黒い雨、どこにもない場所(2)

いま私は、築30年以上にもなる古くて小規模なマンションの一室を仕事場にしている。とても便利な場所ということもあり、他にも仕事場として使っている人は多い。ここに移ってきて私はまだ5年ほどだが、入居者の管理組合の理事長の方も建築設備の設計の仕事をされていて、そのご夫妻と親しくさせていただいている間に、私も理事のひとりにされてしまった。年に2,3度、理事会や総会があり、そのときだけ他の理事の方々(といってもあと2,3名程度だが)と顔を合わせ、雑談をすることがある。昨年の暮れ、セキさんという古くから理事をなさっていた方とそんな雑談をしていると、もう仕事場を引き払おうと思っているが、金属製の大型ロッカーなどの処分に困っているというようなことを話された。私は、そんなときは知り合いの建設業者に頼んで、現場から出る廃材と一緒に産業廃棄物として処理してもらっている、荷物の運び出しまで職人さんたちが全部やってくれるし、他の廃材と一緒なので粗大ゴミに貼るステッカーを買うよりも遙かに安上がりになると教えてあげた。それなら是非ともお願いしたいと頼まれたので、先日、業者に来てもらった。3人来てくれたが、彼らが荷物を運び出している間、初めてセキさんとプライヴェートな話をした。
あの3人のうちの1人はフィリピン人と日本人のハーフの若者だと話すと、セキさんの顔色がパッと明るくなった。
セキさんは大学でスペイン語を学び、卒業後何年かスペインに滞在していたことがあるという。そして現地でお世話になっていたのが、フィリピンからスペインに移住していた方の家だったという。
理事会や総会で何度も顔を合わせていたのに、セキさんがそんな経歴の持ち主であったことを初めて私は知り、驚いた。だが驚きはそれだけではなかった。一昨年に私はサンティアーゴ巡礼の路を歩いてきたと話すと、彼もまさか私がそんな経験をしていたとはつゆ知らず、それ以降、お互いに相手の話を遮り合いまでして話が弾んだ。私がバスクケルトの関係について疑問に思っていたことを、こちらが尋ねるまでもなく彼の方から話し始めてくれたりした。
いかにも紳士的な佇まいでありながらも、酸いも甘いも噛み分けたようなセキさんの風格から、てっきり私より少なくとも5,6歳は年上の方だと思っていたのだが、あらためてお互いの詳細な自己紹介をしあうと、何と私の方が4日早く生まれていて、セキさんからいち早く自分の方が弟だと宣言までされてしまった。今度ゆっくり飲みながら話しましょうという話になったことはいうまでもない。
表に出てトラックのところに行くと、積み込まれた荷物の中に、ある人物の銘の入った額も含まれていた。なぜこんなものをお持ちだったのかと聞くと、その方の経営する会社の関係の仕事をずっとしていたからだと仰った。その会社は分野のまったく異なる2種類の製品を作っていて、セキさんが扱っているのとは違うもう一つの製品の関係で、まさにその会社がスポンサーとなって、前回のエントリーで述べた会議を私たちは開かせてもらっていたのだ。私たちにとってはサッシ・メーカーだが、セキさんにとってはファスナー・メーカーだった。セキさんも私も、その銘の人物に何度も直接会っていた。道理でセキさんは新潟県のご出身であったのだ。
これは一昨年の紀行ブログこのブログでも述べたことだが、巡礼路を歩いている途中、私はフアンという名のマラガから来た料理人と親しくなり、しばらく行動を共にしていたことがある。ところがある街で彼とはぐれてしまい、彼の住所も店も何も知らないままであるのがずっと心残りになっていた。あるアルベルゲ(巡礼宿のようなもの)の運営者が彼ととても親しかったので、そのアルベルゲにフアンの連絡先を知らないかとメールで問い合わせてみると、携帯電話の番号を記したメールが返ってきた。だがフアンは英語がまったくできず、私はスペイン語がまったくできない。だからスペイン語のできる人が近辺にいないかと考えていたら、1月11日のエントリーで述べた若い友人のヨネ君の奥さんがペルー人であったことに思い至った。だがその奥さんは出産のためにペルーに帰国していて、初期の子育てが終わったあと、今は英語の習得のためにイギリスにいるという。
早速私はセキさんに、今度フアンと電話で話して貰えないかとお願いした。およそ考え得るあらゆる可能性を超えた至近のところに、私の探し求めていた人はいた。奇跡はまだ続いていたのだった。
最近、私が一緒にお酒を飲む機会の最も多い友人がサトさんという人で、彼もまた新潟出身であった。現在の私のクライアントのお母さんも新潟のご出身、次の仕事のクライアントの奥様も新潟出身の方。
セキさんには、今度の酒席にはサトさんも誘ってみますと告げた。吹替さん、そのときは大阪にいらっしゃって是非とも私たちとご一緒に。でも確か下戸でいらっしゃったのですね。





