ソナティーナ

昨年の9月1日のエントリーで私はこんなこと書いた。
「そのテーブル用の椅子の試作品を、これはステンレスの熔接を必要とするので自作という訳にはいかず、フレーム作りをタケチさんに頼んでいたものがきのう出来上がってきた。予想していたとおり驚くべき美しさであったが、なにぶん、使用したステンレス棒が細すぎて、椅子としては強度が不足していることが判明したので、今日、10ミリ筋を16ミリ筋でもう一度作り直して欲しいと頼んだ。」 
これを読んでなんと傲慢な、と思われた方もいるだろう。だがその実態は以下の通り。





真正面から。この写真だけでもうニヤリとする人もいるだろう。




作り直してもらったものには十分な強度があったので、同じものをあと9脚作って欲しいとタケチさんに頼んだ。6脚は自分が使うつもりで、残りの4脚は、素晴らしい出来上がりを見て自分も欲しいという者が出てくるだろうとの目論見のもとに、余分に作っておこうとしたのだ。タケチさんにとってこんな仕事は大した稼ぎにもならないだろうし、こちらも急いでいる訳でもなかったので、手の空いているときでいいからと告げておいた。結局、11月半ばにそれらは出来上がってきた。





真上から。上の写真を見てニヤリとした人でも、真上からだとこんな風に見えると想像できた人はそうはいないのではないか。ただし、一番上の横棒だけはオリジナルの直線を緩やかな曲線に変えてある。




その1脚をもって、私は大国町にある会社に向かった。
一昨年の8月10日のエントリーにも書いたように、このあたりには皮革を扱う業種が多く残っている。ある太鼓屋の店先で、4,5人でお囃子のような音頭を取りながら太鼓の皮を張っている人たちがいたので、このあたりで皮革を小売りしてもらえるようなところはないかと尋ねてみた。その一人が、それならとわざわざその会社まで私を案内してくれた。応対に出た責任者とおぼしき老人は、用件を告げると、うちの品物はアルマーニの店舗の内装にも使われているんでっせと嬉しそうに話した。巨大な壁面全体が驚くべき種類の皮革の在庫棚になっていたが、私の望んでいたようなものはそこにはなかった。だが老人が持ち出してきた分厚い見本帳の中にそれはすぐに見つかった。皮革の量を表す単位をデシ(おそらくデシ平方メートルの略。1デシは10センチ平方、つまり100平方センチ)と呼ぶことをこの時初めて知った。1脚あたり最低で80デシは必要だと私は伝え、それなら100デシ前後のものを10枚発注しておきましょうと彼はいった。私の頼んだものの正式名称は、Hair Calf, Black and White。平たくいえばアメリカ産乳牛の毛皮。1デシあたり200円ということだった。





毛皮だけではすぐに伸びてきってしまうと思ったので、行きつけのホームセンターで見つけてあった樹脂製のネットを下張りに用いた。また、ステンレス綱を木製の床に直接触れさせる訳にはいかないので、接地部分には給湯用さや管の内側のパイプを短く切ったものを巻き付けた。
もちろんそうだ。この椅子のオリジナルはいうまでもなくこれ。近代建築家のデザインした家具類のほとんどは版権切れになっていて、現在ではオリジナル版の数分の一というようなジェネリック版が多数出回っているというのに、このジグザグ・チェアにはいまだにビックリするような値段がつけられている。それともこの椅子はもともと数十万円もしていたのだろうか。
こんな私の注文になくてはならないタケチさんは、いつも最小限のことを伝えればあとは任せっきりにしても私以上にいろんなことに気を遣いながら製作してくれる。今回は、手持ちのリートフェルトの分厚い作品集をそのまま彼に渡し、そこに掲載された図面のシルエットをそのまま忠実に再現して欲しいと頼んだ。ただ上にも述べたように、最上部の横棒は背骨に直接当たることになるので、これぐらいにして欲しいとその場でフリーハンドで曲線を描いた。





前回のエントリーでも書いたように、子供の頃はともかく、いつの間にか私は正月という期間がイヤでイヤでたまらなくなっていた。だからいつの頃からか、無理矢理にでも仕事を作ってはこの時期をそれでやり過ごすという習慣が身についていた。年末、アメリカから毛皮が届いたという連絡を受けていて、早速それをもらい受けに行ったのだが、そしてすぐにでもその型取りや裁断に取りかかりたかったのだが、我慢して私は正月が来るのを待った。





元旦、早速私は作業に取りかかった。1枚くらいは失敗することを覚悟しながらも、10枚ある毛皮をそれでも次々と念入りに型取りし、裁断し、つなぎ部分にあるいはハトメを用い、あるいは皮革屋で只同然で分けてもらった革紐を用い、次々と慎重に作業を進めていった。
オリジナルのリートフェルトのジグザグ・チェアは、よくもこんなもので人間の体重が支えられるものだという、そんな驚きを誘起することを目的としたようなデザインである。使用される樹種の強度、厚み、接合の仕組み。それらが極限にまで究められたような椅子である。





だがそんなことは私の知ったことではない。今度の私の部屋にはどんな椅子がふさわしいのか、頭の中に入っていたいろんな椅子のイメージのなかから直感的に選び出された形に過ぎなかった。そしてその座面や背もたれに張る素材はどんなものがふさわしいのか、これも自分でも驚くような無責任さで選んでみた。近代建築家のデザインした家具の中で最もよく知られたコルビュジェの寝椅子、あの寝椅子に張られていたような毛皮を探してみよう。(コルビュジェのはポニーの毛皮のはずであったが、さすがにそれはなかった。)





実をいえば、私はリートフェルトという建築家を特に好きという訳でも何でもない。1920年代、オランダのロッテルダムを本拠としたデザイン運動(デ・スティル)で、彼は、ドゥースブルフやドイカーといった他のどの建築家たちよりも純粋にこの運動に殉じたと思われるような建築家であった。だが建築という存在を支えるに最も基本的な要素の一つである実用性、その実用性というものを無視した過度の実験性について、基本的には私はおおむね否定的な立場を取ってきた(つもりだ)。私が建築雑誌というものに書いた最も初期の頃の原稿にも、リートフェルトのそういったネガティヴな局面について触れていた。とはいえ、この運動の絵画における中心人物であったモンドリアンについては、建築とは異なるその無用性の故に、彼の試みた実験性は歴史の中でも特筆すべきことであったと私は十分に評価している。




もともと私はこんなバルバロイ的な発想をする人間ではなかった。いつも規範に忠実な発想しかできない人間であった。だが長女が交通事故に遭って以来、まともな建築の仕事に従事することはおろか、それについて考えることさえ私はほとんど出来なくなってしまっていた。ところがその4年あまりのブランクが、私の知らぬ間に、私の想像力の軌道を変えてしまっていたのだろう。こんな椅子(本当にどうでもいいようなものだけれども)を作るように私はなっていた。
ところで、オリジナルのリートフェルトの椅子は、その無理なデザインによるあまりにもリジッドな作りから、本来、椅子というものが有すべきクッション性というものが皆無であった(と思う)が、そしてこれは予定していたことでも何でもないのだが、この椅子は十分に強くありながらも適度なクッション性も発揮する。




今日のYoutube
ディオンヌ・ウォーウィック   「A House is not a home」

そこに座る人があろうがなかろうが椅子は椅子のままだが、そこに愛し合う者たちがいなければ家(a house)は家(a home)ではないという、Hal David、Burt Bacharach、Dionne Warwick の黄金トリオによる絶頂期の曲。