臨時更新2

今日のYoutubeへのキャプションと、もう一本Youtubeを追加しました。(12月25日、2時35分)


先ほど、TVをつけながら晩ご飯を食べていると(行儀が悪いといわれそうだが、最近の私は食事時しかTVを観なくなっていて、だから行儀を正せば、もうTVを観ることはほとんどなくなってしまいそうだ)、『アサルト13 要塞警察』という映画をやっていた。大分以前にビデオ・レンタル店で見つけて借りたことがあり、あらためて観ようとは思わなかった。というよりこの映画についてはひどい印象しか残っていず、観たくもなかった。 (どうでもいいことかもしれないが、原題の「Assault on Precinct13」(第13分署への夜襲、というほどの謂い)のassault を、どう読めばアサルトなどとなってしまうのだろう。というより、なぜアサルトなどという、誰にも分からないようなカタカナ語をタイトルに使う必要があるのだろう。因みにassaultのもっとも近いカタカナ表記はアソールトだろう。)

この映画のオリジナル、ジョン・カーペンターの『要塞警察』は、ちょうどスティーヴン・スピルバーグ出世作となった『激突!』に匹敵するほどの作品であったと私は思っている。だがスピルバーグの映画はその後うなぎ登りに豪華化していったが、ジョン・カーペンターの場合は、まさか本人がそう望んでいた訳でもないだろうが、その後もずっと同じような低予算の路線が続いている。
いずれにせよ、カーペンターの『要塞警察』は、『激突!』と同じように、低予算ながら、というより低予算だからこそ、冗長なところの一切ない、実にシャープに切れ上がった作品となっていた。あまりの低予算ゆえ、有名俳優など誰ひとり登場せず、挙げ句に音楽もカーペンター自らが担当し、それもただシンセサイザーのみを用いたものであった。だからカーペンターにしてみれば、音楽の予算はほとんどゼロですませたというに等しいようなものであったろう。なのにこの音楽自体も実に効果的であった。じわじわと恐怖感を盛り上げていくというその効果において、ジョン・ウィリアムズが一気に名を上げた『ジョーズ』のテーマにも匹敵するくらいの力を持っていたと私は思う。
暴力事件の多発でほとんどの住民が街から逃げ出し、今夜ですべての警察署も撤退することになっているアメリカのある地方都市。そのうすら寒い都市空間を覆う何ともいえぬ恐怖感。そしてその恐怖が一閃するような導入部(アイスクリーム売りのシーン。今日のYoutubeの映像で、二番目に出てくる場面)から、シンプルでありながらも心の底にまで届くようなこの音楽が、見事というしかないようなタイミングで現れては観る者の恐怖感を募らせていく。
ところがさっきTVでやっていたジャン=フランソワ・リシェという監督のリメイク版には、ずらりと有名俳優が揃っていた。その名を私が知っている人たちだけでも、イーサン・ホーク、ゲイブリエル・バーン、ジョン・レグゥイザモ、ブライアン・デネヒー、そして何とローレンス・フィッシュバーン
いうまでもなくフィッシュバーンは、『マトリックス』シリーズのモーフィアス役ですっかり名を売ってからのこのリメイク版への登場であった。実際、このリメイク版で彼の演じたビショップという役は、ジョン・カーペンターのオリジナル版でも非常に重要な位置を占めていた。イーサン・ホークなど他の有名俳優たちが受け継いだ役柄と較べても、いかにもフィッシュバーンならではの存在感が必要と思えるような役柄だった。オリジナル版では、その役は、ナポレオンというニックネームを持つ破格の暴力者で、だが一見そんな暴力者には見えない穏やかな風情、というよりニヒルな寡黙者だった。しかもフィッシュバーン演じるビショップとは違って、その名の通りナポレオンは白人だった。
その役柄を、オリジナル版ではダーウィン・ジョストンという無名俳優が演じていたのだが、端的にいえば、ジョストンは、物語全体の喫水線下の最も枢要な位置を、過不足なくじっくりと務めていた。ところが『マトリックス』シリーズで名を上げ過ぎたフィッシュバーンは、見るからに破格の暴力者然としていて、これといった経歴のないジャン=フランソワ・リシェという監督にしてみれば、とても喫水線下にとどめおくことなどどだい無理な話であったのだろう。つまり、最重量級が物語の喫水線上で暴れれば、どんな事態が招来されることになるか、誰にも予測がつきそうなものを(というのはもちろんあくまでも岡目八目の言ではありますが)。。。
昨今、映画界の物語的イマジネーションが底を突いてしまったのか、リメイク版というのがやたらと作られるようになったみたいだが、私の観た範囲内でいうと、そんなワースト・ワンが、フレッド・ジンネマンの『ジャッカルの日』をリメイクしたマイケル・ケイトン=ジョーンズの『ジャッカル』だ。体脂肪率数パーセントという見事に引き締まっていた体が、50パーセントにも達するかというような、ぶよぶよに肥満したかのごとき印象しか残っていない。
次が、アンドレイ・タルコフスキーによる映画史上屈指の名作『惑星ソラリス』を、あんなにも通俗的にしてしまったスティーヴン・ソダーバーグ(と、彼にこのリメイク版をそそのかしたジョージ・クルーニー)による『ソラリス』。ソダーバーグもクルーニーも、あのオリジナル版に対して、何ごとかの申し立てができるとでも思ってあんなモノを作ったのだろうか。図々しいにもほどがあるというものだ。とりわけ、ナタリア・ボンダルチュク(『戦争と平和』の監督、セルゲイ・ボンダルチュクの娘)の演じた主人公の妻ハリー(リメイク版ではレイア)を、ナターシャ・マッケルホーンという、名前こそロシア系と思われる女優が演じていたが、ハリーの際立つ特性であったヴァルネラビリティvulnerability、攻撃誘発性とか脆弱性と訳されていますが、詳しくは自分で調べて下さい)などとはおよそ無縁そうな、ひどくごつごつとして、まるで『ブレード・ランナー』のレプリカントにこそ似合いそうな女優であった。
さて三番目がこの『アサルト13 要塞警察』。というのがいま急に思いついたリメイク版ワースト・スリー。
揃ってオリジナル版に数倍、数十倍もするような予算をかけて作られたと思うが、これは映画にかかわらず、建築でも、ロー・コストだからこその傑作という名をほしいままにしたような例は枚挙にいとまがない。たとえばコレの後半部。ウソ。)
ところで、最後にナンですが、ジョン・カーペンターの『要塞警察』も、実はハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』のリメイク版だったのです。カーペンターはホークスの熱心な信奉者で、彼の代表作とその名も高い『遊星からの物体X』も、ホークスの『遊星よりの物体X』のリメイク版だったのです。ただ私としては、中学生の頃に観たウルフ・リラという監督の『光る眼』(原題は「 Village of the Dammned(呪われし者たちの村、というような謂い)は、カーペンターによってもリメイクはして欲しくなかった。そっくりな顔をした何人もの金髪碧眼の子供たちが、自分たちに刃向かおうとする者を暗闇の中で突然眼を光らせて殺すという、私の中に強烈に残っていたモノクローム・イメージが、カーペンターによる最新のカラー映像によってぶち壊しになってしまったのだった。




