天下茶屋から南海電車に乗って難波に着いた

現在、大阪という都市は、首都たる東京という都市のもつ権力によってその特性を方向付けられ、強調され、そしてますます加速されているという傾向にある。私が大阪に生まれ、東京対大阪といった常に傾いた構図の中でずっと暮らしてきたから、しかもいまやそんな構図を持ち出すことさえ馬鹿馬鹿しいほどに大阪は東京に水をあけられた、だからその腹いせにそんなことをいっている、のではない。おそらくこれは大阪だけのことではない。そして日本だけのことでもないだろう。だからこう言い換えることもできる。世界中のほとんどの都市は、その国の首都のもつ権力によってその特性を方向付けられ、強調され、そしてますます加速されているという傾向にある。だが、特に確たる根拠がある訳ではないが、日本以上にこの傾向が進んでいる国もないのではないか、なんとなくそう私は感じている。
かくして大阪は、東京の官に対して民が力を持つ、豊かで自由な気風の商業都市、ではとっくの昔になくなった。もはや東の東京に対する西の大阪などという大それた都市ではなくなり、単なるひとつの大きな地方都市、そしてお笑いとたこ焼きというものによってその特性を代表される都市となり果てた。嘆かわしくも滑稽なのは、そしてこの仕組みが巧妙なのは、大阪の市民自体が、いつの間にか知らずのうちに自分たちの都市をそのように自ら思い込み、率先してそのような役割を演じ、しかもますます積極的に、誇りをもってすら演じようとしているということだ。もちろんお笑いもたこ焼きも首都としての風格には必要のないものであり、というよりむしろ品格を損なう邪魔なものであり、したがって都合のいいときにだけ都合のいい分だけ貪ることができるよう、都合のいい場所に配されたにすぎない。
一方、先週私が訪れてその美徳に感心させられた金沢も、首都との関係という構図に関する限り、大阪と何ら変わるところはない。伝統的な家並み、みやびな庭園、加賀百万石という由緒、こうした金沢のもつ表面的な特性を、首都は、そのままこの都市の果たすべき役として割り振った。他の陳腐であったりひどいとしかいいようのない役割を与えられた諸都市に較べれば断然幸運なことであったとはいえ、その役割だけを演じさせられることに窮屈で不自然な思いを抱いている金沢市民だっていない訳ではないだろう。
歴史と伝統文化という点で圧倒的に勝ち目がなく、しかも今は東京に天皇をお貸ししているだけだというような認識が市民の意識の底に根強く残る京都に対してだけは、東京も、公然とした上からの指令というものを投げかけることはできなかった。という風にずっと思われてきた。第一、東京都民自体にそうした認識を持つ者も少なくないだろう。にもかかわらず、京都も、もちろん金沢よりは格上であるかもしれないとしても、本質的には異なるところのない、いわゆる小京都というキャラクターを与えられた都市群の頂点に位置する一地方都市にすぎなくなった。そうしたキャラクターは、都市の風格という点では望ましいものであったとしても、首都としての効率を悪くするだけだから、東京はそれを諸都市に割り振ってきたまでのことだ。
大阪や京都、金沢など、通俗、高尚にかかわらず文化的な役割だけを与えられてきた諸都市はまだしも幸運であったというべきだろう。原発や米軍基地といった即物的、日常的恐怖や実害を割り振られてきた都市の住民たち、そしてその痛みを共有できるすべての者たちは、この構図をいち早く見抜き、だからこそ皇居のそばに原発を、米軍基地を首都に移転せよ、と叫んできたのであった。
とはいえ、その責を、東京という都市に住む人たちだけにすべて負わせようとしているのではもちろん私はないつもりだ。つまるところ、そういう構図を、首都のなすがままに成立させてきたのは、あるいは自動機械が作動するかのように放置してきたのは、他ならぬこの国のすべての都市のすべての住民であったのだ。


天下茶屋
迂闊であった。こんな場所があったのだ。しかも上に述べた構図を真っ先に体現していたはずの大阪に。
自分の勤務する会社がこの場所にあると告げると、みんなからいかにも蔑んだような顔をされるので絶対に黙っているとかつて私の姪はいっていた。ただでさえ、芦屋や宝塚といったブランド・シティを多く抱える阪急電鉄とは対極的な、釜ヶ崎玉出、岸和田といったお世辞にもセンスがいいとはいえない場所ばかりを通過する南海電鉄の沿線にあり、そして何よりテンガチャヤというどうしようもないこの響きに、この街はうちひしがれながら、それでもなお健気に生きる典型的な下町。というような先入観を私もずっと持っていた。10年ほど前に鬱病から自死を遂げたといわれる桂枝雀も、いつか、『長崎から船に乗って神戸に着いた』という五木ひろしの歌をもじって、『天下茶屋から南海電車に乗って難波に着いた』と自嘲気味に喋っていた。だが今日、私はそのような先入観を見事に打ち砕かれた。




駅の東側の広場。私が抱いていた先入観は、天下茶屋など所詮こんなものだろうとまだ健在であった。





そしてこの光景も、あまりにも予定調和的であった。





これも然り。シャッターも目立ち始めていた。
ところがよく観察すると、目立ち始めていたのではなかった。逆に、閉じられていたシャッターが次々と開かれ始めていたのだった。撤退してしまった商店の跡地に、それまでの商店街にはあり得なかったような施設、たとえば集合住宅や診療所などが割り込み始めていた。そういえばいかにも下町然とした上の商店街にも、一見場違いと思えるような洒落た新しい店舗などが目立っていた。





駅の西側に出ると、不審な思いは確信に変わった。おそらくこの天下茶屋という街は、今、まさによみがえりつつあり、なおかつ新しいイメージまで獲得しつつある、そういう思いに変わった。だがそれは、地下鉄堺筋線がこの街まで延伸され、しかもそこに阪急電鉄までが相互乗り入れし、かつては素通りしていた南海電鉄自体の特急や急行などすべての車輌もこの駅に停車するようになっていた、そんな条件が必須のものであったことも確かなことだろう。とはいえ、そうした条件を引き寄せる底力のようなものをこの街がもっていたというのも、それ以上に確かなことであっただろう。






ここは東京の自由が丘なのかと見紛うようなインドア・テニススクールなどまでができていた。





だめ押しはこの大阪フィルハーモニーの練習場と小コンサートホール、そしてその背後に聳える慎ましやかでありながらも斬新な西成区役所であった。それにしても日本で最も独自の個性と実力を誇った、あの朝比奈隆の大阪フィルハーモニーが何と天下茶屋に。





そうはいっても、やはり天下茶屋固有の下町という矜恃(まさに)も捨ててしまった訳ではない。典型的大阪下町的カラーの爆発的光景。





このような店以外にも、たこ焼きという食べ物を発祥させたと謳うもこの街にあり、上のアーケード街には大阪特有の昆布専門店なんかも健在していた。わざわざ天下茶屋の、という言葉を冠した鮨屋まであった。





国道26号線に居並ぶ西成区役所と消防署。





消防署前から北を見る。




今日のYouTube
Helen Merrill   「You'd Be So Nice To Come Home To」
本文とはおそらく何の関係ありません。

かつてこの曲は「帰ってくれてうれしいわ」という邦題がつけられていた。しみじみとしたノスタルジーを私は感じずにはいられない。