ミナミ逍遙


大阪で一番うまい光景。というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、食欲がなくなって何も食べる気がしなくなると私はこの店に来る。カレーについては各自いろんな蘊蓄や好みはあるだろうが、私は文句なしにここ。という人はおそらく大阪中に無数にいるはずだ。私の知る限り、大阪市内に7店舗、芦屋市に1店舗、東京に1店舗あり、その本拠地がここ。たぶんここが一番狭い。だがおそらく一番マニアの集まる店でもあり、注文の仕方からしてすでに他の店舗とは随分違っている。ダブダブなどと頼む人も。ライスとルーの両方をダブルでということだ。オプションに玉子があり、普通に頼めばライスに黄身だけを乗せてくれるが、全卵でという人や、甘酢漬けキャベツのピクルスをダブルでと頼む人も。量については大というオプションの方が一般的だが、ルー、ライス、ピクルス、玉子について、あらゆる組み合わせの注文に応じてくれる。ここのカレーにはヤクが入っていて、だから中毒になってしまうのだなどという者までいる。作り方を知っているのはひとりだけで、毎日六甲山の山中で極秘で作られ、それが各店舗に配送されているのだという伝説までまことしやかに語られている。いや、それがまことなのかもしれない。マニアにいわせると、店舗によって微妙な味の違いがあり、客の回転のゆっくりした店舗ほどルーが熟成されているのだとのこと。




木の葉は木の葉の中に隠せ。確かシャーロック・ホームズの言葉のはずだ。看板の中に隠された看板たち。




他の都市の住民に較べて、圧倒的にそういうことには馴らされているはずなのに、大阪市民であることがあそこまで恥ずかしいことであったかとあらためて思い知らされた。みんな正気なのか? 催眠術にかけられているのか? もしかして決められた台本通りに演技させられているのか? あの耐え難い日々を、こうした疑問の中で私は過ごさざるを得なかった。ある食堂が閉店するにあたり、看板となっていた人形を巡る大騒ぎ。思い出したくもない。
黄色から赤にかけての彩色の洪水。それに緑、白、黒(中には紫も)が加わる。これが神戸に行くと黄色という要素が激減する。したがって赤、青、白、黒の組み合わせが神戸のカラー。ただしこれは私の学生の頃の印象。最近の神戸はどうかあまり知らない。




いまから5年前、東京の表参道に、おそらくその時点では間違いなく世界中で最もお洒落なと思われるブティックがオープンした。スイスのヘルツォーク&ド・ムーロンという二人組の建築家が設計した。北京オリンピックの鳥の巣と呼ばれるメイン・スタジアムも彼らの作。ちなみにこの写真は吉本新喜劇の本拠地、なんばグランド花月の筋向かいにあるパチンコ屋さん。詳しいことは忘れたが、表参道のブティックの1年後ぐらいにはできていたと思う。
そういえば、これだけでなく、1980年代、建築の世界から始まったとされるポスト・モダンという風潮で、最も最先端のデザインが最も早く採り入れられたのがパチンコ屋さんだった。




1972年5月13日にこの場所でそれは起こった。ここから歩いて10分ほどのところにある設計事務所で私はアルバイトをしていて、その日は徹夜をすることになっていた。夜食用の食料を買いに出ると、店のTVが、4人の死者が出たと臨時ニュースを流していた。これは凄いことだと私たちは現場に急いだ。ちぎれた脚が落ちてたで、という声が行き交う人々の中から聞こえた。群衆を制止しようとする警察のスピーカーが怒声を轟かせていた。結局、118名が死亡する大惨事となった。死亡した人の大半が、その建物の最上階のキャバレーで働く子持ちの中年女性であった。煙に巻かれ、窓から飛び降りようとしてアーケードや電線に引っかかって亡くなった人たちも多かった。
その千日デパートを設計したのが村野藤吾であった。1932年に歌舞伎座として彼が設計した建物を、1958年、彼自身が複合商業施設に改装した。同年、これも村野自身の設計による新歌舞伎座が御堂筋南端に竣工したからである。そしてその新歌舞伎座も、いまは取り壊されるかもしれない運命にある。関西の天皇とまで称された村野の時代は、ミナミから確実に消え去ろうとしている。(この現在の建物は無関係です。)




いうまでもなくこの写真は中央の白い建物を写そうとしたもの。もともとはやはり村野藤吾が設計した白いプランタン(と私たちは呼んでいた)。戎橋筋から少し横丁に入ったところにある。白いプランタンと呼ぶからには、白くないプランタンも当然あり、それは心斎橋筋の大丸百貨店の少し南にあった心斎橋プランタン。どちらも喫茶店といういわば俗な建物ながら、しかも極めて小品ながら、日本の近代建築史に欠かすべからざる堂々たる作品であった。心斎橋プランタンも、かつて軒を連ねていた名うての老舗が次々と心斎橋筋から撤退していくという流れに逆らえず、03年に閉店し、跡形もなく改築された。この白いプランタンも、ここまで無惨な姿を晒されるのならば、いっそのこと壊してくれた方が私には有難い。余談だが、いつか、ある東京の有名女性建築家が大阪に来て会う用があり、彼女は、ぜひ心斎橋プランタンでと指定してきた。




やはり村野藤吾設計のなんばグランド花月。1987年にこの場所に移転されるまでは別の場所にあった。建築はそちらの方が断然凄かった。建てられた当時、おそらく世界の最前衛を行くような建物だったはずだ。




今日の目的はこれ。左官業を営む浪速組という会社の本社ビル。かつては石を投げれば村野に当たる(とは私の言葉)というほど、ミナミには村野の作品はそこら中にあった。だが代表作の一つ(いったい彼には代表作というのはいくつあるのだろう)の新歌舞伎座までが風前の灯火のような存在になる中で、もしかするとこれもかと危惧しながらやってきたのだが、竣工時と寸分変わらない姿で残っていた。



世界広しといえども、あるいは人類の長い歴史の中でも、皇室関係から吉本興業まで、修道院から喫茶店まで、これほど多岐、膨大にわたる作品群をものした建築家もいないだろう。だが真に彼が評価されるべきは、そうした量に関わる問題よりも、もちろん本人がどこまで本気に取り組んだかということの程度によってそれは大きく上下するものではあったが、絶対に他の者にはなし得ぬある独特の稀有な空間の質によってであった、というべきだ。







お口直し。




今日のYouTube
William Byrd 「Ave verum corpus」

きのうの問題の解答。屋根が、かつてタコヤキの容器として使われていた木の舟の形から採用された。