今日のYoutube
ジョン・カーペンター監督の『要塞警察』の名場面集

その1.ブラックコーヒー
なぜこんな変哲もないシーンが名場面なのかと思われる方もいるだろう。コーヒーを入れようとしている女性が、ブラックで?と尋ね、もう三十年以上もそうさ、と黒人警官が答えるその遣り取りの妙味をこの投稿者は気に入ったのだろう。


その2.アイスクリーム売りと少女
この少女には少し残酷なことだが、この映画の怖さすべてが凝縮されているようなシーンだ。オルゴールといい、消音銃といい、鏡といい、ヒチコックの『サイコ』のシャワーと半透明カーテンに匹敵するほど(ちょっと大袈裟)の、小道具の使い方のうまさ。鏡というのは、おそらくほとんどの映画監督(のみならず多くの画家たちや建築家たちも)が魅入られてきた装置であるだろうが、そして多くがその使い方に腐心してきたことだろうが、恐怖感を盛り上げるという効果において、このシーンに匹敵するほどのものを見つけるのは難しいのではないか。


その3.煙草が吸いたいんだが
と話す男性がナポレオン。他の受刑者たちと別の刑務所に護送される途中、急病者が出たために急遽、彼はこの13分署に留置されることになる。ところがこの分署は街の暴力団から相次ぐ襲撃を受けていて、ナポレオンもその攻撃に一緒に立ち向かっていくことになる。これはそんな襲撃が小休止したときの一場面。右の女性も、男性顔負けの沈着でマッチョな働きをする警官。二人の間にそこはかとない思いが交わされるシーン。彼女のライターの使い方がぎこちないのは、右腕を撃たれて負傷しているため。


その4.ポテト
というのは、いわばアメリカ版あっち向いてホイのようなものなのだろう。外からの襲撃をいよいよ防ぎきれなくなり、殺される危険を冒して外部に助けを求めに行く者を決めようとする場面。このシーンが持っているにちがいない微妙な面白さについては、やはり習慣が違うのか、少なくとも私にはよく分からなかった。



アイスクリーム売りのシーンをもっとじっくりと堪能したい人はこれもどうぞ。

臨時更新

コメント欄からヒントを得て、Youtubeを一つ追加しました。(12月21日、23時0分)


きのう、ある掲示板である方との遣り取りで、気がつけば調子に乗って思わぬ長文を書いてしまっていた。途中でとてもその全文を投稿できるようなものではないと気付いたのだが、取り敢えず気が済むまで書き続け、結局は大半を削除して投稿した。で、その削除した部分を、予定外(そもそも予定などないのだが)の臨時更新としてここに投稿することにした。
が、それだけでは文脈を掴みにくいと思い、その掲示板に投稿した部分も併せて一挙公開といきます。





○○さん。
テラークレーベルというのは知りませんでした。テラークという固有名詞はおそらく初めて目にするものだったので、てっきりクラークレーベルのもじりだと思い、さきにクラークレーベルで検索してみたほどでした。
テラークレーベルについて読めば読むほど、フランスのエラートレーベルと似ていると思いました。名前までそっくりじゃないですか。しかも設立が、前者が1953年、後者が52年というから偶然にしてはできすぎというものです。たしかパラフィンか何かの化学物質だったと思うのですが、ところがいま調べてみるとどうもそうではないような気もするのですが、いずれにしても、たしかアメリカとフランスの化学者がそれぞれまったく別個に研究していて、たしか同じ日にその物質を発見したという話を思い出しました。(ここまでが昨夜実際に投稿した文章)



(以下本分。)
ついでですが、フランスのエッフェル塔アメリカの自由の女神像もよく似た関係です。どちらもそれぞれの国の市民革命(前者はバスティーユ監獄襲撃事件、後者は独立宣言発布)百周年を記念する事業として建造され、近代以降に建てられた建造物としてはどちらも圧倒的な大衆的人気を博し、もちろんどちらも近代以降の建造物としては異例なほどに早く世界遺産に登録されています。しかも、エッフェル塔はいうまでもなく、自由の女神像にもギュスターヴ・エッフェルという技術者が極めて重要な役割で関わっています。一般に、エッフェル塔という名前がその設計者に由来しているということを知る人はあまりいないと思うのですが、自由の女神像(を支える内部の鉄骨骨組み。あの像自体はフレデリク・オーギュスト・バルトルディという彫刻家による衣装、ならぬ意匠)が、これもエッフェルの設計であったということを知る建築家はそれほどいないと思います。
ついでついでの余談ですが、アメリカ独立宣言を発布した第三代大統領のトーマス・ジェファソンは、本来は建築家でした。それも日本で一級建築士という資格制度を作った本人がその登録番号の第一番をせしめた田中角栄などとは訳が違い、ヴァージニア大学ヴァージニア州議会議事堂(どちらも世界遺産に登録されています)などを設計した本物の腕前を持つ人でした。30年ほど前に行われた、アメリカ史上最高の建築家は誰かとアメリカの建築家に問うたアンケートで、ジェファソンは、確かフランク・ロイド・ライトサイモンとガーファンクルが彼のことを歌っています)を抑えて堂々の一位になっていたはずです。もちろんこの結果には、アメリカ人特有のパトリオティズムというものが多分に働いていて、実際はライトの方が問題なく凄い建築家であったことは間違いのないところですが。
もひとつついでですが。バスティーユ監獄のあった場所に現在のパリ・オペラ座が建てられていて、こちらをバスティーユ・オペラと呼び、元のオペラ座(いうまでもなくガストン・ルルー原作による『オペラ座の怪人』の舞台になった建築です)は、その設計者のシャルル・ガルニエに因んで今はガルニエ・オペラと呼ばれています。ガルニエは、パリの都市景観を破壊するとしてエッフェル塔建設に猛反対する運動にも加わっていました。この運動の尖塔、ではなくて先頭に立っていたのが、かの文豪モーパッサンで、モーパッサンは、エッフェル塔完成後、同塔内に設けられた『ジュール・ヴェルヌ』というレストランに毎日足繁く通いました。あんなに反対していたのにという質問に、モーパッサンが、ここがパリで唯一エッフェル塔を見なくてすむ場所だからと平然と嘯いたというのは有名な逸話です。またガルニエも、後にエッフェルと協同で仕事をしたりしています。ガルニエ・オペラの方は、後から便宜上付けられた呼び名ですが、そしてエッフェル塔も最初は単なる300メートルの鉄塔というような呼び名しかなかったはずですが、すぐにエッフェル塔という名が正式名称(?)となりました。いずれにせよ、私の知る限り、設計者の名が冠せられた世界唯二の建築です。
ついでついでついでの余談ですが、バスティーユ・オペラの設計者を決めるべく開かれた国際コンペではこんな裏話がありました。当時世界で最も人気のあったアメリカのある建築家に、お前が出せば無条件に通してやると審査員団が持ちかけていたらしいのですが(フランスとはいえ、なにしろいわば土建業界なのです。残念ながらこんな醜聞はとてもありふれた話なのです)、当の建築家は忙しくて出品できなかったらしく、そのかわり、事前にそんなダンゴーがあったことなど知る由もない、ただその建築家の影響を受けて無邪気に真似ただけの案を出品してきた無名の新人がいたらしいのです。審査員たちが本人と勘違いして当選させてしまったことはいうまでもありません。その結果できあがったのが現在のパリ・オペラ座という次第なのです。
バスティーユ・オペラの設計者は、やはりというか、その後まったく鳴かず飛ばず(のはず)ですが、このオペラ座の最初の音楽監督に選出されたチョン・ミョンフン鄭明勲、本来はピアニスト)は、その後、ヴァイオリニストの姉のキョンファ(京和)、チェリストの弟ミョンファ(明和)と共に、世界的な活躍を続けていることは周知のことでしょう。明らかに固有の才能というものが紛れもなく表出されてしまう音楽と、見よう見まねや単なる知識をまぶすことによって誰にも、いかようにも表現できてしまう、所詮は複合的な表現手段に過ぎない建築の違いを、まざまざと思い知らされるような話でした。



