ベストとモスト

いよいよ5日の試験まで切羽詰まってきました。今日は昨年の10月6日の日記をほとんどそのまま再録することにします。ただし、後の日記で訂正することになる文章も含まれていますが、恥を晒すつもりでそのままにしておきます。若干の写真の入替えとタグを一つ追加しました。









オロロンに着いた日、街の入り口に相当するようなところに、ゴシック様式の立派な教会があった。なんと贅沢な身分になってしまったかと思うが、当たり前すぎて入ってみる気も起きなかった。後日、あらためて入ってみたが、予想どおりだった。ほとんどまともに写真も撮らなかった。

アストロラーブ・ホテルに落ち着き、しばらく休憩した後、街の散策に出かけた。9月25日の日記にも書いたように、今までのフランスの街や村と違って、何かとんでもないものに出会いそうな予感が漂っていた。


地図も見ず、訳も分からずに歩き回っているうちに、このロマネスクの教会堂に行き着いた。まだバスク的なるものに触れ始めたばかりで、その塔の異物性(写真1)にむしろ当惑を覚えたほどだった。まず型通り外部を一通り見て回った。重厚と端正と質朴と慈愛、これが外観から得られたイメージだった。普通なら重厚と端正で終わるところに、なぜ質朴と慈愛なのか。ロマネスクは、後に続くゴシックがあまりに華麗なものだったから、質朴というイメージは本来的に備わっているものと思われてきた。なのになぜことさらに質朴と、そのうえ慈愛まで、なのか。正面にまわってみると、なんと厳正に左右対称であるべきファサードの、左端が削り取られていた。たぶん何らかの外的条件があったのだろう。権力をかさにその条件を却下することなく、あるいは抵抗もせず、やすやすと最も重要な部分を差し出していた(写真2)。



(写真1)



(写真2)


ロマネスクの教会の、これが初めて本格的な大聖堂の中に足を踏み入れた瞬間だった。言葉が出ない。沈黙、静謐、厳粛、荘厳。どれも過剰すぎるし、不足すぎる。この空間を支えているのは、圧倒的に厚い石の壁に込められた往時の人々の神への篤い思いと、その思いを形に表そうとする揺るぎない意志。まわりに広がる自然の空間と同じであったはずのものが、こんなにも鮮やかに切り取られ、人の世の重み、信仰の固さ、神性の崇高を湛えたものに変えられる。建築という営みの深みをあらてめて思い知らされる。(写真3、4、5、6、7)



(写真3)



(写真4)



(写真5)



(写真6)



(写真7)







オロロン・サント・マリーというこの街の正式な名前が示す通り、サント・マリーはこの街を象徴する大聖堂だ。イザンベール邸から至近の距離にあった。まずその外観(写真8)の偉容に驚いた。パリ、オルレアンで見たゴシックの大聖堂の華麗、豪壮の印象からはほど遠い。なんという野暮ったい、しかし物怖じしないそのごつごつとした矜恃。横溢する独創。堂々たるイノセンス。どれもみな日本の現代建築からは根こそぎ消え去ってしまったものだ。


(写真8)


内部に入って、驚きは感嘆に変わった。暗い空間の奥にほの見える天上の花園のような光と色彩。だがさらに私は驚いた。教会という建築物で最も枢要な位置を占める内陣の講壇を、さらに通路と呼ぶしかないようなものが取り巻いている。光と色彩はそこから発していた。こんな形式の教会は初めてだった。内陣は会衆の居並ぶ床からは上のレベルに設けられているが、通路としかいいようのない空間は、会衆の椅子が居並ぶ床と同じレベル、同じ仕上げでつながっている。誰もがそこに行くことのできる空間が、内陣を取り巻いていた。

かつて、アメリカの神学大学を出たある牧師に、教会の中で一般の信者が立ち入ることを禁じられている場所はあるのかと尋ねたことがある。そんなものはないと彼は即答した。だが教会という空間に足を踏み入れたことがある者ならば、誰しも、空間の序列では内陣が最高位にあると認めざるを得ないだろう。一般の信者ならば、そこに上がることにきっと何らかのためらいを覚えるだろう。ところがこの聖堂では、誰もが講壇の裏側までも見ることができる。ほとんど涜神的な企てのように私には思えた。

これとよく似た形式の寺院が日本にもある。兵庫県小野市にある浄土寺浄土堂。日本の歴史的建造物の中のベスト・ワンに挙げる人もいる。この浄土堂の中に入って驚かない人は、生まれて初めて日本の寺院の中に入った人ぐらいのものだろう。およそ20メートル四方の内部は真っ平らで、内陣を支える4本の柱の内側に3体の仏像が安置されている。ただそれだけで他には何もない。したがってこの建物の中に入った者は、自分のいる床と同じ床にある仏像の、その周囲をすべて歩くことできるようになっている。だがこの建築が評価されているのは、その空間構成の独創だけではない。屋根を支えている力の流れが見事に視覚化されているという画期的な構造システムにもよる。奈良東大寺南大門の設計者でもある鎌倉時代の仏師、長源の作である。

サント・クロワ聖堂は、それぞれの個人を抑え、独創を抑え、神への共通した思いを持つ人たちの共通した熱意のたまものと感じさせた。だがサント・マリー聖堂のこの大胆窮まる構成は、間違いなく、想像力に溢れた一人の勇気ある人間の想念から生み出されたものだ。常識を容れず、旧弊化した規範を打ち破る。もしかすれば長源と同時代人なのかもしれない。鎌倉時代と、おそらく初期ゴシック。

それにしてもなんと秘めやかで、艶やかで、官能的なこの法悦の空間。二度目にこの教会を訪れたとき、最後列の椅子に腰かけて休んでいたところ、不意に頭上でパイプオルガンが鳴り出した。おそらく見学に来ていた団体への心ざしようなものだったのだろう。極めてゆったりとした厳かな重低音でそれは始まり、耳慣れない、しかしどこか懐かしさを感じさせるような旋律を奏で始めた。私の知る範囲内にある聖歌ではなかった。もしかするとバスク特有の聖歌だったのかもしれない(そんなものがあるとして)。(写真9、10、11、12、13、14)



(写真9)



(写真10)講壇の真後ろから会衆の方を見る。



(写真11)



(写真12)



(写真13)



(写真14)








イザンベール氏に、この街へ来て、素晴らしい二つの教会を見たと話した。ひとつはサント・クロワ・ロマネスク大聖堂。もう一つはサント・マリー・ゴシック大聖堂。サント・マリーは、今までに見たフランスの、世界中のどんな教会、どんな建築よりも素晴らしかった、私のなかのベストの建築になったと話した。サント・クロワは今までに見たフランスの、世界中の、どんな教会、どんな建築よりも好きな建築だ、私のなかのモストの建築になったと話した。



サント・マリーは、その彫刻やタンバン(入口扉上部の装飾)によってロマネスクに分類されているようだが、建築として見た場合、フライイング・バットレス、尖塔アーチ、ステンドグラスという典型的な特性を備えているので、私はゴシック建築として捉えた。いずれにしても過渡期の建築であることは間違いないだろう。




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CannedHeat(缶詰にされた熱、という洒落た名前)  「Going Up The Country」 (本文とは関係ありません。)