奇跡のイザンベール

たとえ最初からあらゆる情報を集め、チェックし、入念に準備していたとしても、何の情報も持たず準備もせず、いくつものあり得ない偶然の所産によって私が辿り着いたこのイザンベール邸で得ることになった体験を、決して越えることはなかっただろう。
このオロロン・サント・マリーという街に来る予定など立てていなかった。そもそもそんな名の街があることさえ知らなかった。
オルレアンのホテルに、フランス語とスペイン語メモリーカードの入った電子辞書を忘れてしまっていた。ホテルの主人はとても親切な人の良さそうな人物だったので、間違いなく保管してくれていただろう。だがそれを取りに戻るにはまた長距離をTGVに乗らなければならず、なんとなく憚られた。日本に連絡して新しいものを買ってもらい、それが届くまでこの街に滞在する方を私は選んだ。別にそうした方がいいという確とした根拠があったわけではない。でもそのために、安く、居心地がよく、気楽に過ごせる宿泊施設を探さなければならなかった。
イザンベール邸は、すべてにおいて完璧な条件を備えていた。イザンベール夫妻、しょっちゅうこの家に遊びに来ていた彼らの友人、ステファン。奇跡のような人たち。
なぜかオルレアンにいるときからルイス・ブニュエルの名が頭に浮かんで仕方がなかった。オルレアンはとても貴族的な街で、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』という映画を思い出していたからだ。『哀しみのトリスターナ』という題名もずっと頭の中でちらちらしていた。だからこのイザンベール邸に着いて、夜、日記を書こうとして、すぐに『奇跡のイザンベール』というタイトルが浮かんだ。3ヶ月、一日も欠かさずに書いた日記の中で、最も気に入ったタイトルになった。
余談だが、この後、ピレネーを越えてスペインの山中で滞在した小村に、ルイス・ブニュエルの名が付けられた小径があった。いま調べたらブニュエルの出身地、もしくはその近くの村のようだった。




巡礼者用の宿を示すホタテ貝。これ以外、何の表示もない、16世紀に建てられたバスクの民家だった。チャイムもインタフォンもない玄関に、鉄の輪のノックが取り付けられていた。2回、それを叩いた。2階の窓から男性が身を乗り出し、私を見つけて階下に降りてきてくれた。(再採用写真)



男性は満面に笑みを湛え、ピエールと名乗った。奇跡の始まりだった。



チェストの横、ドアの前にさり気なく立てられている2本のサーベルに、早くも私は刺し貫かれていた。ただごとではない空間だった。ただごとではない予感が漂っていた。(再採用写真)



セシルの台所。小振りの冷蔵庫、洗濯機、それぞれ大きさの異なるバーナー4基のガスレンジ。電気製品やガス器具と呼べそうなものは他にはなかった。



客用ダイニング。壁、古色蒼然たる壁紙、かけられた少女の古着、扉の色。カメラの背後の暖炉、古いラジオ、その上にさり気なくおかれた古書類。カップ、ソーサー。どれ一つとして、彼らの好みによって選ばれ、配置や角度が厳密に決められていないものはなかった。就中、床の傾斜はこの部屋の最重要事項だった。ビー玉をぶちまけると凄い勢いで向こうの壁にぶつかっていくだろう。この傾きがなければ、彼らにとってこの部屋の価値は半減してしまう。



この後、11日間にわたってこの夢のような部屋を私は独占した。(再採用写真)



よくぞ彼らの好みを邪魔しないこんな暖房器具があったものだ。



この照明器具を日本で見かけたら、おそらく一つの例外もなく、それは途方もない違和感をもたらす途方もない悪趣味なものとしか私は感じないだろう。だが、このイザンベール邸の居間では、こんなにもあちこちに気配りのきく私(!)だからこそ、それを見つけることができたのだ。



恐ろしくも美しい自転車。といいたいところだが、見るだに怖そうな自転車。仰向けになって足を伸ばして漕ぐ。オロロンでこの自転車に乗る人を2度見かけた。(再採用写真)


右からピエール、セシル、ステファン、彼らの若い友人オリヴィエ。(再採用写真)


イザンベール氏からとても古い本を一冊頂いた。1748年発刊のもので、第7巻となっていた。旧約聖書のエレミア書とエゼキエル書が印刷されていた。
私は自分の日常生活で、ドライバーやラジオペンチを頻繁に使う。それらを使わない日の方が少ないのではないか(ちょっと大袈裟)と思うほどで、だから念のためと思い、ごく小型のものをこの旅でも持参した。やはりなくてはならないものだった。持参したコンセントのアダプタをどこかに忘れてしまい、急きょ電気屋で部品を買って自作したり、牡蠣やウニを買ってきて食べたりしたときなど、どれほどいろんな局面で役立ってくれたことか。
私の滞在した部屋のシャワーの排水状態が悪く、使う度にすぐにパンが溢れそうになった。最後の夜、そのドライバーとラジオペンチを駆使してそれを修理した。せめてものイザンベール夫妻への恩返しであった。
それからもう一つ。彼らの居間に置いてあったぐちゃぐちゃになったままのルービック・キューブを、20年ぶりぐらいであったが、手が覚えていて、揃えてあげた。たまたま遊びに来ていた近所の男の子が、私を見て顔をひきつらせていた。




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