奇跡の水、収穫の秋

今日、フランスから絵葉書が届いた。昨年の3ヶ月間にわたるサンティアーゴ巡礼行で、私はピレネー北麓にあるオロロン・サント・マリーという街に立ち寄った。ある事情で結局私はこの街に12日間滞在することになったのだが、最初の1日を除いて、ピエール・イザンベールという人の営む民宿にお世話になった。それは信じられないような11日間であった。3ヶ月のうちで、いや、ある意味で私のこれまでの人生の中でも最も濃密なといってもいいような日々であった。ピエールとセシルの夫妻、そして彼らの友人であるステファン、素晴らしい人たちであった。
この7月初め、私の紀行ブログのコメント欄を通じて、タナカさんという女性からアドバイスが欲しいというコンタクトがあった。私がピレネーを越えたと同じルート(最も厳しいといわれている)を自分も辿るつもりで、イザンベール邸にも泊まる予定だという。それは私には渡りに舟のような話だった。どうしてあそこまで親切にしてくれるのかというようなもてなしをイザンベール邸で受け、なんとかお礼をしなければと思い続けながらも何もしないままで過ごしていたのだった。
タナカさんの予定を聞き、彼女が着く直前の頃合いを見計らって、うどん、蕎麦、素麺、麺つゆ、だし醤油、チューブ入りわさび、きざみ海苔などを適当に取り揃え、イザンベール邸宛に送付した。昨年の長旅で、夢にまで見るほど私自身が食べたかったものばかりだ。きょう届いた絵葉書には、ピエールが嬉しそうに箸で素麺をつまみ上げている姿が印刷されていた。どれもかなりの量(郵便局で計ると7キロ近くあった)を送った。タナカさんに調理の仕方を教えてあげて欲しいと頼んでおいたので、当分彼らも楽しんでくれることだろう。特にバスク人のステファンは異常なほどの知日家で、きっと分け前に与らせてもらって彼も大喜びしているにちがいない。
先週の金曜日、ホンダさんから頼まれごとがあり、和歌山県境にある彼の自宅を訪問した。用事を済ませたあと、奥さんと三人で食事をしながら深夜まで話し込み、そのまま雑木林に囲まれたホンダ邸に泊めてもらった。年に何度かの恒例行事のようになっている。昨年は、サンティアーゴ到着後、街全体が世界遺産になっているポルトガルポルトという都市でホンダ夫妻と落ち合った。だがそのときの話よりも、私がオロロン・サント・マリーという街に立ち寄ったことを私の紀行ブログで知った時、ホンダさんがどれだけ驚いたかという話で盛り上がった。昔、彼はイギリス留学中にパリから自動車でピレネーを越え、アフリカ奥地にまでフィールド・ワークに行ったことがあるのだが、そのときに辿ったとまったく同じルートに突然私が入ってきたからである。しかもその後もほとんど同じルートを私は辿り続けることになった。
私自身、3ヶ月という期間と、12月初め頃にサンティアーゴに到着することという以外、何も決めていない旅であった。毎日、明日はどう動こうかと考えるような旅であった。もちろんオロロン・サント・マリーという街の名も、そして私がそこに立ち寄るということも、直前まで私自身も知らないことであった。
35年ほど前、日本に留学にやってきていたクリスというイギリス人と私は親しくなっていた。私がサンティアーゴ巡礼について知ったのはその頃の彼によってであった。3年半の日本滞在を終え、帰国したクリスは、ロンドンにある世界で最も有名な建築大学に編入した。その同じ大学に、ある会社の社内留学制度によって大阪からやってきていたのがホンダさんだった。クリスがホンダさんに私を紹介してくれたのだった。
その後クリスは香港大学に教職の地位を得たのだが、あの熱暑に耐えきれず、1年で職を辞し、84年に再来日を果たした。だが、発症する確率が二分の一という父親から受け継いだ遺伝病の兆候が、すでにこのとき彼に現れていた。肉体だけでなく、精神まで蝕まれ、最後は死に至るという病。86年1月、クリスは大阪のあるビルの屋上から身を投げた。
私に連絡をしてきたタナカさんという女性は、これは後から分ったことだが、ホンダさんと私の共通の友人であるナンバ・カズヒコという人物と親しかっただけでなく、なんとクリスが留学していた大学の研究室で秘書をやっていたことがあるという。
昨年、どうしてもというほどではもちろんなかったけれど、そこに立ち寄った時のことを考えて私は小さな水筒を持参した。そして何となくルルドという街に行き着いた。奇跡を起こす力があるという水を求めて世界中から大勢の人々がこの街にやってきていた。ただでさえ他の巡礼者からどうしてお前のはこんなに重いのかといわれるほどだった私のリュックに、その奇跡の水を詰めた水筒が加わった。そしてその後のほぼ千キロを、もともと弱点だったかかとの痛みに耐えながら、その奇跡の水と共に私は歩き通した。
実際、ほとんど奇跡の連続といってもいいような私の旅だった。だがルルドに立ち寄る前から、奇跡の水を運び始めるよりずっと前から、すでにいくつもの奇跡は起きていた。奇跡の水を詰めた水筒は、帰国後も、一度も栓が開けられることなく今もリュックに入ったままである。
いま調べてみたら、ちょうど昨年の今日、私はイザンベール邸を後にしたのだった。




