侍女たちと執事(1)

前回のエントリーで予告したように、今日は映画『サンセット大通り』のラストシーンについて書く。とても一度では書ききれないテーマなので、2,3回に分けて書くつもりだ。くどいようだがもう一度Youtubeを貼り付けておく。前回も書いたように映画史に残る大傑作であるから未見の方は是非全編を実際にご覧になることをお薦めする。

監督はビリー・ワイルダー。二十世紀半ば頃のアメリカ社会の世相、それもどちらかといえば健全な市民社会を、おおむねユーモラスな調子で描いてきたと思われている監督。だが出自はそんなにのんびりと安穏としたものではなかった。ユダヤポーランド人として生まれ、新聞記者として人生の経歴を始めた。ジークムント・フロイトにインタヴューを申し込んで断られたこともあったらしい。だがやがて時代は切羽詰まり、ナチスに追われる身となった。一旦フランスに亡命し、映画の脚本家として活躍し始めたが、最後はアメリカに渡らざるを得なかった。
ミシェル・フーコーが『言葉と物』でベラスケスの名画『侍女たち』を分析したように、この『サンセット大通り』のラストシーンも、あれくらいの分析が可能なのではないかと思うほど実にさまざまに興味深い構造や仕掛けが隠されている。そんな分析の試みはもうとっくにいくつもなされているのかもしれないが、もともと映画には興味はあっても人の書いた映画論というものには私はほとんど興味を持ってこなかった。だからこれから私が書くことは、すでに誰かの書いたものと重複するところがあるかもしれないし、私が誤った解釈をしていることもあるかもしれない。もしそんなご指摘があれば、本エントリーを訂正、場合によっては削除することもやぶさかではない。
サンセットや大通りといった言葉のイメージから、ワイルダーの他の有名な作品『七年目の浮気』や『お熱いのがお好き』などと同様の軽妙なコメディ・タッチの映画と思われるかもしれない。私には、このタイトルから、かつて日本でも日曜日の夜にTVで放映されていた『サンセット77』という陽気な探偵ドラマが思い浮かぶ。二十世紀を代表するヴァイオリニストのひとり、エフレム・ジンバリストの息子で俳優であった同名のジュニアや、しょっちゅう髪の毛を梳かしていた洒落者、クーキー役のエド・バーンズなどが出ていた。
だが『サンセット大通り』は、我が世の春を謳歌していたかのごときあの当時のアメリカの世相からは考えられないような、屈折、皮肉、悲惨、そして何よりトートロジーという度し難く知的な構造によってまとめられた、実に複合的な映画である。それでいて思わずにやりとさせられるような映画的仕掛けがいたるところに施されている。昨今のアメリカ映画が、干からび果てたイマジネーションを穴埋めするかのようにひたすらCGの新技術だけに頼り切ったこけおどし的映像に淫しているのに対し、当時、ヨーロッパからの亡命者や移民たちがいかにアメリカ映画の屋台骨を支えていたか、ヨーロッパの深い文化的蓄積がいかに豊かな恵みをアメリカ映画にもたらしていたか、そんなことをあらためて思い知らされるような映画だ。前回に取り上げたフレッド・ジンネマン、『メトロ・ポリス』のフリッツ・ラングワイルダーとよく混同されていたらしいがお互いに尊重し合い仲のよかったウィリアム・ワイラーアメリカ映画の黄金期を支えていた多くの人たちが、ナチスに追われて亡命してきた人たちであった。また、ジェームズ・ディーンマリリン・モンローマーロン・ブランドポール・ニューマン、アンソニー・ホプキンズ、アル・パチーノメリル・ストリープブラッド・ピットといった燦然たるスターや演劇人を陸続と輩出したアクターズ・スタジオの創設者、リー・ストラスバーグオーストリーハンガリー帝国出身のユダヤ人。娘もよく知られた女優、スーザン・ストラスバーグ)も、こういった文脈には絶対に欠かせない人物だ。『駅馬車』を初めとする多くの西部劇によって最もオーセンティックなアメリカ映画の監督と思われているジョン・フォードでさえ、アイルランドからの移民であった。




