失われた暑さを求めて

電気トンボ
小学生から中学生の頃、私の日常の行動圏の中に、仁徳、応神に次いで三番目の大きさの履中陵があった。あの頃、宮内庁も現在のようには厳重な整備も行わず、堺市に散在する古墳群の多くはいわば放置状態のようになっていた。堀を囲む堤は住民たちの散歩道にもなっていて、夏には堀で泳ぐ子供たちもいた。
仁徳陵は日常の行動圏から外れたところにあった。さすが履中陵とは違い、鉄条網か何かで包囲されていた。夏休みのある日、ある友達に、ニントクの内側まで入れるところを知っているからトンボ捕りに行こうと誘われた。その入り口の向こう側はひっそりと秘密めいていた。通路は三重になった堤の一番内側にまで通じていた。木々や草が鬱蒼と生い茂り、強い日射しと猛烈な蝉時雨の中、虹色に輝く真っ黒な電気トンボが水面のそばにとまっていた。あの真っ昼間、永遠に続くかのような静けさが、心に焼き付いた。


もっと暑苦しさを
言葉によってどこまで暑苦しさというものを表現できるか。村上龍芥川賞を取った直後、ある新聞に、そんなことを友人たちと競い合うことによってさらなる暑さを楽しもうとしたと書いていた。村上自身の出した“赤道直下の軍楽隊”、これが優勝したものであったらしい。だがちょっと直截すぎて私はあまり感心しなかった。それよりも別の友人の出した“コルトレーンのロングブーツ”、これには、うわあ、これはたまらんといった印象を受けた。


ヤケドする暑さ
まだ平和だった頃のイラクの建設現場で監督をしたことのある友人から聞いた話。日中の気温は摂氏50度にもなるという。乗ったバスのあまりの暑さに、窓を開けようとしたころ、まわりの乗客から一斉に止められた。体温より遙かに高温の熱風が入ってきて、ヤケドしそうになるからだ。宿舎のシャワーからは熱湯しか出てこず、それを冷ます手段がなくて浴びることもできなかった。それでも炎天下の工事は毎日進められた。出稼ぎに来ていた各国の職人の中で、やはり日本人と韓国人の仕事ぶりが群を抜いていた。一刻も早くノルマを果たし、その暑さから脱出しようとしたからだ。
その灼熱の暑さをさらに灼き尽くすような戦火が、彼の地でいまもずっと繰り広げられている。


失われた暑さを求めて
夏の夕方、泣きわめく我が子を背中に負いながら、西日の照りつけるカマドで薪を焚き、夕飯の支度をする。亡き母が、自身の体験から、考えられる最も暑苦しい情景を表現した言葉だ。母の口から聞いた、ユーモアというものを含んだ数少ない会話のひとつだった。




ピレネー北麓の緑たち

先日の葡萄畑。マティスの裸婦像。



ミントの群棲。




黒いハートのマークがついたクローバー。四つ葉もある。



葉の表面が蝋質で覆われ、露がきらきらしている。




茸の群棲。



厚みがあっていかにも食べられそうだが、分らない。



葉の表は濃緑色だが、裏は白っぽい灰色。落葉は紙が散らかっているようで見苦しかった。



おまけ。サランスの修道院の便所。JRの駅の便所と同じ方式だった。





今日のYouTube
John Coltrane Quartet  「My Favorite Things」