かつらぎ町
土曜日の朝、ホンダ邸から直接かつらぎ町に向かい、久しぶりに援農に参加した。チェ牧師、ムラカミさん、タムラ君、それに梅干し漬けの時にも参加していた釜ヶ崎の飄々としたお爺さんと私の5名が援農組。農園側は、農園主とその娘さん、カワノさんの3名。合計8名でニンニクとレタス用の畝作りと植え付け。



ラクターを運転しているのが農園主。75歳だが実に矍鑠としている。だがこのような畑や田んぼを沢山抱え、やはり後継者の問題で悩んでいる。カワノさんや援農組がいなければとってもやっていけない。黒いシートを持っているのがチェ牧師。遠くにいるのが農園主の娘さん。作業を間違えたりするとちょっとコワい。





ニンニク用の畝。この穴にニンニクをひとかけずつ埋め込んでいく。埋め込むときにニンニクの上下を間違ってはいけない。向こうは植え付けが終わったばかりの白菜。





チェ牧師が韓国から運んできたニンニク。日本のものと品種が違うのか、見かけは悪いが、栗のように美味しく、長持ちがする。





レタス。ニンニク用の畝には最初から穴のあいたシートを使ったが、こちらはカワノさんが寸法を測りながら専用の器具を使ってひとつずつあけていった。シートは雑草の繁茂を防ぐため。白菜の畝にシートがかけられていない理由は、私は知らない。もしかしたら白菜には耐寒性があるが、他の作物は保温の必要性もあるからなのかもしれない。今度聞いてみよう。





柿の木さぁん。色づき始めた柿ですよぉ。自然落果する実を受け止めるシートが敷かれている。





誰だ? ひとり黙々と作業をして感心な人もいるものだ。





辛うじて何輪か、鮮やかさを残していた。





収穫、ではなくて収獲の秋。





奇跡の水。




あの苗が奇跡の水によってこんな稲穂に変わった。





今日のYoutube
Joe Strummer    「Minstrel Boy」

リドリー・スコットの『ブラック・ホーク・ダウン』のラストシーンに流される。聴いたことがあるような、ないような、実に懐かしい感じがして気になって仕方がなかった。最初、この映画の音楽を担当したハンス・ツィマーの作曲かと思っていた。ところが調べてみると他の映画(『王になろうとした男』でショーン・コネリーが吊り橋から身を投げる直前でこの歌を歌っていた)でも使われている有名なアイルランド民謡だった。




Denez Prigent & Lisa Gerrard   「Gortoz a ran - J'attends (『私は待っている』というような意味)」(『Black Hawk Down』のメイン・テーマ)

この映画のメイン・テーマもフランスのブルターニュ地方のDenez Prigentという歌手が作曲し、詩もケルト語のブルトンで書かれていた既製の曲だった。リドリー・スコットがこの曲を使うよう指示したのだという。なぜアフリカのソマリアを舞台にしたアメリカ映画にケルト・ミュージックなのか不思議だが、深い静けさを感じさせるその曲調が、戦争の愚かしさと、厭戦的気分を見事に表現していると思う。