ピレネー北麓

勉強が一向に捗らない。
もしかすると走り高跳びでいうと5メートルぐらいの高さのバーを越えようとしているのかもしれない。それなら勉強するだけ無駄だと思い、妙に安心してもっとさぼってしまう。


ピレネー北麓は、3ヶ月にわたる旅でも、最も美しく、最も印象に残る地域の一つであった。何より、バスクという、世界で最も難しいといわれる言葉を話し、出自が分らないとされている謎めいた民族が住む地域で、実際、その民族的特性というものが明らかに建築のデザインにも表出されていて、とても興奮した。昨日も書いたが、自分はバスクだといっていたステファンという男性は、眼がライトブルー、瞳が真っ黒、髪も真っ黒で、やはり他のヨーロッパの人たちとは少し異なった容貌を持つように感じた。私が滞在したオロロン・サント・マリーという街よりもう少し西のピレネー北麓に、最も純粋なバスクの住む地域があるとステファンはいっていた。機会があればぜひ訪れてみたいと思っている。なにしろ、一時、バスク建築の魅力の虜になってしまっていたのだ。
そうしたら、昨日、ウニさんという人のところで、Cagotというピレネーに住む被差別不可触民の話が取り上げられていて(最も開明的な国の一つと私が思っていたフランスにも、そんな問題があったと知って少しショックだったが)、一瞬どきっとした。だがバスクの人たちはCagotという人たちとは関係はなさそうだ。もっとも関係があろうとなかろうと、そんなことは私にはまったく関係のない話ではあるが。また、中央アジアに出自を持ち、ヨーロッパ北方を経てイベリア半島北西部にまで移動してきたというケルト人の末裔が、この辺りにも住んでいて、おそらくその文化も混じり合い、興味は尽きない。




この辺りでこれが格別に美しい風景というわけではなく、ピレネー北麓はどこもかもこのような、人工の手が相当に入っているにもかかわらず、できるだけそれを感じさせないように工夫した、日本ではあり得ないような風景が広がっていた。



ピレネー名物大ナメクジ。頻繁に見かけた。



数メートル離れたところから見ると、この辺りでは木になっているのかと勘違いしてしまうほど、色も風合いも紫蘇の葉にそっくり。実際にさわって確かめてみたほどだ(固かった)。これが並木として植えられているところも多かった。濃紫(こむらさき)の並木道。言葉は美しいけれども、ちょっと異様な感じがしないでもなかった。



農家の倉庫の壁。このようなS字型の金具を両側の壁に取り付け、それを内側でタイロッド(ワイヤーのようなもの)で引っ張り、壁が膨らむのを防いでいる。



去年の日記でもこの写真は用いたが、あまりにも気に入った建物なので、再採用。あのハシモト氏がフチジに立候補する際に用いたので、もうこの言葉は一生使いたくないと思っていたが、この教会にはやはりこの言葉しかない。愚直。それがもたらすそこはかとないユーモア。それでいてなんとなくしたたか。オサレとは何もかも対偶の関係にあるようなデザイン。オロロン・サント・マリーに向かっていて、この教会でバスク的なるものに目覚め、イチコロにされてしまった。



この、奔放というか、自在というか、闊達というか、磊落というか、無邪気というか、その場しのぎというか、エエカゲンというか・・・



真摯、素朴なおかしみ。



私がさんざん悪戦苦闘させられたオロロンの郵便局。さすが官の建物だけあって、ちょっと畏まった威厳を目指そうとしている。ここで私はある犯罪を犯した。だけど悪気はなかったんだよう。



この街を代表する教会の鐘楼。四角錐に円錐をかぶせるなど、いったい、人類の歴史で、他の誰が発想し得たであろうか。




フランスから出る4つのルートが描かれている。左上から、トゥール、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルル。このどれでもないパリから私は出発し、さんざん苦労し、大恥をかいた。だがそれでなければ絶対にあり得なかった実に貴重な体験を多くした。結局私はアルル・ルートの途中から正式なコースに乗ることになった。


今日のYouTube
Mungo Jerry(マンゴ・ジェリー) 「IN THE SUMMER TIME」