歳末あれこれ 

どうやら2日ほど前から気がつかないうちにプライベート・モードの設定になっていたようです。失礼しました。(1月2日、10時50分)


というようなタイトルで始めたが、本当はこんな大袈裟な時期は私は大嫌いだ。正月の方がもっと嫌いだが、歳末は個人の行動の自由度はそれなり保証されているだけまだしもという感じだ。私の家族や兄弟が私と同じような考えでいてくれたら、どれほど自由にこの疎ましい時期をやり過ごすことができるかとずっと私は思い続けてきた。

この12月の初め頃、ほぼ4年半ぶりに長女の肉声を聞いた。この間ずっと、彼女の口蓋から出てくるのは、咳き込むという動作に動員される器官、筋肉、皮膚等の接触、圧迫、急開放がもたらす物理音だけであった。ところが先日、彼女にしては相当に低音だったけれども、それでも確かにあれは声帯を通じて出てきた<声>であった。次はそれがいつ意味というものを伴った<コトバ>として出てくるのか、我々が固唾を呑んで見守るという段階に彼女は漸く入った。のだろうか。最近になって、いつも確実にという訳ではないけれど、たまに明らかに追視と思われる眼球の動きも見せ始めた。しばらく前から、日曜日には車椅子に乗せられて、子供の頃から通っていた教会の礼拝にも参加するようになっている。
そこで早速私は彼女との延び延びになっていた約束を果たすべく、難波にあるデパートに向かった。10年ほど前、ニューヨーク旅行をしようとしていたとき、ある有名ブランドのロゴ・マークをそっくりに真似たメモ用紙を私に手渡し、そのブランドのマフラーがおみやげに欲しいと告げた。バッグや時計やアクセサリー類は高価すぎて私には手が出せないだろうからと、遠慮しながらのことであったにちがいない。
ところがフィフス・アヴェニュでそのブランド・ショップを見つけたはいいが、私が中に入ろうとすると、ちょうど毛皮のコートを着た二人連れのマダムが話しながら出てくるところだった。二人が出るまでドアを開けて待っていると、そのひとりが、こちらに一瞥をくれることもなく、むしろ眼を逸らせるべく顔を上向き加減にして、Have a nice day〜〜などとのたまいながら開いたドアを通過していった。その二人の仕草と我が身のみすぼらしさにすっかり私はうろたえてしまい、それでも蛮勇をふるって中に入ってはみた。だがすぐにこれ見よがしに身なりを整えた店員が私に寄り添ってきた。娘の欲しがっていたマフラーを探す余裕もあらばこそ、そそくさと私は店を後にしたのだった。そのときは、マフラーは見つからなかったなどといい訳をし、ありきたりの土産物(チョコレートとか)でその場を凌いだのだったと思う。
ところがここは我が地元、大阪はミナミである。ニューヨークの時よりもっとみすぼらしい身なりにも関わらず、その中心に位置するデパートに私は向かい、件のブランド・ショップを見つけ、颯爽と中に入った。同じように身なりを整えた店員につきまとわれはしたが、今度は平然といくつかの質問を発し、娘にプレゼントするためだとかなんとか訊かれてもいないことまで口走り、パッケージはクリスマス・プレゼント用のものになさいますかと問われると、やはりその方がいいでしょう、などとわざと鷹揚に答えたりしたものだった。でもさすがにその有名ブランドのマフラー(店員はストールとか言っていたような気がするが)、いかにも可憐な我が娘にこそお似合いというべきお洒落さであった。

