こうして街はできてゆく(2)

先日も触れたように、大阪の市街は、南北に走る10本ほどの主要道路(筋と呼ばれている)と、それを東西に横切る同じような数の主要道路(通りと呼ばれている)によって形成されている。人によって印象は異なるのかもしれないが、大半の大阪市民は南北の軸性の方が断然強いと感じているだろう。そしてその南北軸の中心をなしているのが、6車線からなる御堂筋であり、当然、元来は片側3車線ずつの両方向道路であった。ところが市街中心地で慢性化していた交通渋滞を緩和するため、1970年、御堂筋は南に下る一方通行路に変更された。今から考えると、これはそれまでの都市行政の常軌を逸するほどの大決断であったと思う。御堂筋は大阪という都市を代表するいわば顔のようなメイン・ストリートであり、名だたる大企業ばかりがここにオフィスを構え、その正装した表情を競い合っているような大通りであった。ところがそれを一方通行化するということは、折角の御堂筋に建ち並んでいたそれらビル群にとって、日に何万台もその前を通過する車輌に対して、一方向にしかその表情を見せることができなくなってしまうということであった。そのことによって人々の意識の中に蓄積される大阪の都市イメージ、及び、とりわけここに本社を構える企業にとって、これは少なからぬ影響があったのではないかと私は考えている。失礼な臆断かもしれないが、この決定を下した当時の交通行政担当官たちは、到底そんなところにまで思いは至らなかったのではないか。
当然、大動脈であった御堂筋が一方通行化されたことによって、その両側に位置する南北軸、つまり堺筋四ツ橋筋も、それまで御堂筋が担ってきた北側への流れを受け入れるべく、両方とも北向き一方通行路に変更された。もちろんこの3本の道路だけではないが、それぞれの南北軸間の行き来を臨機応変に対処させるため、東西を横切るメインの道路群はどれも両方通行路のまま残された。これは正しい判断であったと私は思う。単なる交通行政的側面からいえば、こうした主要南北道路の一方通行化は、結果的には大成功を収めたといってよい。





アメリカ村


きのう、さびれた木場でしかなかった場所にできたオシャレな喫茶店やイタリアン・レストランから、この都市物語はその起源を辿り始めた。そしてその物語は最終的にはこの写真が焦点を合わせたスポットに行き着く。現在、アメリカ村という名で呼ばれている界隈の、文字通りその賑わいの中心的な場所としてだけでなく、この都市物語のまぎれもない起源となった場所である。ミルチャ・エリアーデいうところのヒエロファニー、もしくはエピファニーにも相当するような、いわば都市誕生にまつわる神話的な場所である。
35年ほど前、初めてこのあたりに私が足を踏み入れたとき、現在のこの光景からは想像すらできないような、きのうの木場にも劣るうらぶれた雰囲気の場所であった。随分昔のことなのではっきりした記憶ではないが、質素で古びた事務所ビルや倉庫などが建ち並び、商店といえるようなものもあまりなかったように思う。ところがそのような地味な光景の中に一軒だけ、異彩を放つ建物が目についた。エルパソという名の、そしてまさにその名の通りの、西部劇に出てくる酒場をそっくり再現したようなデザインの喫茶店だった。現在の状況からすればほんのささやかなものであったとしても、当時のあの沈み込んだような都市空間の中で、それはまぎれもない異物として存在していた。
だが厳密に、悉皆的に分析していけば明らかになると思う(むろんそんなことは不可能である)が、そのささやかな一個の異物は、結果的にはこの大阪という都市にとって凄まじいまでの異化作用を発揮することになった。
だがおそらくそこには、上述の御堂筋を中心とした交通システムの画期的な変化も確実に絡んでいた。別段主要道路というような大きな道ではなかったけれど、そのエルパソの脇を通る道は、御堂筋と四ツ橋筋を行き来する車輌にとっては極めて好都合で使い勝手のいい道であった。この地区を横切る車輌が急増したことによって、このあたりは突然活性化され始めた。そしてその活性化に決定的な方向性を与えたのが、エルパソの持つメージであった。次々と開店していく新しい店舗は、業種を問わず軒並みエルパソの放っていたアメリカ的イメージに倣っていったのである。
こうしていつしかこの界隈に、アメリカ村という通称が与えられることになった。容易に伝達可能なイメージを喚起する名称を与えられたということは、この地区が、いわば起爆性というものを与えられたというに等しい。折しも高度経済成長の後押しを受け、瞬く間に起爆性は臨界値を越え、アメリカ村は爆発的な拡大を始めた。





