下寺町

先週の木曜日午後、金沢に向かった。ホテルにチェックインし、試験会場の下見をした後、市街を少し歩き回った。金沢は5年ぶりぐらいだったが、仰々しく荒んだ光景ばかり目の当たりにさせられる大阪とはまるで別種の都市だった。豊かでありながらもしっとりと落ち着いたその佇まいに、あらためて感心させられた。都市全体が深くぶあつい歴史にしっかりと支えられていて、のみならず、今後もその深さとぶあつさはさらに増し加えられていくであろう確たる気配に、嫉妬さえ覚えるほどだった。こういうことが都市の民度、しなやかさ、したたかさというものなのだろう。
どういう訳か、ここ数年、私が必要に迫られてその地を訪れなければならなくなったところには、必ず私の親しい友人が住んでいて、みんなとても私の力になってくれる。娘が東京で入院していたときは東京の友人や知人が、岡山では倉敷のハギワラ氏が、そしてこの金沢には私より10歳ほど歳下だけれど、もう30年以上の付き合いになるマツシマ君がいる。
出来たのか出来なかったのか自分でも分らない試験を終えたあと、彼は用意してくれていたコースへと私を案内してくれた。まず最初は、大阪ではいくらかかるかも分らないような、それでいていくら出しても絶対に食べることができないような、実に新鮮な魚介類ばかり出てくる寿司屋だった。何もつけずにと、漆塗りのカウンターにウニが盛られた。寿司はどれも小さなシャリに載せられていたので、これもそうだろうとつまむと、柔らかい手応えだけだった。しかも食べ慣れている(!?)ものとは明らかに色合いも風味もまるで異なっていた。これがあの噂のバフンウニというものなのだろう。
次は、50がらみの偏屈そうなオヤジが営む窮屈な飲み屋だった。ところがそこは世界中のマニアックな音楽へと通じている途方もない空間だった。60年代から70年代にかけて、私が夢中になって聴いていたプログレッシブ・ロックなどもすべて網羅していた。こちらがさすがにこれは知らないだろうとありったけの知識をひけらかしても、あ、ありますよと一つ残らず平然とDVDを持ち出してくるのだった。『ロック四十肩』という名の二人組のDVDも見せられた。スティック・ベースとキーボード(足で演奏する)を担当するリーダーらしき人物とドラムスの二人だけで、キング・クリムゾンばかりをコピーする金沢のアマチュア・バンドだった。目を閉じれば、紛れもないキング・クリムゾンがそこに鳴り響いていた。
最後はとてもゆったりと静かで落ち着いた空間の喫茶店だった。お茶を飲んでいると、ひとりの女性が現れた。マツシマ君はあれっ、何で?と驚いたが、すぐに自分が金沢で最も信頼している人だと私に紹介した。私のことを彼女にも時々話してくれていたらしく、女性は、娘の状態を尋ねてくれ、また私の昨年の紀行ブログにも少し目を通しているともいってくれた。いま死生学というものを研究しているところで、近々、その学問の発祥地、イギリスのエディンバラにフィールド・ワークに行く予定だともいった。マツシマ君が、私がある試験を受けるために金沢にやって来たことと、その動機を彼女に説明した。彼女は静かに微笑みながら、ウカリマスヨ、といってくれた。
私たちが先に店を出ようとすると、女性がわざわざそばに来て、私に向かって、不思議です、とまた静かな声でいった。何がですかと訊くと、今日、ここでお会いできたことが、とこたえた。
ホテルに送ってもらう途中、巫女のような感じのする人だったというと、彼女はセクシャル・カウンセラーという資格を持っていて、レイプされたような女性と正面から向き合い、その傷ついた精神から毒を吸い取るようなとてもきつい仕事をしているのだという。まさに巫女、というよりもいたこのような仕事だというと、彼女は青森県の恐山出身の人だとマツシマ君はいった。

夜中に目が覚めて、試験のことを思い出した。ここもあそこもというように、間違ったところがあまりにも多かったことに気付き、少しげんなりした。
ウカリマスヨ、と彼女がいってくれたのは、きっと私が受からなかったときのことを先取りして、予め私の精神から毒を抜き取ってくれようとしたのかもしれない。この前の試験のときは、負けっぷりのあまりの潔さに何の余韻も未練も残らずに済んだが、今度の試験も、それ以上にさっぱりと忘れることができそうだ。というよりもうすでにできてしまっている。

