悪の枢軸を行く

悪の枢軸とは何ごとかと思われるだろうが、そもそも、いつかは自分のような者でもこういうことを始めなければと、義憤に駆られていた二つの建物について書く。
実はこれもいわゆるディープサウスと称される場所ではないが、満を持して書く。(これからも満を持さないといけない事柄は山のようにあるけれども。)


まず、湊町リバープレイス

曰く、独自性を追求したニューランドマークにふさわしい存在感
曰く、斬新で奇抜な八角形のフォルムや道頓掘川遊歩道と一体化した「プラザ」はミナミの新しいランドマークにふさわしい雰囲気を醸し出しています。
曰く、なんばHatchなんばハッチ)は、本施設の中核施設となるライブハウス。名称は、建物の外観が八角形であることが由来
曰く、Hatchの由来は、帽子のような八角形の建物のかたち、英語のHatch(卵が孵化する)をかけあわせたもの。


何とでもほざくがよい。ここまで言葉というものを空疎に無駄遣いできるものかと、そのことにまず呆れてしまう。
大阪には、そのあまりのひどさに、市民がそろそろ一揆でも起こすべきではないかさえと思ってしまうほど醜悪な建物に満ち満ちている。昨年、何度目かのパリに行って、見る度に頭をかしげざるを得なかったモンマルトルのサクレ・クール寺院にちょっとだけ悪態をついてきた。あれで悪態をつかなければならないのだとしたら、私は死ぬまで、言葉の限りを尽くして、この大阪という都市に対して悪口雑言を吐き続けなければならない。いくらなんでもそれでは私の体も神経も持たないだろうから無理であるとして、それでもこれは許せない。
醜悪なのではない。いやもちろん十分以上に醜悪である。十二分以上に醜悪である。
だがまず何より、稚拙なのである。そして稚拙ゆえの十分以上、十二分以上の醜悪である。
20年ばかり、いくつかの大学で設計を教えてきた経験からいって、3年生の第二課題(年間4課題というのが一般的なカリキュラムだ)程度、それもはっきりいって並以下である。創造力も想像力もない学生は、それでも何か変わった(まさに斬新で奇抜な)ことをやろうとして往々にして持ち出してくるのがこの八角形や六角形だ。夏になれば必ず蚊が発生して人々を鬱陶しがらせるように、毎年、3年生の夏の時期の課題に必ず現れては私を鬱陶しがらせた。
そんなものが実際に、しかも私の生活圏のまっただ中に出現するとは、あまりに私も迂闊であった。油断しすぎていた。
なにもこの設計者を責めているわけではない。むしろ、こんな重責を背負わされ、むざむざ自分の才能の無さを終生人の目に晒し続けなければならくなったという彼(女?)の宿命に、同情したいくらいだ。
大阪市建設局が関わる半官半民の建物であると聞く。最低なのは、こんなものを実際に建てさせた役人たちの、建築というものに対するあまりの見識のなさである。こんなにもひどい都市景観的重罪を犯しているということについて、彼らが、そして大阪という都市の建築行政に関わる者たちが、自覚さえしていないであろうということである。救いようがない。



私の悪口のとばっちりを受けることになる人たちには申し訳ないが(タケヤマ君、ごめん)、実に目を背けたくなる光景だ。



道頓堀川を西へ少し下ってようやく落ち着いた景観になる。見えているライトブルーの橋は、宮本輝の『泥の河』の舞台となった幸橋(さいわいばし)。泥の河にライトブルー?



以前、このあたりは木場だった。桜川とも呼ばれ、かつては岸辺に桜並木でもあったのだろう。数年前までは川べりに丸太がいっぱい浮かべられていて、亀が何匹も甲羅干しをしていた。護岸から突き出た構造体がその名残り。



ガラス戸の中にいたタニ社長と偶然目が合い、製材所の写真を撮らせてもらった。もうこの地区で材木会社は3軒しか残っていないという。会社名から推察できるように元々は九州出身の家系なのだろうが、タニ社長ののほほんとした大阪弁は、大阪生まれの私が聞いてもいつも気分がゆるくなる。



もっと下ってそろそろ大正区。景観はさらに落ち着いたものとなる。
ところが振り向けばそこに!



どうだ!このぎらぎらとした見苦しさは!限りなく恥知らずな光景は!
と思わず自慢したくなってしまうではないか。



大阪ドーム(現在の名称は京セラドーム)。
私はその年代ではないが、ウルトラマン仮面ライダーなどというTV番組で、毎週毎週(かどうかも知らないが)、やっつけ仕事で作成されていた珍奇な怪獣を想わずにはいられない。
この設計者はわざわざあのような醜悪を意図したのだろうか。皮肉でいっているのではない。ずっと本当に疑問に思ってきたことなのだ。そうでなければあり得ないデザインだ、あり得ない醜悪さだ。
決して湊町リバープレイスのような稚拙で片付けられる類のものではない。相当に手練れの者が手がけたのだろう。そしてもしその人物の意図の通りに出来上がったのだとしたら、彼(女)はあまりにも大阪という都市を、といういうより都市そのものを、馬鹿にしすぎている。
しかも、ドーム球場は日本中にいくつもできたけれど、内部空間、つまり球場自体の空間は、私の知る限り、群を抜いてひどい。あの天井の錯雑さは尋常ではない。微妙なコントロールを武器とするピッチャー、集中力というものが不可欠のバッターにとって、本人たちは自覚していないかもしれないが、意識の深いところで相当いらいらさせられ、惑わされているであろうことは想像に難くない。私の最も好きなプロ野球人、野茂英雄がこの球場で投げることがなかったことが、私にとってせめてもの慰めである。野茂本人のまさに地元に建てられた球場であったというのは、なんとも不条理な悲劇ではあったけれども。


かつて、東京の自他共に認めるアメリカ帰りのオサレな建築家が、下町に設計した自分の建物を、下町の持つ猥雑な魅力に参加すべく自分の建物も猥雑風にしてみました、などと説明していたことがある。勘違いも甚だしいと、私は噛みついた。まわりの建物は、猥雑でありたいから猥雑なのではなく、経済的、社会的、いろんな的理由から猥雑にならざるを得なかったから猥雑になっただけで、あなたの建物にはそうした切羽詰まった息づかいというものがまるでない、単にワイザツなるものをあしらってみました的オサレの産物でしかないといって(もちろん最後の文節はいま考えました)、ウップン晴らしをしたことがある。

いずれにせよ、湊町リバープレイスとこの大阪ドームは、道頓堀川という由緒ある大阪の一角に、歴然たる悪の枢軸を形成してしまった。その軸線上にある素朴でいたいけな建築群が、両端の巨悪の挟み撃ちにならないことを祈るばかりである。



これは当て推量にしか過ぎないが、この水門管理所のような施設(大阪ドームより後にできた)は、ドームと同じ人物が30分くらいでデザインしたようなものではないだろうか。ドームと同質のいやらしさ、下品さを感じる。



なんとこのガスタンクのすがすがしい美しさ。一切の恣意というものが排除された、不作為の美の極致。
これを専門的にはアノニマス(無名的)な美というが、そこに入るとあまりにも長くなるのでそれはいずれまた。


今日のYouTube

Roy Orbison 「You got it」
本文とは関係ありません。