寒々しい日々

もう半年ほど更新していなかったような気分だ。と思ってこのブログをいつ始めたのかと調べてみたら、去年の7月14日だった。厳密にはまだ半年も経っていなかった。相変わらず私はいつも大袈裟だ。

きのう(1月10日)は、本当はとても興味深い予定があった。昨年、東京に転勤してしまった若い友人のヨネ君が、久しぶりに大阪へ出張で帰ってくることになっていて、私には3度目になるH氏と会えることになっていたからだ。
どのようにしてヨネ君がH氏と知り合うようになったのかは知らないが、とにかくH氏は、釜ヶ崎の某所に身を潜めるように住んでいて、電話も何も持たず、だから朝の早いうちに寝込みを襲うようにして訪問しないと会えないという。ヨネ君の予定では、首尾よく会うことができれば、その日はH氏に釜ヶ崎を案内してもらうことになっていて、名古屋のドケ君と私も誘ってくれていた。ところがヨネ君がどうしてもきのうの午前中には東京に戻らなくてはならなくなり、この計画は御破算になってしまった。
最初にH氏に会ったのは、私が援農や炊き出しのボランティアなどで釜ヶ崎に出入りするようになる以前だった。大津から山を越えて京都市内まで、琵琶湖疎水のルートを辿りながら、驚くべき博識で私たちを案内してくれた。70歳をとうに越えているというのに、私などはその健脚に付いていくだけでたじたじであった。
二度目は大阪湾岸巡りのツアーで、港湾労働、暴力団、警察などが絡んだ大阪という都市の裏面史を、これまた驚くべき細部にまで能弁に語りながら案内してくれた。
もう何十年も前、H氏は某大企業の労働組合をパージされ、釜ヶ崎に身を寄せるようになり、主として大阪という都市についてのあらゆる局面から個人的な研究を始めた。毎朝、すべての新聞を買い求めることから彼の日課は始まる。
私のような新参の部外者などには絶対に本当の顔を見せようとしない釜ヶ崎という都市空間について、H氏は、おそらく裏の裏まで知り尽くしているのだろう。だが、今までに何度か、釜ヶ崎に住む広い知識を持つ人たちに、H氏について尋ねてみたが、誰ひとり彼を知る者はいなかった。実に興味深いことではないか。だが、次の機会に彼から釜ヶ崎の裏面史のようなものを教えられたとしても、こんな場所でおいそれと発表できるようなものばかりでないということは、知る前から私には分る。
この予定が駄目になったのは昨年末の時点で分っていたので、10日の土曜日は今年初の援農に出かける予定を私は立てていた。チェ牧師から、すでに1月3日の土曜日には最初の援農に行ってきたと聞かされていた。去年、一番寒かった頃、かの農園で雑木林のような土地を開墾して畑を作ったことがあり、一日中、切り倒した雑木を燃やす作業をしたことがある。思いっきり愉快で心が晴れるような体験だった。今年はそんなことはないだろうなぁ、さぞかし寒いだろうなぁと5日ほど前から覚悟を決めていた。
ところが1月7日の水曜日、明月さんという方の『反戦な家づくり』というブログで、「許すな! イスラエルのガザ侵攻 1・10緊急行動 パレスチナの民衆を殺すな!」という集会が大阪でもあるということを知った。イスラエルパレスチナ、それぞれの民族や国家のぎりぎりの命運を賭けた譲れない根拠というものはそれぞれにあるのだろうとしても、イスラエルの今回の行動はあまりにも度はずれている。本当はそんな写真がなくとも、無辜の人たちが無差別に殺戮されているという事実だけで、十分に心突き刺されるような想像力を私は必要とするのかもしれない。だが爆撃で殺されたパレスチナの子供達の写真は、ただでさえ弱っている私の心に激しく突き刺さっていた。
よほど私は予定を変え、この集会に参加しようかと思った。
だが、デモに参加するのは学生時代以来で、こんな年齢になってまでまたあんなことをやるのかと思うと幾分かの気恥ずかしさを感じない訳でもなかった。少なくとも何百人は参加するであろうデモ隊の中に身を潜め、囁くようにシュプレヒコールを挙げる自分の姿を想像してみた。それに何よりこの寒さである。
むろん、この寒さというのは、援農に参加するにしても集会に参加するにしても、我が身が感じる肉体的痛苦のことが第一義であるにはちがいないが、気候のことだけでなく、社会情勢からも今年はひときわその痛苦が釜ヶ崎という地区全体に激しく襲いかかろうとし、そろそろ路上死が目立ち始める時期である。大勢の中で我が身の気配を消しながら集会に参加するよりも、ほんの僅かな力添えにしかならないにしても、あつあつの雑炊に直接的に関与できる援農の方を私は選んだ。
とはいえ車で大阪を出発したはいいが、かつらぎ町に行くには必ず和泉山系を越えなければならない。平野部では晴れていたのに、山道に入ると間もなく雪がちらつき始め、やがてスリップに気をつけなければならなくなるほどの降りになってきた。山を越えると、今度はみぞれに変わった。雨が降れば援農は中止になるので、とんだ無駄足だったとは思ったが、念のため現地にそのまま向かった。やはりチェ牧師の車はなかった。
今日、チェ牧師に聞くと、きのうは朝からあまりに寒かったので農作業は中止、そのかわり屋内で白菜を出荷するための作業を手伝っていたとのことだった。そんなことも確かめず、さっさと私は帰路に着いてしまったのだった