今日のYoutube
西馬音内盆踊り

久米宏がキャスターを務めていた時のニュース・ステーションで、この祭りが生中継されたときのショックは今でも忘れることができない。女性たちが編み笠や彦三(ひこさ)頭巾という黒い布で完全に顔を隠して踊るさまは、少なくとも日本国内には他に類例がない祭りのように私には思えた。何しろ畏るべき異形の建築家、渡辺豊和の出身地、秋田県なのだ。しかも西馬音内(にしもない)という地名、馬音内も東馬音内もないというのだから、明らかに当て字だろう。これほどの異様な祭りが何の脈絡もなしに突然に発生したとは到底考えられない。なのに残されているのは単なる伝承だけで、文書は何一つ残されていないという。以前、渡辺にこの祭りのことを尋ねてみたことがあるが、これについては彼も何も知らないようだった。そんなことはとっくに誰かがやっているだろうが、この祭りのルーツを探ってみたいという誘惑を私は抑えられないでいる。


顔を隠して踊る女性たちにも驚いたが、ミ(♭)ーソーミ(♮)ソーラシラー、シーソラーシドシーラソミーと始まるメロディにもビックリした。ここしばらく民謡というものについて素人ながらの蘊蓄を少しばかり垂れてきたが、それはこのメロディの異様さを際立たせるという密かなワルダクミもあったからだ。ミ(♭)で始まるような民謡を持つ民族なり地域があれば、それだけでこの祭りのルーツの場所を特定できてしまうことだろう。それほどに異例中の異例のメロディだと私は思う。


この驚くべき♯や♭の、乱舞!


ちあきなおみ   「夜へ急ぐ人

これがあの紅白歌合戦で歌われたとは。この頃はまだ日本の大衆文化もちゃんとした血脈をさまざまに保っていて、紅白歌合戦というプログラムも、長らく日本人全体の祭りともいうべき機会になっていたと思うのだが、それがいつしか、私自身は一瞬たりとも目にしたくないというようなものに変わり果てていた。もう20年ほど、この時間、私はTVを観ていない。
それにしてもここで歌われている世界は、なんと上の西馬音内盆踊りと多く共通したものを感じさせることだろう。

住まいの原型を探る2009(2)

追記、というよりも追加(Youtube 2曲)あり(12月7日〇時25分)。

サイドバーのデザインをシンプルにしました。(12月7日9時30分)。


先月末の29日(日)、また偶然にしてはちょっと出来過ぎと思うようなことが起こった。
26日、愛知県のマツイ夫妻から、12月17日に日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会が『ガリシア・デー』という催し物をやるのでまた一緒に参加しないかという誘いのメールをもらっていた。すぐに返事をすればいいものを、最近の私はこんな些細なことでもとても億劫になってしまっている。
ところが土曜日や日曜日になると、他の人たちも休んでいるということで私も少しは気分が楽になる。日曜日の午後になって、メールの遣り取りなどというまどろっこしい方法でなく、マツイ氏に直接電話をかけてみることにした。
すぐに電話に出たマツイ氏に、『ガリシア・デー』には参加できそうにないけれど、一度大阪に遊びに来ませんかと誘ってみた。今まで何度も彼らのところにうかがってはいろいろとお世話になっていたからだ。
「実はいま大阪にいるんです。」
先頃、南港にできたスウェーデン資本の巨大家具店に、クライアントと一緒に来ているのだという。そのあまりのタイミングのよさに、電話の向こう側とこちら側でどちらもが同じように驚いた。
昨年の10月8日の日記でも、同じようなことを書いたが、ことカミーノに関する限り、このような<奇跡>はいまだに続いている。
夕方、クライアントと別れた彼らと、難波で落ち合った。マツイ夫妻は、もちろんこれが初めてという訳ではないだろうが、大阪にはほとんど来たことがないというようなことをいった。本当は泊まっていきたいところだけれど、明日は朝から予定が一杯詰まっているのでどうしても今夜帰らなければならないという。年内に何とか時間を工面してもう一度大阪に来てもらうことにして、その夜は食事だけ一緒にすることになった。
こんな時に私がよく使うふぐ料理店にお二人を案内した。などと書くと、私がトンでもないお金持ちのように思われてしまうかもしれないが、何を隠そう、実際私は大金持なのです。というようなことなどあるはずもなく、大阪でふぐというのはとりたてて高級料理(もちろんそんな店もない訳ではないが、そんなところには私は入ったことがない)というようなものではなく、私のような者でも気軽に入れる店はいくらもある。とりわけ私のお気に入りのこの店は、とにかく新鮮で美味しく、またサービスも店員の態度もいつもとてもいい。秋たけなわの頃には、これをお鍋の中に入れさせていただいてもかまわないでしょうかなどといって、突然、サービスとは思えないような量の松茸を持ってきてくれたり、この夜は、大皿に盛られたてっちりの材料の中に、普通は特別に注文しないと入るはずのない白子がそれとなく隠されていた。お二人ともふぐは初めてだったらしく、その美味しさにビックリされていた(と思う)。 大阪の食文化の底力をあもみたらアカンデ、ふん!