この26日、名古屋のドケ君とマツイ夫妻を大阪に呼んでいて、ディープ・サウスの寒々しい風景をお二人にお見せしようと思っていた。ついでに最近ふとしたことで知り合った若い建築家のマルフジ君にも声をかけてみた。ところがちょうどその日、マルフジ君も忘年会を予定していて、若い建築家が多く集まるのでそちらに合流しないかと逆に誘われた。当然その方が面白かろうとO.K.した。マルフジ君は空堀(からほり)商店街の一角に事務所を構えていて、このあたりは最近、目新しい店やブティックなどが多く入り込んでいて、お洒落だのオサレだのだったりするスポットとして話題になっている所でもある。
ドケ君とマツイ夫妻、東京に転勤してしまったヨネ君等、ごく一部の人たち、それにホンダ・ゼミの学生以外、もう何年も私は若い(若くなくとも)建築家と会ったこともなければ話をしたこともなかった。もちろんかなりお酒を飲んでしまっていたせいもあるが、少し私は調子に乗り過ぎてしまったようだ。彼らがひそかに憧れているかもしれない建築家たちをばったばったとなぎ倒すようなことばかり喋ってしまった。私の(顔に似合わぬ?)あまりの毒舌ぶりに、呆れ果てていた者もいたにちがいない。
マツイ夫妻は愛知県から車で来ていて、ドケ君も乗せての帰路にほど近いということもあり、次の日、7ヶ月ぶりに鬼魂楼に行ってみることにした。前夜、私の隣に座っていたオカザキ君も加わった。
マツダさんは不在だった。というより、おそらくもうそこには住んでいなかった。この5月に訪れた時、いずれ彼の住む家自体が鬼魂楼に食い潰されるしかないと私は書いたが、その通りになっていた。おそらく娘さんの家かどこかに居を移し、そこから工事をするためにここに通っているのだろう。だけどたぶん冷蔵庫ぐらいは残してあって、ドケ君が電気のメーターが動いていることを発見した。
あの高齢で今後どこまで続けられるのか不安であったが、何しろすべてを一人でやっているので極めてゆっくりとした調子でしかないことは確かだが、工事は順調に続けられているようだった。彼の不在は逆に私を安堵させた。
忘年会のあった日の昼過ぎ、長崎県のエハ君から突然電話がかかってきた。クリスマス・カードを送ったが、転居先不明で戻ってきたので、現在の住所を教えろという。
きのう、その分厚い郵便物が届いた。
以下は入っていたもののリスト。
1)マリアとヨセフに見守られた飼い葉桶の中のイエスを描いたクリスマス・カード。
2)CD1枚。ダンテの『神曲』を骨格として、エハ君が自ら選曲したコンピレーション・アルバム。収録曲は、『コーヒー・ルンバ』に始まり、福岡県みやま市幸若舞保存会による『敦盛』、マリリン・モンローの『帰らざる河』、『おしん』、『ミンストレル・ボーイ』などから『アヴェ・マリア』にいたるまでの全12曲。娘の枕元に置いておいてやろう。
3)上のCDのためにエハ君自ら製作したジャケットと、おそらくこれもエハ君自らの手になるイコン2枚。これも娘の枕元に飾ってやろう。
4)『小指で運べる寝転びデスク』と名付けられたノート・パソコン用デスクの設計図と、そのCADデータが治められたフロッピー・ディスク1枚。
エハ君は九州の大学を出た直後、突然関西に現れて、当時私が親しく付き合っていた建築家たちの事務所を集中的に転々とし、最後に私のところにも何週間か滞在して長崎に帰っていった。その後、もう10数年前だったと思うが、突然来阪し、カトリックに入信したという報告と、サンベント・メダルを沢山残していった。教えていなかったけれど、私のサンティアーゴ紀行のブログも読んでくれていて、帰国後しばらくして、彼からタロットカードのように沢山のカードが届いた。いつも彼独特の突然の行動や出現に驚かされるが、相変わらずの行動力やとりわけCDジャケットやイコンに見られる旺盛な表現力にも眼を瞠らされる。






以前掲載した写真は、現場の様子を知っていたドケ君にも分かりにくかったらしい。実際はこんな状態。別荘風の急勾配屋根の木造住宅に、荒々しいコンクリートの構造体が覆い被さっている。その木造住宅にマツダさんは一人で住んでいた。





以前の写真の状態からたぶん軌道修正がなされたのだろう。明らかに工事が進行中であることが分かった。これを見てどれほど私は安堵したことか。





その反対側から。





鉄筋の曲げ具合といい、錆びさせ方(※)といい、素人の老人ひとりで工事をしている現場とはとても思えない。





全体で3箇所、スズメバチの巣ができていた。マツダさんが刺されないことを祈るばかりだ。というより、彼らはあたかもマツダさんの守護役であるかのように私には思える。





こんな工事に着手する前から、面白い木の根っこなどを見つけては趣くままに彫刻していたとマツダさんは語っていたが、今回始めてそんなものが縁側に置かれているのを見つけた。狼のようでもあり、得体の知れない怪獣のようでもあった。ちょっと突飛もない思いつきかもしれないが、円空のことを私は想わずにはいられなかった。





エハ君から送られてきたCDのジャケット。





同封されていたイコン。





同。



※ コンクリートアルカリ性なので、鉄筋をある程度さびさせておく方が付着性が強化される。




今日のYoutube
スミ・ジョ   「カッチーニアヴェマリア

エハ君のCDのエンディング曲は「シューベルトアヴェマリア」だった。