アメリカ村に集う若者たちの休憩場所、三角公園。その公園越しに、エルパソのあった地点を臨む。エルパソ自体は、とっくにその役目を終えていた2000年に、焼失した。





この公園では若者たちがいろんなパフォーマンスを競い合っていたはずだが、この写真を撮ったときはそんな気配さえなかった。状況が変わったのか、それとも何らかの規制がかけられたのだろうか。
ある大学で設計を教えていたとき、この三角公園をもっと有効化するような建築の企画と設計をせよという課題を出したことがある。意外なことに、こういう場所に出入りする習慣などをあまり持たない地味な優等生ばかりの大学であったからか、この場所について知らない学生も多くいた。だがやはりこれだけヴィヴィッドな空間であったため、提出された案には非常に興味深いものが多くあった。因みに現在のこの公園の設計者は、事情に通じている人はビックリするだろうが、渡辺豊和。






辺り一帯がこのようなイメージ(と音)の飽和状態になっていて、そこから溢れた出た勢力が、行き場を求めて四ツ橋筋を越え、立花通り商店街に活路を見いだした。そしてその商店街一帯を席巻した挙げ句、その勢いが、ついになにわ筋を越え、現在のところ、きのうの喫茶店やイタリアン・レストランにまで届いたという訳だ。





以上の経過はすべて民間の力による自然発生的なものであったが、この大きな建物(ビッグ・ステップ)が、私の知る限り唯一役所が絡んでできた施設である。それもその筈、元は、都心の過疎化や統廃合によって廃校になっていた中学校の敷地であった。場合によっては保存運動も起こってもよさそうなほどにノスタルジックなデザインの校舎だった。





すべてこの界隈はアメリカであるというのは、さすがの外山恒一氏の超前衛的な発言をも、はるかに早く先取りしていた。





以上のストーリーは、多少の事実誤認を含んでいるかもしれないとしても、自分の書いてきたことには相当の確度があると私は思っている。だがこの心斎橋筋の写真が表していることについては、まだ私の及び知らぬ要因も作用しているのではないかという気もしている。つまり、アメリカ村に発するイメージとコマーシャリズムの都市的パワーは、西側の四ツ橋筋を越えて行っただけでなく、なんと東側の御堂筋をも越え、最もオーソドックスかつオーセンティックであったこの心斎橋筋商店街にも侵出してきたかのように見える。だがここには、それだけではない、何か現在の日本全体を覆っているまだ私には掴み切れていない要因も確かに作用しているのではないか、そんな気もしてならないのだ。





多くの由緒ある名の通った老舗が撤退していったにもかかわらず、心斎橋筋は、かつてよりも人通りは増え、外人観光客は目立ち、行き交う人々の平均年齢もぐんと若返った。だがこのような現象は、大阪という都市にとって、必ずしも喜ばしいことばかりであるとは私には思えない。





かつて31メートル(百尺)の高さできれいに揃っていた御堂筋のスカイラインも、もはや崩れ放題となった。これは、上の心斎橋筋アメリカ村化的現象と、きっと必ずどこかで繋がっているだろう。




もしかすれば、この国全体を覆うある種の規範意識の崩壊、といって悪ければ、そのパラダイムの変換時期であるということの表徴であるのかもしれない。




今日のYouTube
Marty Robbins  「 El Paso」