おととい(12月2日)の夕方、ここ何年も味わったことがないようなとても気持ちのよい時間を私は過ごすことができた。さる商店街(特に名は伏す)を自転車で通過していると、とある整骨院の前で、白衣を着た二人の男性が、マッサージはいかがですかー、と通りがかりの人たちに声をかけていた。このときはホームセンターに買い物に行った帰途だったが、行くときも同じように声を上げていて、よほど評判の悪いヒマな医院なのだろうと私は思っていた。当然、私にも声をかけてきたが、それを無視して彼らの前を通り過ぎたことはいうまでもない。
ところがその後に続いた言葉に思わず私は自転車をUターンさせてしまっていた。慢性肩凝り症で腰痛持ち、3週間ほど前に1年ぶりぐらいで見舞われたぎっくり腰の新鮮な痛みもまだたっぷりと残っていた。そんな我が身が、30分300円ですよーという呼び声にビビビッと反応してしまったのであった。私の大金持ちぶりがいかなる程度のものであるか、この一事をもってしてたちまちツマビラカになったことであろう。
これはかなり粗雑な扱いを受けることになるかもしれないという五抹ぐらいの不安を抱きながらも、時間は十分にあったので、ものは試しと中に入った。
一室空間の内部は人々でごった返していた。施術台(でいいのかな?)が10台ほど並び、そのすべてに俯せのまま横たわった人たち、そして周囲にいる人たちと冗談を交わしながらマッサージをする施術師たち。そこは、とても陽気で和やかな雰囲気で一杯の空間であった。
受付けの男性が、保険証を持っているかと私に確認する。昨年から大阪市の保険証はカード式になり、だからいつも財布の中に入れておくことができるようになっていた。単なる肩凝りをほぐしたりするようなマッサージには健康保険は適用されないはずだが、痛みや、生活に支障の出るような筋肉や骨の問題なら適用されるものもある。だから、これは単に私の邪推に過ぎないが、ここに来る者は誰にも保険が適用できるよう、それにふさわしい症状を見つけ出すべく受付けでまず問診票を手渡され、筋肉や骨に関する問題点を洗いざらい書かされた。一時は腕を伸ばすことすらできず、まだ完全には治りきっていない右の五十肩、靴下を履きにくくなってきた左脚のこわばり、最近になって出てきた右アキレス腱の痛み、一昨年のサンティアーゴ巡礼以来いまだに残っている両足指の痺れ、等々。保険が適用されるにふさわしい資格は私にも十分すぎるほどにあった。
施術師は、3,40代くらいの女性が2名と、若いイケメン(風?)から屈強そうであったり超おでぶさんであったりする男性が約10名。それぞれの持つ力や特技などによって、担当する客、ではなくて患者に、適材適所、院長が振り分けていっているようだった。そのうちの一人はなんと顔がとてもワイセツであるらしく、みんなからその顔にはいつもモザイクをかけておくようにと忠告されていた。どんな顔なのかと思ったが、残念ながら施術師は全員インフルエンザ予防のためのマスクを着用していた。

さて。まず私は椅子に座らされ、受付けをしていた男性(あとでこの人物が院長であることが分かった)に、肩のマッサージを受けた。少し力を入れようとするときには、必ず痛くないかと尋ねてくれた。痛いどころか、こんな快適を保険で賄ってくれるということが申し訳ないほどであった。私の目の前で、若い男性が、俯せになったお婆さんの腿の裏側を揉んでいた。
パクさん(※)、これはひどい、普通の張り方やないやないですか。
しゃあないやん、一日中立ちっぱなしで仕事してんねんやから。
私のそばに、杖をついた80歳くらいの老人がやってきた。自分の担当者に、どや、今日はこんだけ歩いたんやと腰にぶら下げた万歩計を自慢気に見せた。うわっ、すごっ、と担当者も嬉しそうにそれに応えた。マッサージの終わったパクさんが施術台から降りようとして、予想外に身軽に動けたことを自分でも驚いていた。
次に私は他の人たちと同じように施術台に俯せにされ、存分に腰や膝を揉まれた。今度の私の担当者は、マスクからはみ出た顔の部分と頭髪の状態が、先頃惜しまれて亡くなった忌野清志郎に似ていた。隣りの台では、中年とおぼしき女性(私も向こうも俯せになっているので定かではない)が、チョワヨという言葉の意味と使い方について、自分の施術師に訛り言葉で説明していた。私の聞こえた範囲で要約すると、英語のgoodやnice、I likeといった意味を柔軟に併せ持つ韓国語で、おそらく施術師が痛くありませんかと尋ねて、彼女の口を突いて出たのがそのチョワヨ!だったのだろう。まわりの施術師たちが早くも自分たちの会話の中にそのチョワヨ!を挟み込み始めた。
客、ではなくて患者たちは入れ替わり立ち替わりやってきた。この商店街でつましく生活する人たちにとって、ここがいかに得難い貴重な場所になっているか、初めての私にもそのことが手に取るように分かる30分であった。客、ではなくて患者たちのほとんどが相当の老人だったので、よもやそんな方は一人もいないと思うが、たとえ高価なマッサージ・チェアを買う代わりに毎日ここに通う人がいたとしても、そして結局はそんなために税金が使われることになっているのだとしても、その使われ方を断固私は支持する。もしあの事業仕分けか何かでこの店、ではなくて整骨院のことが槍玉に挙げられるようなことにでもなれば、私は先頭に立って抗議活動をしてやろう。
ホンマに300円でええの?と思わず確認しながら支払いを済ませた帰り途、私はすっかり身も心も爽快になっていた。いうまでもなくそれは、受けた治療(!)のせいばかりでなく、とりわけ、在特会などという団体がこの頃になってあちこちで引き起こしている忌まわしい事柄とはおよそ対極にあるような、実に豊かで心和む時間と空間を堪能できたからでもあった。政治主導でこんなにも自然で何のわだかまりもない民間の国際交流を実現しようとすれば、いったいどれほどの予算が計上されなければならないだろうか。というより、そもそもどんな予算と政策、教育によっても、このような光景を全国で見られるようになるには、まだ気の遠くなるような時間がこの国には必要だろう。大阪の下町文化の底力を思い知るがよい。

