損なった(MGMによってそれは映画化された)ことや、タイロン・パワー、アラン・ラッドなどといった当時の有名スターの名が会話の中に何人も出てきたり、こともあろうにセシル・B・デミルバスター・キートンという同時代の超大物映画人が実際に本人役で登場したりもする。とはいえ彼らも、その演じる役柄が大物映画人たる自分自身であったということを除けば、映画的演技に打ち込んでいるという点において、他の役者たちと何ら変わるところはない。
挙げ句にワイルダーは、ラストシーンでノーマ・デズモンドが階段を降りて思わず吐露する言葉、グロリア・スワンソンをして迫真の演技で語らしめた計算尽くのセリフ、「そこの暗闇にいるすばらしい人たち」というセリフによって、この物語どころか、映画界の外部にいる観衆たちをもこの映画の中に組み入れようという、とんでもないことまでも企んでいたことが明らかになる。虚実、表裏、内外、主客が変幻自在に入れ替わり、接触し、乖離し、平行し、時に癒着して一体化するという、まさにクラインの壷というにふさわしい構成と計算が緻密になされた、実に驚嘆すべき映画であった。
就中感心すべきは、プールに浮かんだ死体を、いうにこと欠いて、取るに足りない三文脚本家とその死者自身に言わしめたという、しかもある意味でそれは自分自身に向けた言葉でもあったという、何という恐るべき皮肉に満ちたワイルダーの悪巧み!




今日のYoutube

LisaNova  「ヒラリー・デズモンド」

サンセット大通り』のラストシーンを二度も貼り付けたので、そのクリップが終了したとき、画面の下にこのサムネイルが現れるのですでにご覧になった方もいるに違いない。このシーンがアメリカではここまで人口に膾炙していたのかとあらためて驚かされると共に、アメリカ人の洒落っ気にもひどく感心させられた。特にここで使用されている階段を見て吹き出さない人がいれば、その人を私は尊敬する。このクリップを発見したとき、鬱状態のまっただ中にあったにもかかわらず、深夜、私はひとり大声で笑い出してしまった。もちろんヒラリー・デズモンド(これは私が勝手に命名した)がそこへの登場を狂的に熱望しているのはホワイト・ハウス。オリジナルではマックスに相当する人物で、ヒラリーがアンダーソン・クーパーと呼びかけているのは、アメリカの超有名なニュース・キャスター(らしい)。セリフは、映画界に復帰したがっていたノーマの立場を、ホワイト・ハウス入りを熱望していたヒラリー・クリントンに置き換えただけで、そのほかは一字一句オリジナルのものと同じ。




SambaDisaWinner  「バラク・デズモンド」

このクリップは上のLisaNovaのものをさらにパロディにしたもの。途中まではLisaNovaのクリップをそっくりそのまま繰り返している。ただ、最後の肝腎のクローズアップのシーンで突然ヒラリーはお払い箱になり、替わってバラク・デズモンド(これも私が勝手に命名)が召還される。上のLisaNovaの場合は、複数の人数でクリップが作られていたが、こちらはすべての人物をSambaDisaWinnerひとりで演じている。カメラもシーン毎に固定されたままなので、もしかするとすべて彼ひとりの手作りによるものなのかも知れない。


LisaNovaもSambaDisaWinnerもこうしたクリップを沢山Youtubeに登録している。どう考えてもどちらもこれを職業にしているとは思えず、つまり素人の遊びに類するもののようだが、それにしてもやってくれるものだとほとほと感心させられる。
どうやらアメリカではLisaNovaの方が名が通っているようだが、私自身はこの貧相な黒人青年の作っているものの方がずっと面白いと思う。特に以下の二つがオススメ。そのうち、第二のエディ・マーフィとしてメジャー・デビューしてくるかもしれない。
http://jp.youtube.com/watch?v=fWCHuOrxxVE&feature=channel
http://jp.youtube.com/watch?v=eahfmUoq6Ug&feature=channel




以上、吹替さま、お後はどうぞよろしく。