ところでフーコーの分析したベラスケスの『侍女たち』には、この絵を描いた画家本人が描かれている。画面の左側で、絵筆とパレットを持ち、その背面しか見えないキャンバスに描かれた絵を確かめるように立っている男。世の中に山とある自画像ならば自分を描くのは当然のことだし、あるいはミケランジェロやラファエッロがやったように、描こうとする情景の中の登場人物のひとりに擬して自分を描くというようなことも、歴史的にはよく見られてきたことだ。ヒチコックが自分の映画の中に、必ずさり気なく登場していたのもそれと同じような趣向といっていいだろう(前回の『北北西に進路を取れ』のタイトル・シーンでは、バスに乗り損なった男)。だがこの絵の中のベラスケスは、絵画史上誰もやったことのないやり方で自分自身を描いた。普通、絵画は、特に具象画は、いうまでもなく、それを描く画家自身の視点から描かれる(抽象画もそうでないとはいい切れない)。ところがこの絵は、あろうことか、画家が描こうとしているモデル、つまり国王夫妻の視点から描かれている。しかも画家の向かっているキャンバスにおそらく克明に描かれているであろうその国王夫妻の姿は、正面奥の壁に掛けられたくすんだ鏡に辛うじて映っているにすぎない。

ディエゴ・ベラスケス 『侍女たち』(1656) なおこの絵画についての詳しい説明はここでどうぞ。



私の知る限り、自画像でもなく登場人物に擬した形でもなく画家自身の姿を絵の中に描いた例は、これ以外にはフェルメールの『絵画芸術』だけである。

ヨハンネス・フェルメール 『絵画芸術』(1666)

ベラスケスの場合、正面から顔をリアルに描いているので、あれが自分以外の画家であるということはあり得ないが、ここに描かれている画家は後ろ姿だけなので、必ずしもフェルメール自身とは限らない。フェルメールの絵は、描かれたものにことごとく深い寓意が込められているということがその一大特徴なので、自分自身を描くというよりも、画家という存在の持つ寓意的意味だけを描こうとしたと解釈する方が妥当だろう。この絵画についての解説はここ


とはいえベラスケスの『侍女たち』が誰の視点から描かれたものなのかといえば、いうまでもなく、モデルの視点に擬されたベラスケス本人のもの以外ではあり得ない。でないと絵画という制度そのものが成立しなくなってしまう。ベラスケスは、おそらく何十万年にもわたる人類の歴史の中で誰ひとり疑うことなく遵守してきたその絵画的制度を手玉に取り、捻って裏返し、入れ子構造にして再構成し直した。つまり『侍女たち』は、絵画という制度について果敢に挑んだ絵画についての絵画、破格の絵画であった。
そして『サンセット大通り』も同様に、映画についての映画、破格の映画であった。(次回に続く)




黒門市場


先日の大事件のあった場所。あれからもう一人死者が増えた。事件は10月1日未明に発生し、この写真を写したのはそのちょうど一週間後。もう何ごともなかったかのように人々は現場の前を素通りしていく。





事件現場から3分ほどのところ。黒門市場に向かっている。赤から黄色への階調の見事な洪水。





日本橋方面から流れてきた若者。にやにや笑いながら、独り言をつぶやきながら、ふらふらしながら、車道を歩きながら、北の方に向かっていた。アブないオタク(なのだろう)。




大阪で最も有名で由緒ある市場。食材の専門店が揃っていて品揃えは確かに豊富だが、特に安いという訳ではない。この日はどうしても殻付の牡蠣が食べたくなり、ここにやってきた。5個買った。一個2百円。百円ちょっとというところもあったが、ちょっと奮発した。





こんな市場なのに様変わりも激しく、かつては魚や野菜の専門店であったと思われるようなあとに、小さなスーパーが2軒並んでできている。この写真は看板代りの人形に焦点を当てたつもり。ブログを始めた頃にも一度書いたことだが、カメラを持つと目の付け所が大きく変わることにいつもながら驚かされる。





時期はまだ少し早いが、黒門市場の売り物はなんといってもふぐ。といってもこんな老舗のような店は高くて私には手が出せない。





有名人のサインがいっぱい張ってあるのかと思ったら、ほとんどがアジアからの旅行者のものだった。台湾の人たちのものが特に多かった。





大阪名物立体看板。他にタコ、エビ、マグロ、クエがぶら下がっていた。





かつてはなかったはずの沖縄の食材専門店ができていた。慌てて豆腐ようを買った。他にも、かつてはなかったキムチ専門店が何軒かできていた。





豆腐よう。これが12個入って1575円。今までに食べたものよりもカタマリが大きい。得したような気分になる。驚くほど、呆れるほど、悔しいほど、腹が立つほど、オイシイ。




今日のYoutube
Mills Brothers 「Dream a little dream of me」

大好きな曲。





このところ以前から患っていた鬱がちょっと亢進し、更新が滞りがちになっています。しばらくはこの調子でいきます。吹替さま、次のエントリーで思いっきり蘊蓄をお願いします。