※つまり、朴さん、漢字表記すればこうなる。






最初の朝、今までは基本的な事柄だけを学生に伝え、あとは彼らのなすがままに任せていたが、今年のホンダ先生はずっとつきっきりであった。私は昨年と同じく、司厨長に専念していた。この日の朝食は、一口食べるとみんな目を丸くしてウマァと口に出さずにはいられなくなる(らしい)argon特製のホット・ドッグ。私が担当する食事のメニューと食材は、すべて大阪で用意し、必要なものは下ごしらえを済ませてきてあった。
因みに、argon特製ホット・ドッグのレシピ。というほどのものでもない。      キャベツを太めの千切りにし、塩コショー、カレー粉(なるだけ辛口のものを)で炒めてロールパンにたっぷりと挟み、その上に粗挽きソーセージを載せてオーブン・トースターで焼く。昔、大学に通っていた頃、JR(当時は国鉄)の天王寺駅の構内にあったコーヒー・スタンドで、このカレー風味のホット・ドッグの味を知った。万年不眠症の私は、特にコーヒーに対しては猜疑心が強く、滅多に飲まないのだが、このホット・ドッグの時だけは別。ゆで卵と食塩、に匹敵するほどの相性の良さ。





時折、雪がちらついたりして今年も概して天気はあまりよくなかったが、ほんの少しの間だけ、北アルプスの峰々がお顔をお見せ下さった。ちょっと珍しい写真だと自分でも思う。






昨年の学生たちの遺産を基にして、作業は続く。                     なかなか面白いものになりそうだとホンダ先生は少し興奮気味であった。





ここに来て2度目の晩餐、おでん。具は大根、コンニャク、ゴボ天、チクワ、ガンモドキ、スジ、タマゴ。大根とコンニャクは大阪で先に丸一日煮込んできた。
この日の昼は、学生が用意していたまたもやちゃんこ鍋。今年の学生は、飲み物にはただならぬ拘りを見せたが、自分たちの用意してきた食事には、いたって無頓着であった。アルコール類は、女子学生のひとりがもの凄い酒豪で、彼女が一手に引き受けていて、いろんなものが十分すぎるほどに用意されていた。ビールはもとより、焼酎、ワイン、ウィスキー、テキーラ、等々。なんとその女子学生は私の高校の後輩であった。あっぱれというべきか、不肖というべきか。





前日、暗くなるまで頑張ったせいで、ほぼ今年の目標としていた姿にまで出来上がった。





正面右寄りの開口部が入り口。私が途中で見に来たときは、あのようなアーチ状の枝は取り付けられていなかった。きっと誰かが、ハッと気付き、ある確信的な思いを持ってやったことなのだろう。あの枝が取り付けられたことによって、つまり単なる大きなアキでしかなかった部分に入り口という記号性が付与されたことによって、子供の遊びの延長のようにしか見えていなかったこの意味不明な空間は、一挙に建築という制度を獲得することになった。それはホンダ先生の思いが四回目の試行にして漸く結実した瞬間であった。授業時間に教科書的に教えられても到底理解できないであろうようなことを、この学生たちは身をもって体験し、その認識をそれぞれの血肉に深く埋め込んでいくことになるだろう。







建築という制度を獲得したことによって、それまではその場凌ぎのナイーヴな要素にしか見えなかったものたちが、劇的にその性格を変えていく。もうすでに借景などという複雑、高等な概念までが芽生え始めているではないか。





この写真では分かりにくいが、奥左側の林道に張り出した床のような部分は、昨年のものがそのまま手を付けられずに残された。だが、もはや昨年のものとはまったくその本質を異にしてしまっている。俄然、バルコニー、テラスといった建築制度的意味を露わにし始めた。






辛うじて紅葉(黄茶葉?)が僅かに残っていた。





広葉樹による黒イモリ、ではなくて黒い森。ドイツ語ならシュヴァルツ・ヴァルト。





最後の晩餐は昨年と同じパエリャとタンドーリ・チキン。どちらも昨年よりは美味しく出来上がった(と思う)が、私の本当の腕前からすればコンナモノ、まだまだ序の口だ。写真撮影のために蓋を取ったが、水分がなくなるまで囲炉裏で加熱し続ける。今年はムール貝をたっぷりと用意することができた。

私の料理の腕前を甘く見てはいけない。
来年の学生さぁん、来年はここでてっちりですよー。





惜しむらくは、これが林道に面した立地にではなく、森の奥深くといったところにあればもっとよかった。以前、ある芸術系の大学で建築を教えていたとき、『森の中で出会ったもの』という課題を出したことがある。驚くべき興味深い案がいっぱい出てきた。そんな課題を考え出すきっかけになったのは、10度以上行っている屋久島での森の凄さ、そして結晶化したように神秘的な空間をいたるところで体験していたからだ。それと、子供の頃に観た、オードリー・ヘップバーンアンソニー・パーキンスという人間離れしたような二人が出ていた映画、『緑の館』。それとやはり子供の頃に観た、葉山良二と月丘夢路の出ていた映画『白夜の妖女』。これは泉鏡花の『高野聖』を映画化したものであったことを大人になってから知った。



今日のYoutube
チョ・ヨンピル      「恨五百年」   

私もSIVAさんと同じく(またもや!)、昔、事務所で一人で徹夜していて、夜中にFM放送から突然流れてきたこのチョ・ヨンピルの歌に、戦慄のようなものが走るのを感じたことがある。
このいかにも複雑そうに聞こえる曲も、やはり民謡の証しで、よく聴いてみると、♯や♭は一切使われていない。音楽学の世界では常識のことなのかもしれないが、世界各地の民謡は、僅か七音(か、それ以下)の組み合わせ(もちろん例外も少なくはないだろうが)でかくも多様な特性を生み出しているのだ。


Supersax 「Salt Peanuts」

高校のときの音楽の授業でベートーヴェンの『神の栄光』という合唱曲を歌わされた。そのとき、ユニゾンの持つ異様な力に目覚めた。
で、ついでにその曲も。

L.V.ベートーヴェン    「神の栄光(Die Himmel Ruhmen)」

住まいの原型を探る2009(1)