次の朝、金沢から直接名古屋の近郊にある病院に向かい、娘に面会した。やっぱり眠っていた。しばらくすると何度も大あくびをした。いつもこれの繰り返しだ。妻が車椅子に座った娘の顔を指さして、どう、顔がしっかりしてきたでしょ、周りの人たちもみんな可愛いといってわざわざ見にくるんよ、担当の先生があの大あくびが表情筋をずっと鍛え続けていたからだといっていたんよ、と嬉しそうにいった。
岡山の病院で親しくなった患者の家族が何組か、娘の様子を見学に来て、そのうちの3人が近々ここに転院してくることになったという。岡山の病院はリハビリが専門なので、積極的な治療を施すこの病院にみんな大きな期待を寄せている。

隣の市に住むマツイ夫妻に会って帰る予定をしていたが、疲れが溜まっていたので、また次の機会にと今回は電話の挨拶だけで済ませた。名古屋に戻る途中、ドウケ君に電話をし、名古屋駅近くの店で夕食を付き合ってもらった。20歳近くも歳の離れた双子の弟のようで、彼と会うといつも話が尽きなくなってしまう。いつも通り、現代の建築の惨憺たる状況を二人で慨嘆し、毒づいて鬱憤晴らしをし、近鉄特急で難波に帰ってきた。






下寺町

金沢ではない。大阪にもこういうところはある。しかも新世界にほど近いところ。こんな寺院ばかりの街並みが1キロぐらい続いている。




とはいえ菩提寺としての機能のみを果たしているような寺院ばかり。ほとんどが一般人は立ち入れないようになっている。別にここを観光資源に利用すればいいのになどと提案したい訳でもないが、この写真のように境内を墓石が埋め尽くしているような寺院ばかりでもないので、せっかくこれだけの歴史と文化を感じさせるものが揃っているのだから、もう少し有効活用すればいいのにとは思う。




源聖寺坂
大阪の市街地は平坦なところばかりだが、松屋町(マッチャマチと呼ぶ)筋から上町台地にかけてはかなりの傾斜地になっていて、こんな小粋な坂道だってある。








僅かな余地にはことごとく霊園や墓石の看板が立てられている。







台地上に上がると、大きな霊園が開発されていた。この辺りは夕陽丘と呼ばれ、地名の持つイメージがその土地の不動産的価値を高めるのに寄与している大阪では数少ない場所。




文教地区ともなっている夕陽丘からほんの少し北に上がると、もうこんな光景。かつては市内一、二ともいわれるようなラブホテル街が形成されていた。行政的指導によるものか、それぞれの商売的、倫理的価値観による勇気ある撤退なのかどちらかは分らないが、数は相当に減ったように思う。すぐそばには大阪という都市の発祥に関わるほど由緒深い生國魂(いくたま)神社もある。それにしてもラブホテル街と寺町の隣接。せめて地元民としては、エロスとタナトスといった難解な言葉によってよそ者をけむに巻けるぐらいの準備はしておきたいものだ。




都市計画とは、何もかもスケールを大きくしたり、効率よくしたりするということだけが能ではない。墓地を伴った寺院などというものは絶対に移設不可能なのだから、もしこの地を活性化するという課題を与えられたら、私ならためらうことなくこの道幅を半分ほどに縮小する。新しい境界にそれぞれ独自に築地塀を作るという条件だけをつけて、余った部分は両側の寺院に提供する。あとは放っておいても、どれだけ魅力的な通りが出来上がることだろうか。




一心寺
この寺町の惣領的な存在の寺院で、ほとんど唯一市民に開放されているお寺。住職は、かつて大学教授と設計事務所長を兼ねていたタカグチさん。もういまは住職に専念されているようだ。住職自らの手によって設計された伽藍。
ここでひとつ問題。この建物は、タコヤキというものがヒントになっているとタカグチさんから聞いたことがある。その理由を述べよ。(ヒント。坊主頭のタカグチさんがふくよかな丸顔だから、などという理由ではない。二十代後半ぐらい以上の年代の者にしか分らないかもしれない。建築とはアナロジーやメタファという高尚な方法論を多用するデザイン活動である、と余計に混乱するようなヒントを残して、答えは明日。)




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The Crimson Jazz Trio 「21st Century Schizoid Man」