建築になったオヤブン

頭にバンダナを巻いたような人から、本人とよく似た、いかにも田舎のおじさんといったタイプの人まで、実に多くの人たちが列席していた。仰々しそうな感じの人はひとりもいなかった。あんなに多くの大人の男が涙を流している告別式は初めてだった。
無骨な岩石のような人だったけれど、死に顔はとてもきれいだった。
まさかオヤブンのことを表現するのに、きれいなどという言葉が出てくるとは思わなかった。


3年半前に脳腫瘍の手術を受け、退院直後に会ったとき、丸刈りの後頭部に四角い輪郭が残っていた。窓のようだった。


初めて奥さまにお会いした。
あの脳腫瘍は肺癌が転移したもので、その後も3度、頭蓋を開いて腫瘍撤去の手術を受けました。でも手術の度に体力が落ちていきました。
動きに少しきれがなくなっただけで、その後も私たちには普通にしてらっしゃって、そんなことは何も教えてくれませんでした。
そういうことは絶対に口にしない人でした。
岩石のような人でしたね。
そう、岩石のようでした。でもやはり癌には勝てませんでした。


やっぱり何度もあの窓を開いていたのだった。自分の肉体まで、建築に変えていたのだ。


もう20年以上も前、オヤブン行きつけのラーメン屋に連れて行ってもらったことがある。床がコテコテの油で真っ黒になっていて、異様な匂いも漂っていた。オヤブンは店のオヤジに両手の指を突き出した。人数分のラーメンと餃子が出てきた。無言で通じるほどオヤブンにはなじみの店だった。ところがギトギトで匂いもたまらず、私は麺を1本すすっただけで、箸を置いてしまった。
コイツはあのラーメン、麺一本しか喰えなかったんだがよー。
その後、会う度に、何度も非常に嬉しそうに話した。


この4月末、京都である集まりがあり、案内状が来た。会いたくない人も多く来そうだし、出席すれば朝まで引っ張り回されそうな気がしたので、当時、とてもそんな元気のなかった私は、欠席と返事を送った。
その後、ドウケヒロシからどうするのかと電話がかかってきて、出ないと答えた。
昨日、お通夜の後、オヤブンが、私に会えるなら自分も出るつもりだったといっていたとドウケから聞かされた。死期を悟っていたのか。ドウケもまさかこんなことになるとは思ってもいなかったらしい。
その後しばらくして、オヤブンは最後の入院をすることになった。


私の誤謬が死んだ。オヤブンの誤謬であった私は、まだ誤謬のままに生き残っている。




特別養護老人ホーム「愛知たいようの杜」



10年ほど前から建設が始まり、まだ継続中のようだ。



こういう施設は普通は耐水性のある床材を使うが、オヤブンは断固このムクの木の床にすることを主張したという。そのせいで、逆に粗相をする老人が減ったという。





内部はどこも、横町や裏町界隈といった雰囲気が横溢している。職員、老人を問わず、出会うほとんどの人たちがコンニチワという挨拶の言葉を投げかけてくれた。


飾り物でなく本物の温泉が出ている。




こんなもの、オヤブンのアイデアとしか考えられない。



便所。


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Gabriel Faure 「Pavane」