昨年より3週間ほど遅く、もはや私にとっても恒例行事となった感のある長野県の山奥に行ってきた。先週木曜日深夜、またホンダ氏と二人で難波を出発した。昨年は学生と合流することになっていた大津サービス・エリアで車から降りて、いきなり肌を刺すような寒さを感じたが、今年は2,3日前からかなりの寒波の中にあった。現地はてっきり雪になっているだろうと私は思っていた。きのうも書いたように、この時期、私は特にメランコリーがひどくなり、そんな寒さもあって、折角ホンダ氏が気を遣って誘ってくれていたけれど、内心は出かけるのが少々億劫になっていないでもなかった。だが今は、行ってきて本当によかったと心からそう思っている。
学生は、昨年とよく似たメンバー構成だった。この時期、四回生と院二回生は卒論や修論に忙しく、従って参加者は三回生と院一回生で構成され、女子は昨年と同じく2名であった。三回生が3名、院生が6名、我々老人2人を入れて合計11名が3台の車に分乗し、午前1時半頃大津サービス・エリアを出発した。
最後の急傾斜の林道で、学生の運転してきた車の一台がぬかるみでスリップし、左前輪を崖側に脱輪させてあわやのとろこで引っかかった。このあたりではよくあることらしいのだが、JAFのお出ましを願った。そんなこともあって予定よりかなり遅れて現地に到着した。心配していた雪はまったくなかった。人里からひどく離れた場所にあるので、もっと高地なのかと思っていたが、それほどでもないのだろう。
昨年と全く変わらない佇まい。私もほっとする。冬の間に屋根に積もった雪が北側だけに長く残り、その偏った重みで建物全体が山側に少し傾いている。
今年は仮眠も取らず、昼食もなし。学生たちには屋内の清掃と、前庭に延び放題になっていた雑草を刈って整理させ、その間、ホンダ先生と私は森の中に入り、今年の指導方針を相談する。昨年までは学生たちの自主決定に任せてきたが、それでは毎年、一からの出発になり、結局は似たようなことの繰り返しになってしまう。だから今年は少しこちらで後押しをしてみよう、そういう結論になった。幸い、大きな材で作られていた昨年の作品は、予想していた通り、雪の重みに耐えてほとんどそのままの形で残っていた。今年の学生たちにはそれを基本に出発させることになった。






昨年より3週間遅かったせいで紅葉もすっかり終わり、かなりの落葉が屋根に降り注いでいた。





そんな道具を使うのはもちろん初めてなのだろうが、何人かの男子学生が鎌や鍬を使って前庭に繁茂していた雑草を刈り取っていた。





今年初めて男子用の小便場が玄関前に正式に設置された。崖下に向かって尿(いばり)する。何しろここは信州なのだ。村山槐多の絵(http://images.google.co.jp/imglanding?imgurl=http://14.media.tumblr.com/tumblr_kr51thurdx1qzxv72o1_500.jpg&imgrefurl=http://globalhead.tumblr.com/&usg=__JlyofMkAhlwvNVwlIb095_anuxE%3D&h=672&w=500&sz=172&hl=ja&um=1&tbnid=cBfKRBIJt48e1M:&tbnh=138&tbnw=103&prev=/images%3Fq%3D%25E6%259D%2591%25E5%25B1%25B1%25E6%25A7%2590%25E5%25A4%259A%26ndsp%3D21%26hl%3Dja%26lr%3D%26sa%3DN%26start%3D42%26um%3D1&q=%E6%9D%91%E5%B1%B1%E6%A7%90%E5%A4%9A&ndsp=21&lr=&sa=N&start=58&um=1)(※)の気分が少し味わえる。





昨年までの学生は最小限の飲料水を用意していただけであったが、今年の学生たちはかくも大量のペットボトルを持ち込んだ。それも水だけでなく、コーラ、サイダー、ジンジャーエール、レモンティー、烏龍茶、緑茶。種類も実に多岐にわたっていた。





昨年の学生たちの労作がびくともしないでそのまま残っていた。





この日の夕食は学生たちの用意したちゃんこ鍋。とても美味しかった。特にこのようにして食べたフランクフルト・ソーセージは意外なほどにイケていた。





普段はまわりを気にしておそるおそるしか練習できなかったアルト・サックスを、ここでは存分に吹けるだろうと思って持参していた。私は強く誇示、ではなくて固辞したかったのだが、彼らのたっての願いで拙い腕前を披露させていただいた。ホンダ先生や横の学生が畏まりながらもうっとりと聴いているのは、ほんの軽くマスターできてしまっていたバッハの『無伴奏チェロソナタ』。ウソです。大ウソです。本当はトーオキーヤーマニーヒーワオーチテー、というあのメロディを息も絶えだえに。みんな呆れてうつむいてしまった。



今年の学生はこんなものまで持ち込んで、夜更けの大ロック・コンサートが開かれた。ほとんどの学生がiPhoneの使用者で、それぞれのiPodの音楽を流しながら、この学生がiPhoneのディスク・ジョッキー用アプリケーションから出るエフェクト・サウンドとミキシングをしていた。私にとっては20年後、彼らにとっては20年前といったスタイリスティックなどもかかっていて、その辺が接点となり、ならば私もと、私のiPhoneに入っているローランド・カークやマウンテンなどを聴かせてやった。その驚くべきハードさに、彼らも少し参ったようだった。フン!我々の世代の底力を甘く見てはいけないゼ。




※ 信濃デッサン館に所蔵されている。



今日のYouTube
ローランド・カーク    エリック・クラプトンバディ・ガイジャック・ブルースらとのジャム・セッション 1969

クラプトンのこの若さ!



マウンテン     ドント・ルック・アラウンド

危機脱出

私、ブログやってます、などとエラそうなことはとてもいえないほど更新間隔が間遠になってしまっている。
この前の更新日が9月1日、なんとほぼ3ヶ月もあいてしまっていた。
この3ヶ月、昨年もこの時期はそうであったが、実はかなり難儀な日々を私は送っていた。ずっと超低空飛行のような精神状態が続き、それでもそれ以上の落下を防ぐべく、ひたすらモノ作りに私は打ち込んでいた。今もほとんど身動きができない長女のため、ある椅子を作ることに必死になっていた。
亡き母が通っていた教会の友人であった方の娘さんが、看護師をなさっているのだが、以前から長女のことで実にいろいろと心をくだいて下さっていて、その方から今年の春、音楽療法の研究会が芦屋市であるという案内を頂いた。
それに出席し、野田燎という方の講演に私は驚いた。現代日本名にし負う前衛ジャズ・ミュージシャンにして大阪芸大教授、しかも医学博士。その野田氏が実践されている療法のビデオを見せていただいた。全く何の表情も生気も感じられない老年の女性をトランポリンに座らせ、野田氏が背後からその女性の上半身を抱え、まわりの人たちの演奏する音楽に合わせて上下運動をする。野田氏は汗だくであった。
何度かそのようなことが繰り返されたのだろう、次のシーンでは、老女は見違えるように生き生きとした表情を見せ、トランポリンのまわりで歌う孫たちに笑顔で応えていた。
だが、私の娘はまだ到底トランポリンに載せてやれるというような状態ではない。第一、事故に遭ってから5つの病院を転々とし、ようやく3年半ぶりに彼女は自分の家に戻ることはできたけれど、あのような大きさのトランポリンを置くことのできるスペースは我が家にはない。そこで私は、車椅子には座らせてやることができるのだから、空気バネで上下する椅子を作ってやろうと思い立った。これだと、介護する者も後ろから立ったままでできる。ついでに野田氏と同じアルト・サックスも練習しよう。
アルミパイプ、ステンレスパイプ、ビニールパイプ、ゴム板、ゴムチューブ、グリース、エンジンオイル、毎日のようにホームセンターに通ってはこれだと思う材料を私は買い求め、作っては失敗し、まだこれでは駄目だとやり直しをし、おそらく20回はそうしたことを繰り返しただろう。つまりこれで大丈夫だと思うものが出来上がるまでに半年ほどの時間を要してしまったということだ。その間、私はメランコリーではなくまさにパラノイアになっていた。
だが、私の娘を座らせることのできる車椅子は、彼女のような状態の者を座らせることに特化して作られていた。いまだ据わらない首を優しく受け止めて固定し、固くなった下肢を支える足受けがあるからこそ彼女をそれに乗せて散歩などさせてやることができていたのだ。私の作っていたのは、娘の喜びそうな色彩とデザインの既製品を、脚を空気バネ式に付け替えただけのものであった。出来上がった椅子に娘を座らせてやることはできなかった。
9月初め、昨年もそうであったが、彼女が事故に遭った日付けの頃から、極端な不眠症に私は陥った。それまでに効いていた薬は全く効かなくなっていた。通院している神経内科医も私の訴えに心悩ませ、次々と新しい薬を処方してくれた。それでも事態は改善されたとはいえず、ただどれかの薬の副作用で、その薬を服用していた期間、食事の量は極端に減っていたはずなのに、毎日1キロずつ増えていくかのように私は肥満し始めた。子供の頃から、ゴボウ、キュウリ、センタクイタなど、あらゆる痩せてひょろひょろな体形を表すあだ名を私は頂戴していた。だからある頃まで私は太っている人が羨ましくてしようがなかった。

