死につつある御堂筋

ディープサウス通信といいながら、今日はちょっと用があり、越境してミナミの南端部に出かけた。ので、今日はミナミ通信。
大阪で最もオーソドックスと言われてきた御堂筋の景観が、いま、あちこちでほころび始めている。
7月14日の「いきなり」というエントリーで、とにかく事件の多いところだと書き始めたが、都市景観という点においても、おそらく致命的となるにちがいない二つの大事件がいま御堂筋の南端部で発生しつつある。
というより、一つはすでに起こってしまった。
かつては友人として親しく交流のあった人物なので、厳しいことを書くのはちょっとためらいを感じなくもないが、それにしてもこれはひどすぎる。
高松伸自身が、この設計にどれほどコミットしたのか、私には知る由もないし、諸般の事情があって自分の意図が十分行き渡らなかったところもあるだろう。だがやはり最終的な責任は彼にある(と私は思っている)。
通俗的な都市景観に対する敵意や悪意というものが、かつての彼の設計行為を支えていて、それが見事に結実したのが、この建物の直近に建てられ(てい)たキリンプラザだった。
その研ぎ澄まされた都市的暴力美とでもいうものが、リドリー・スコットの目にとまり、『ブラックレイン』でも名誉ある重要な役を与えられていたのだった。あの映画で、松田優作が、美というものにまで昇華させていた暴力に匹敵するものが、キリンプラザには確かにあったのだ。
ところがこの建物には、とても同じ人物が関わったとは思えない、その片鱗さえ伺えない、切れ味などまったくなくなったナマクラしか残っていない。
キリンプラザの早すぎる解体が、そのすぐそばに位置するこの建物の設計にあたって、高松にどんな心理的ダメージを与えたのか。それとも何も与えなかったのか。高松自身の立ち直りを期するという意味で、前者であることを祈る。
とはいえ、あちこちで悲鳴を上げている御堂筋に、とどめの一撃に近いようなものをすでにこの建物は刺してしまった。その都市的意味における高松の責任はとても重い。

せめてものかつての友情の証しとして、写真だけはかっこよく撮ったつもりだ。



解体されつつあるキリンプラザ。



さて、もう一つの大事件である。これはまだ予断を許さない段階にあるらしい。村野藤吾の歴史的傑作である新歌舞伎座の移転と建て替え問題である。移転はすでに決定された。日本建築学会がこの建築の保存の要望書を所有者に提出しているらしい。だがもし解体されることになれば、御堂筋の都市景観はただひたすらなしくずしの死に向かっていくことになるだろう。
建てられてからちょうど50年、御堂筋の、ひいては大阪という都市の景観を、この建物はその最も枢要な位置で守り、育んできた。いつしか都市景観の地下水脈ともいうべきものまで形成し、その最も重要な水源にさえなっていた。その水源が涸れてしまったら、大阪という都市はいったいどうなってしまうのか。
しかも悪いことに、「インテリぶったクラシックよりお笑いが定着している」などとほざいて、地元の交響楽団への補助金を四分の一にまでカットした、まるで痴呆のごとき文化的見識しか持たない人物がこの地を治める行政の最高権力者になってしまった。大阪の都市文化は、あの人物によって息の根を止められることになるかもしれない。

連続する唐破風という途方もないモチーフなど、いったい村野藤吾以外の誰が思いついたであろう。風を切る鬼瓦というモチーフの辻晋堂の棟飾りも実に素晴らしい。少なくともこの国で、建築家と彫刻家の共同作業がこれほど見事に成功した例は他にない。

歌舞伎の上演されない歌舞伎座ではあったが、まったく見分けのつかない格好をした無数のおばちゃんたちが、毎夕、この建物の足許に突然雲霞のごとく大量発生するという現象ももう見られなくなる。それは、大阪で見られる最も私好みの都市景観的シュール・レアリスムであった。



今日のYouTube
Ray Charles 「That lucky old sun」
レイ・チャールズ最高の絶唱。最後の方は本当にむせび泣きながら歌っている。