岡山最後の日

今日は岡山県の病院に入院している娘に面会に行く最後の日だった。来週は次の愛知県の病院に転院する。

もう3年間、娘は家に帰っていない。

3年前の深夜、東京で交通事故に遭い、最初に搬送された大学病院の、そのICUから一度も出ることなく5ヶ月、それから家族の住む大阪の病院に救急車で搬送されて4ヶ月、そして岡山県で2年2ヶ月。予定では次の愛知県の病院に2ヶ月の入院の後、やっと彼女は自宅に帰ることになる。

ここまで人間は苦しまなければならないのか、ではなく、ここまで人間は苦しむことができるのか、それだけの能力を人間は持っていたのだということを、おそらく娘自身を含む家族4人全員が、この3年間で学んできた。

そして娘と同じ原因によってあの岡山の病院に入院しているすべての人たち、その家族全員も、きっと私たちと同じことを学んできたことだろう。

最初の頃、娘も早くあんな状態になればいいのに、あるいは、あの人よりは娘の方が状態はいい、などと安易に比較してしまっていた。だがすぐにそれは大変な誤りだと気がついた。あの病院のすべての患者、そのすべての家族、誰一人として私たちと同じ苦しさの苦しみを味わわなかった者はなく、そしておそらく私たちが学んだと同じことを全員が学び、だから出会ったその瞬間から、すぐにお互いを了解し合ってきた。

本当に奇跡のような病院だった。この2年2ヶ月、絶えず勇気づけられこそすれ、ほんの一瞬たりとも不愉快な思いをすることはなかった。きのうの日記のたこ焼き屋のおっちゃんがそうであったとして、だが天はあの病院に勤務するすべての人たちのためにこそ、より深く慮ってそれぞれの人々にそれぞれの職業をお与えになった、そのような意味でひとりの例外もないような病院だった。

今日もチカモリ君は筋肉もりもり、元気はつらつ、笑顔満々だった。チカモリ君は老若男女を問わず、ひっきりなしにベッドのまわりのカーテンを閉じてはおしめを替え、カーテンを開くなり次のベッドに向かって笑顔で話しかけていた。チカモリ君の表情筋には、もしかするとイヤな顔や不愉快な表情をするという機能が欠損しているのではないか、実にウタガワシイといわざるを得ない。この世で最も尊敬する人物を、と問われれば、ためらうことなくチカモリ君を私は挙げる。チカモリ君は辛うじて私の半分くらいの年齢に達したかどうかという若者だ。
ハギワラにも会ってきた。2年ちょっと前、娘が岡山の病院に転院することが決まった直後、倉敷に住むこの大学時代の友人から電話がかかってきた。何年ぶりかだった。その偶然に驚いた。娘のことで苦しんでいることを話すと、自分もここ何年間、重度の鬱病を患い、ようやく回復してきたところだと話した。彼の話を聞いて、もしやと思い、近くにあった神経内科を訪ねた。太鼓判を押されるような症状だった。爾来、折に触れて彼に連絡し、大学時代よりも遙かに深く強く付き合うことができた。
今度は面会帰りの慌ただしい時間などでなく、いずれゆっくり会おう、そう話して帰ってきた。



ということで、今日は写真を一枚も撮ることができなかった。ちょうど昨年の今頃、インド人の友人のクンナ・ダッシュに引っ張られるようにして行ったインドの写真でお茶を濁します。さすがの大阪ディープサウスもその足元にも及ばない圧倒的な暑苦しさをたっぷりとご堪能下さい。









インドの東海岸、プーリという街で開かれる世界最大といわれているお祭り。京都の祇園祭の原型になったともいわれ、3台の巨大な山車が1日がかりで曳かれていった。幅およそ5、60メートル、長さ数キロの大通りを400万人ともいわれる人々が埋め尽くしている。いわば桟敷席のようなところで見学させてもらったのだが、気温は35度程度とそれほど高くはなかったけれど、湿度がほぼ100パーセント、体中に吹き出た汗も一向に蒸発せず、つまり気化熱を奪うことができず、うちわで必死にあおいでも、それはまったく涼感というものを欠いた単なる動く空気にすぎないという実に不思議な体験をした。ところが写真を見ても分るように、現地の人たちはほとんど汗をかいていない。聞くところによると、人間は生まれてから3歳くらいまでの間に育った環境で汗腺の大きさが決定されるらしく、だから彼らの汗腺はとても太く、汗という液体としてでなく、蒸気のままで発散されているのだという。