ところがあるとき。
お風呂に入ろうとして鏡に映った我が身を見て我が眼を疑った。私のスマートであるはずのおなかが、カエルのように白く膨らんでいた。ただでさえ小食になっていたのに、もっと小食を私は心がけなければならなくなった。が、しばらくして副作用の犯人をおそらくこれだとやっと特定することができ(数種類の睡眠用の薬を私は処方されていた)、周りの人たちをからかうために私が好んで用いていたでぶという言葉を、まさか自分が受ける羽目になるとは、という絶体絶命のピンチから辛うじて私は脱出することができた。しかも私たち家族にとって、あの忌まわしい9月初めという時期から遠ざかるにつれ、不眠症も少しずつ改善され始めた。
今日、やっとこのエントリーを書くことができたのは、だがそれだけでなく、ホンダ氏が、また例のあれに誘ってくれたからだ。その顛末については明日書きます。必ず!




出来上がった、まだ今は不要の音楽療法用空気バネ式椅子。その裏側。本当はこんな汚いところは見ては駄目。





自転車のチューブの空気入れの部分を転用し、空気圧を調整することができる。軽く押すだけでふわふわと上下する。





横からの可憐な姿。




オシャレな正面。可憐な私の娘は、いつか必ずこれに座る。





ネットで購入したアルト・サックス。メーカー名は『ジュピター』。よって同名の曲が真っ先に私のレパートリーに入った。他に、『ダニー・ボーイ』、『グリーン・スリーヴズ』、『春の日の花と輝く』など多数(!?)




今日のYoutube
ホルスト  組曲(惑星)より(木星ジュピター)

近況、といよりも経過報告

前回のエントリーで、nagonaguさんから頂いた二度目のコメントに対して書いたように、一ヶ月ほど前、少し気が滅入ることがあり、服用している薬の種類や量がかなり増えた。そのせいかどうか分からないが、どうも意識の状態が少し変わったようで、そんなことは滅多にするような人間ではないのに、衝動買いというものに走ってしまった。大人のおもちゃ、おっとー、ではなくて、おもちゃの大人買いなるものをやってしまったのである。nagonaguさんへのレスにも書いたように、ギターの自作キットを始め、いわゆる知恵の輪や立体パズルというもので面白そうなものをネットで片っ端から注文した。知恵の輪やパズル類はすぐにできてしまったものもあれば、まだ一度も手を付けていないものもある。ギターは、そんなものを作るなど初めてのことなのに、ナマイキにも初心者用などちゃんちゃらおかしいと見向きもせず、上級者用のものを購入した。結果は、言うまでもなく、実に立派に、素晴らしく、美しく、華麗に、ほれぼれとするような仕上がりとなった。これで、もうウェス・モンゴメリーばり(ウソ)のオクターヴ奏法をやっても、見事に音がシンクロナイズする。今までの安物のギターでは、同じ音のはずが、オクターヴ離れると情けなくなるほど音がずれてしまっていたのであった。
ここからはさらに激しく自慢めいた話になるので、覚悟して読んでいただきたい。立体パズル類は、ルービック・キューブの進化版を3種類買った。一つは、基本的な構造は従来のものと同じであるが、それぞれのグリッドの巾が3列とも異なっていて、しかも従来のように各面をカラーで識別するようになっているのではなく、すべての面が同じミラー風の仕上げになっている。まだ手を付けていないが、これはかなり手強そうだ。
二つ目はルービック・リベンジというもので、グリッドが3×3×3でなく4×4×4の構成になっていて、それ以外は従来のものと同じである。相当以前から世間に出回っていたもので、一度これを触ると、3×3×3のものが、ウソのように単純なものに見えてしまう。だけど解法(人によってそれぞれ違うのだろうが)は、私の場合は基本的にはほぼ同じことを少しアレンジを加えてやれば簡単にできてしまう。といっても時間は3×3×3(私の場合は2〜3分)の10倍くらいはかかる。
三つ目がルービック・プロフェッサーという名の5×5×5のバージョンである。これも、数年前、友人が買ったものを借りてやってみたのだが、ほぼ最後の一手か二手のところあたりまでいったところで方向を見失ってしまい、そのときはできずじまいであった。今回、これをやるために他のいろんなものと一緒に大人買いをしてしまったようなものだが、いま、他にいろんなことをやり過ぎていて、まだこれも触れずじまいである。だが必ずやり遂げる自信はある。おそらく半日か一日がかりの作業になるだろうが。
打ち合わせ用テーブルは、引っ越し直後に自作したのだが、出来が全然良くなく、近いうちに作り直す予定を立てている。今度こそきっと目を瞠るようなものができ上がるはず(の予定)だ。そのテーブル用の椅子の試作品を、これはステンレスの熔接を必要とするので自作という訳にはいかず、フレーム作りをタケチさんに頼んでいたものがきのう出来上がってきた。予想していたとおり驚くべき美しさであったが、なにぶん、使用したステンレス棒が細すぎて、椅子としては強度が不足していることが判明したので、今日、10ミリ筋を16ミリ筋でもう一度作り直して欲しいと頼んだ。
上にも書いたように、いま同時にいろんなものを作っていて、その一つがコンパクトにトランポリン代わりになるようなものである。これは病床にある娘のためのものである。なぜそんなものをということに関しては、次回、無事に出来上がってここで披露する時に詳しく説明をさせていただこうと思う。
前回のコメント欄で、その用具をより効果的にするために安物のアルト・サックスを一本買い、練習中であると述べたが、それも併せて次回で説明させて頂きます。オドロクナカレ、私の天才は、早くもKnny Gばりのメロディを奏で始めているのである(ウソ、ウソ、ウソ)。
今、最も力を入れているのが、ガラスを使ったあるもの。これが思い通りに出来上がれば、しばらくガラス細工にのめり込みそうな予感もする。だが、主に木工用の機械をガラスに使用しているので、機械が故障ばかり起こし、最も時間を取られているのがその機械の修理という有り様なのであります。しかもガラスを触ってばかりいるので、皮の手袋を用意してはいるもののつい面倒になって素手でガラスを触っては、しょっちゅう、手先が血みどろになっているという次第。だから、アルト・サックスの練習にはさして問題はないものの、残念ながらウェス・モンゴメリーばりのギター演奏は到底無理というような現在である。



