カラオケとフェルメール

天王寺公園
さまざまに複雑な思いが交錯する、私にとって取り上げるのがとても悩ましい場所だ。
大学生になって通学のため大阪市を縦断するような生活をし始めてから、何度かこの公園内を歩いてみる機会があった。大声でガマの油売りの口上を述べる者や、インチキな手品師などがいた。あの頃、そんなもので生活の糧を得ることはまだできていたのだ。さすがに都市公園というような字面から想像されるものからはほど遠かったけれども、それでものんびりと牧歌的な風情も確かに残っていた。
ところがその後、特に大阪万博以降、何度となく繰り返されてきた日本経済の浮き沈みの余波が、大阪に限っていえば、特にこの地区に吹きだまりのように集中するようになっていった。釜ヶ崎、新世界、飛田新地はいわずもがな、天王寺公園も、よい子たちは決して近づいてはならないような場所になっていた。
いつしか天王寺公園は、釜ヶ崎の路傍の延長のような様相を呈し始めていた。他の場所でなら廃品にしかならないようなものを並べて売る者、朝からカップ酒を飲む者たちが、公園の主な使用者になっていた。場所柄、そして経済的、社会的諸事情からも、これは仕方のないことだろうとまだ鷹揚な気持ちで私はその光景を眺めることができていた。
ところがあるとき、久しぶりにこの場所を訪れて、私は慄然とした。見てはならないもの、二度と目にしたくないもの、この自分が生活している都市、地方、国、いやこの世にさえあってはいけないと私が思うような種類のものを私は目撃した。
当時、日本の都市文化の狂騒ぶりに関心を抱いてイギリスからやってきていた男と私は親しくなっていて、彼がこの日本で受ける驚きが、ことごとく私の驚きにもなっていた。たとえば磨き上げられたエスカレーターや、あり得ない滑らかさで作動するエレベーター。あるいは音もなく疾走する新幹線。そして地面の下に広がる壮大、絢爛、豪華な商店街、等々。そうした公の空間での驚くべき贅沢と、それらを利用する大半の人たちの、これまた驚くべき貧しさの個人的生活空間。英国では予想もしなかったことどもに彼は驚き、その驚きが、そんな見方があったのかと私をも驚かせた。だが、多くの日本人がカラオケというものに熱を上げているという彼の驚きは、私の驚きにはならなかった。私自身がとっくにあのブーム(といっていいのかな?)に呆れ果てていたからだ。プロでもない人たちが人前で歌を歌う、それもプロの歌手を真似て可能な限りそれらしく歌う、その気持ちが私にはまったく理解できなかった。なによりカラオケなるもので最も多く歌われているであろう演歌というジャンルの表現する世界観、手っ取り早くいえばあのじめじめとしてこれ以上なりようがないほどにステレオタイプ化した歌詞群に、私はひどく嫌悪感を抱いていた(もちろん例外的に好きな演歌もいくつかはあることを告白しておく)。そもそも出自不分明な(でもないけれど)このカラオケという言葉すら、当時の私はなんだかひどくいかがわしい気がして発することもできなかった。
そんな私にとって理解不能どころか俄かには信じがたい、途轍もない光景が、目の前で、あたりに轟き渡るような大音量で、それらしい扮装まで用意して、身振り手振りどころか道巾狭しと踊りまわりながら、拍手喝采する人たちをまわりに侍らせて、白昼堂々、この場所で繰り広げられていた。さすがにこのことだけは、この極東の国がいかに驚くべき事態に陥っているかということを欧州に向けて発信し続けていたかの英国人には、極秘にしておかないではいられなかった。



見違えるように整備されたかつてのカラオケ屋台通り。この蛇行した道に20メートルおきぐらいに屋台が並び、その大音量はお互いを妨害しあっているとしか私には思えなかった。担当為政者の憤懣も、5回ぐらいとどめの一撃を加えようとでもしたかのように、跡形どころかあの忌々しい記憶さえ消し去ろうとしたかったかのようだ。私にはそのように思える。
それにしても、あの饗宴(というより狂宴としか私にはいいようがなかった)にうち興じていた人たちは、いったいどのような履歴を経て、どのような種類の経験を経て、どのような鬱憤をもって、どのような捌け口を求めて、あのような行為に及ぶようになっていたのだろう。





2003年、撤去反対運動なども巻き起こしながら、行政代執行法に基づいて市により強制的に撤去された。このときばかりは、体を張って抵抗する人たちに、私はどうしても同調する気持ちにはなれなかった。だからといって暴力的に排除しようとする市側に同調していたという訳でもないが。





夜間にはホームレスの人たちの野宿場所と化していた公園の方は、いち早く1987年に有料化(大人150円。中学生以下と大阪市内に居住する65歳以上の老人は無料)され、夜間も閉園されるようになった。





おそらくポリカーボネートという防弾楯にも使用されている強靱なプラスチック製のフェンスで外周が取り囲まれた。中は閑散としている。有料化と塀で取り囲むことによってホームレスの人たちを閉め出すというこの措置を公然と認知させるべく、同年に大阪市は、天王寺博覧会という、私もいま初めて知った催しものを開いていた。私の知る限り、大阪市は3度、同様の手口を使っている。靱(うつぼ)公園からは世界ばら会議で(ほとんどの大阪市民はそんなものが行われていたことを知らなかっただろう)、長居公園からは2007年の世界陸上によって。





この建築主には申し訳ないけれども、建築の専門的な見方からすれば(何もそんなエラそうないい方をしなくても)、これは、実にカラオケ屋台に匹敵するようなシロモノだ。だけど為政者は何も分らず、何の手も打とうとしない。





大阪市立美術館。1936年、住友家本邸のあった場所に建てられた。設備も老朽化し、長い間市民からは忘れられたような存在であったが、2000年、何度かの改装を経て、驚天動地の展覧会が開かれた。まだこの頃はすぐそばでカラオケ屋台が大音響を轟かせていたにもかかわらず、また釜ヶ崎飛田新地、新世界などといった名にし負う都市的悪場所が直近にあるにもかかわらず、つまりその画家の展覧会を開くには間違いなく世界中でもダントツで不似合いな美術館であったろうにもかかわらず、なんと5点も彼の絵が見られるという、世界中のファンが涎を垂らすようなフェルメール展が開かれた。いろんな意味で本当に奇跡のような展覧会であった。
きのう、この写真を撮ったあと、常設展をやっていた館内に久しぶりに入った(大人300円。他の施設と同じく中学生以下と市内在住の65歳以上は無料)。東アジアの仏教美術、陶磁器などが展示されていた。静かでひんやりとして、とてもいい時間が過ごせた。外人観光客らしい人たちもちらほら見かけた。若い母親が8歳くらいの女の子とひそひそと会話しながら見学していた。特に老人や子供にとっては滅多にないような得難い施設なのに、どうして大阪市はもっと市民に衆知させようとしないのだろう。見学者はまばらだったが、なんと2度、そばにいる人から話しかけられた。美術館であんな経験をするのは初めてだった。ひとりは若い男性で、木彫の仏像を見ながら、素晴らしいですね、と感嘆しながらそばにいた私に同意を求めた。もうひとりは老人で、二枚並んだ大型の涅槃図がそっくりなのに驚いて、これ同じ絵ぇやねぇと私にいい、一枚は南北朝、一枚は室町時代とあったので、その前後関係を尋ねられた。








今日のYouTube
北原ミレイ  「石狩晩夏」(例外的に私の好きな演歌)