服用している抗鬱剤などの関係からか、最近、車の運転中に発作的な眠気に襲われることがあり、ついたまらず、どこかの道の駅の駐車場で一眠りし、夕方近く難波に帰り着いた。
今日、明月さんとうにさんのブログを覗くと、御両名とも集会に参加しておられたとのこと。自分のそそっかしさと愚かしさが恥ずかしい。




今日の写真は、昨年、サンティアーゴ到着後、ホンダ夫妻とおち合ったポルトガルで撮った写真(何枚かは4年前の訪葡の時の写真を使用)でお茶を濁します。


ポルトという都市にあるカサ・ダ・ムジカ(コンサート・ホールのこと。設計はレム・コールハース)。 
コールハースは、現在、世界で最も優れた建築家と私が思っているオランダ人。インドネシアで子供時代を過ごした。建築家になる前は脚本家だった。下に掲げるフランク・ゲーリーのような、大衆的大向こうをうならすというようなことはあまり狙わない。建築というものの歴史的、社会的文脈に対する思考の深さ、それに基づく作法のしたたかさ、斬新さがもう断然圧倒的に他から抜きん出ている。彼の影響を受けたような建築を作る建築家が現在の日本にも沢山いるが、せいぜい4流、5流、ひどいので8流ぐらい。





同。とてもエラそうないい方になるけれども、この建築の本質を理解するには、こんな写真ではとても足りない。





同、内部。最初から制御不能な偶発的空間の出現を予定した方法論を採りながら、あたかも予定調和的であったかのようにそれらを見事に処理してしまう。彼の手にかかれば、まるで手のひらの上で建築を転がして遊んでいるかのようで、だが他の通俗的現代建築に対する批評性や毒というものを激しく含んでいる。





同。多くの建築家は、人工照明を必要悪というようなものとしてしか考えていないが、コールハースはそれさえも自家薬籠中のものとして、あたかも必須のものであったかのように扱う。





同。





これはポルトではなく、スペインのビルバオという都市に建つグッゲンハイム美術館アメリカ人のフランク・ゲーリーが設計した。それまではひなびた工業都市にすぎなかったビルバオは、この建築によって一躍世界中から人々を呼び寄せる一大観光都市になった。造形や構成の力を認めないではないが、コールハースのような文脈的思考がゲーリーにはすっかり抜け落ちている。コンピュータによって可能となった方法と、自らの才能、そして恐るべきコスト、を濫費しただけのものとしか私には思えない。





同。





ギュスターヴ・エッフェルの名を一躍高らかしめたマリア・ピア橋。同じくポルトという都市のドウロ河に架かっている。何という美しさ! それにひきかえ、向こう側に造られたコンクリート橋の何という無粋さ、見苦しさ。





同じくポルトにある現代美術館。設計はポルトガル人のアルヴァロ・シザ。現代の世界の最長老というような位置にある建築家だ。メキシコのルイス・バラガンという建築家の設計した住宅が、先年、吉永小百合の出るTVコマーシャルやビートたけしのドキュメンタリーなどに取り上げられたりして、建築の専門以外の人にもよく知られるようになったが、バラガンから余計な(と私には思える)衒気性をすっかり取り去ったのがこのシザの作風だ。





同、エントランス。




かなり前衛的で難解な展覧会が開かれていた。日曜日の夕方であったが、随分と長い入館待ちの行列ができていた。





同、内部。





同。






同。ここまでシンプルな要素、方法論によってもここまで建築は美しく、また神々しくあり得るのかと、この歳になってあらためて思い知らされた。





ポルトからリスボンに向かう途中に立ち寄ったモン・サント。
急傾斜の岩山に集落が形成されている。ホンダさんは人が変わったように驚喜し、興奮していた。ついでに、レンタカーで180キロも出していた。





同。





同。別に観光客を驚かそうとしている訳ではない。





同。





再びポルトに戻って、やはりアルヴァロ・シザの設計した海浜公園。台風の時のような大西洋の荒波が岩礁に打ちつけていて、その靄がこの都市の中央部あたりにまで漂っていた。多くの市民が散歩やサイクリングをしていた。ほとんどの人が、正装とは言わないまでもちゃんと身なりを整えていて、ひどく不思議な風景だった。まさにシュールでリアルな風景だった。




今日のYoutube
Frank Sinatra  「It was a very good year」

シナトラといえば多くの人にとっては「マイ・ウェイ」だろうが、私にとってはなんといってもこの曲だ。