今日のYoutube
Wes Montgomery 「A Day In The Life」

Kenny G 「If」

再会、再開

この先、どこまで回復するかの目途も立たない娘を抱え、薄氷を踏むような生活が始まってからもうすぐ4年になる。私自身、何とかまともな生活を送るべく、絶えず際どいバランスを保つ努力はしているつもりだが、途切れることなくそうした緊張が続いていると、知らずのうちに弛緩して思わぬ危険地帯に流されそうになることもある。あるいは外的条件による負荷が加わって薄氷がミシミシと音を立てるようなことも往々にして起こる。ここしばらくそんな条件が重なり、負担を軽減しなければとつい本能的に判断し、このブログを閉鎖状態にするという行動に出てしまっていた。
先週の金曜日、名古屋のドケ君が大阪にまで遊びに来てくれた。久しぶりにたっぷりと話し込んだ。何度も書くけれど、どうしてここまでというほど、相当に歳が離れているにもかかわらず彼とは本当によく話が合う。次の日、名古屋に帰る彼と一緒の新幹線に乗り、私は東京に向かった。ドケ君よりもっと若いマツイ夫妻から、NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会という組織の設立一周年記念の会があるから一緒に出ないかと誘われていたのだった。会員でなくとも参加自由であるという。私は午後3時からの立食パーティに参加しただけだったが、マツイ夫妻は前日の夜行バスで着いていて、午前中に上映された『Within the Way Without 〜内なる道を求めて〜』という映画も観たという。とてもいい映画だったらしい。ブラジル人女性、オランダ人男性、そして日本の俳人黛まどかさんの3人の巡礼行を、それぞれの精神的な内面にまで踏み込んで撮影したドキュメンタリー映画だという。いま調べてみると、ナレーションを担当しているのが何とリチャード・アッテンボローだった。『ガンジー』でアカデミー監督賞を受賞した人物だ。だが監督としてよりも俳優としてのアッテンボローが私は大好きだ。弟はB.B.C.の動物もののドキュメンタリーなどでよく知られたデヴィッド・アッテンボロー。だがマツイ夫妻から聞かされて何より驚いたのは、一昨年のカミーノ行で私にしみじみとした印象を残してくれたビトリーノが登場していたということであった。DVDやヴィデオとして製品化されてはいないようだが、何とかして手に入れてみたいと思う。
会が開かれたのは、おそらくカトリックに関係しているからだろうと思うのだが、丹下健三の設計した東京カテドラルだった。実際に見るのは初めてだった。丹下の円熟期に設計されたもので、さすがに力感に溢れた名建築であった。むしろ、微々たる教徒しかいない日本には過ぎたるものだという批判さえあったという。ただ、あれが丹下本人の意向であったのかどうかは分からないが、内部は、そこここに配置された強烈な点光源が邪魔をして、十字架状のスカイライトから光が降り注ぐという荘厳さはあまり感じられなかった。
その夜はマツイ夫妻と渋谷のスペイン料理店を2軒ハシゴした。出てきた料理はどれもスペインで食べたものよりずっと美味しかった。
昨年、東京に転勤したヨネ君(マツイ夫妻よりさらに若い)が、今日、大阪に出張で帰ってくることになっていて、10時過ぎからの会議に出ることになっているという。朝一番の新幹線に乗れば9時過ぎには大阪市内に着けるから1時間ぐらいは時間が取れそうだというので、彼の会社のそばの喫茶店で落ち合った。このところ、また1日の間に不眠症と過眠症が両方やってきていて、明るくなってからようやく眠りにつけるというような状況になっていた。だからそのまま眠らずに彼と会った。1時間あまり止めどなく喋り続けた。現在の私の状況をいろいろと心配してくれていて、親身になってアドヴァイスなどもしてくれた。ドケ君といい、マツイ夫妻といい、ヨネ君といい、どれほど若い人たちから助けてもらっていることだろう。今日、久しぶりにこのブログを再開する気分になったのも、間違いなく彼らのおかげだ。


今日のYoutube
Keith Jarret  「Danny Boy」

お気づきの方もおられるかもしれないが、先日、イギリス民謡の透明感溢れる美しさについて述べたり少し考えたりしていたこともあったので、このシリーズをしばらく続けてみようと思う。だからその代表的なこの曲をもう一度。誰が決めたことなのか知らないが、これが世界で一番美しいメロディであると聞いたことがある。本当は日本のジャズ・ピアニストの木住野佳子(きしのよしこ)さんの演奏が私は大好きなのだが、残念ながらYoutubeにはなかった。何の衒いもなく実に恬淡として、この上なく美しい演奏だ。それに較べればこのキース・ジャレットは少し余計なことをし過ぎではないかと私は思う。いかなる衒いも拒絶する美の力が、この曲にはあると思う。


Chanticleer   「Loch Lomond

lochというのは現代英語におけるlakeのこと。すなわちローモンド湖の自然美を謳ったスコットランドの民謡。因みにこの曲の日本語のタイトルは「五番街のマリー」(ウソ)。


Kenny G   「Auld Lang Syne」

別にこれで皆さんとお別れというわけではない。一般的にこの曲がかけられる場面の事情や条件がまず頭に思い浮かび、つい見過ごされがちになってしまっていると思うのだが、このメロディの美しさはいったいどういうことなのか、そしてこれを演奏するKenny Gが抱いているであろう心象風景の、これぞ明鏡止水とでもいうべき穏やかな静謐はいったいどういうことなのだ。