ご存じ高松伸設計の今は亡きキリン・プラザ。『ブラック・レイン』でこの建物が特別な形で登場することになったそのいきさつや、パブリシティの扱いがどんなものであったのか、まったく私の与り知るところではないが、かつての親しい友人であった人物の設計した建物がこんな監督のこんな映画に登場するのを観るというのは、何とも誇らしくもあり、妬ましくもあり、またなぜか恥ずかしくもあるという、それはとても不思議な体験だった。




千本松大橋(めがね橋)。向こう側に見える螺旋が左目のレンズ。木津川を挟んで左右対称に位置するこれら二つの斜路に入ると、それまではおとなしく走っていた車のほとんどが、なぜか異常なスピードを出し始める。片側720度、合計で1440度を回転しながら走るというその空間構造に、そんな人間の原始的本能、あるいは暴力的本能とでもいうべきものを呼び覚ます何らかの仕掛けが隠されているのだろう。もちろん私もその例外には絶対になりたくない者のひとりだ。




最初、このシーンの撮影が行われる建物に阿倍野警察署が選ばれていたということを知って、思わず私は唸らざるを得なかった。たとえ大阪在住の映画監督でさえ、そんなロケーションがあったなど夢にも思わなかったことだろう。だが何らかの事情があってそれは叶わなくなり、これらのシーンの撮影はやむなく大阪府庁舎で行われた。さぞかしスコット監督は無念な思いであったことだろう。それほど阿倍野警察署という建物が醸し出している風情は、まさにこの映画にこそふさわしいというべきものであった。(ということを、もちろん私自身もリドリー・スコットによって気付かされた。いつかその場所についてのレポートをします。)
この映像の中央にもうどんを出前する女性が映っているが、マイケル・ダグラスが不器用に箸を使ってうどんをすするシーンもある。
ところで、関西の人間が東京に行って必ずうんざりさせられるのが、うどんのダシの色の違いだ。だがそれ以上に私が納得できないのは、薬味として使われている葱の種類の違いだ。やっぱり葱は関西の葱にかぎる。




これは業務上の守秘義務に違反することになるのかもしれないが、昨年、どうしてもメンバーが足りないからとサトさんから頼まれて、大阪府庁舎のある調査に無理矢理に駆り出されたことがある。もちろん知事室も調査対象外ではなかった。その部屋に入ると、知事になったばかりのあのヒトの机の真ん中に、●●●●氏の最新の建築作品集がでんと置かれていた。早速営業に駆けつけていたのだろう。それからしばらくして、あのヒトの就任祝賀会か何かで、府の特別顧問に収まった●●●●氏とあのヒトが、壇上に並び立って笑顔を振りまいている写真が公開された。
そういえば●●●●氏は、自分の数々の失政の目くらましのためにオリンピックを誘致しようと死にものぐるいになっている首都のあのヒトの、建築方面での最大の助っ人という地位にもいつの間にか就いていた。この国の二大都市の首長とはいえ、建築についてはまったくの素人であるあのヒトたちを籠絡することなど、●●●●氏にとっては赤子の手をひねるようなものだったのだろう。私たちの目からすれば、ほとんどそんな営業的手腕だけで、●●●●氏は現在のあの名誉ある世界的な地位にまで登り詰めていたのだった。
カラヤンもそんな人だったの?





あのピンクとライト・ブルーのカラーリングのなんと場違いなこと! そんな余計な気遣いなどやめてくれと抗議したくなる。
この場所に来るたびに、私は自分の命まで削り取られていっているというような思いに駆られる。私にとっての無何有郷であったはずの場所が、あんなにも完璧であったはずの場所が、次々と蚕食され、こんなにも俗悪な趣味に侵犯されてしまいつつあるではないか!と絶叫したくなる。


今日のYoutube
アンドレイ・タルコフスキー  「惑星ソラリス

お口直しに、というよりも、あのヒトたちや●●●●氏のイメージで汚されてしまったお心直しに。
何度この映画を観たことだろう。観るうち、バッハ作曲のこのオルガン曲が耳から離れなくなり、当てずっぽうにサイモン・プレストン(Simon Preston)という人の弾くバッハのオルガン曲だけを納めたCDを買い求めた。一枚のCDの中に60曲以上納められていて、根気よく聴いていると、四十数曲目にやっとこの曲が現れた。タルコフスキーの底知れぬ音楽的素養にも驚かされた。